随筆集トップへ戻る

安曇野と私

安曇野は私の第二の故郷と言っても良い。安曇野との出会いは50年以上前に遡る。夏休みに高校の友人と大学受験勉強に本腰を入れるべくどこかよい所がないか探していた。幾つかの候補の中で有明(現在は安曇野市)にある曹洞宗の禅寺<正真院>に籠ることになった。親父の知り合いが正真院の檀家の長であった関係で話がとんとん進んだのである。当時は安曇野という言葉はあまり使われていなかったので有明の正真院と呼んでいた。北アルプスの燕岳への登り口中房温泉までは国鉄(今のJR)大糸線の有明駅からバスが出ていた。今では有明は廃れてしまい一つ松本よりの穂高が賑わっており今では中房温泉行きのバスも穂高駅から出ている。寺には方丈さん(住職)と奥さんそして二人の男の子が居た。寺は古く可なり傾いていましたが我々二人は池のある庭に面した一室を与えられた。池の向こう側には北アルプスからの雪解け水が勢い良く流れていた。暑い日はそこに足を入れて涼むのだが冷たくて長いことは足を入れていられない。勉強するには良かったのだがそこの住職は生臭坊主だったので最初は逃げ出したい気持ちになった。到着した日に先ず目に入ったのが住職の机の上にあった石原新太郎の「太陽の季節」だ。そして屋根裏部屋に行くとずらっーと「世界裸体全集」が並んでいる。それに参ったのは毎日4時半ごろから木魚を叩く音と読経だ。そして5時には我々には広くて長い廊下の雑巾かけが課せられる。これは大変なところに入ってしまったぞと友人と二人で何とか早々に引き上げる方法がないかと真剣に相談したものだ。ある時寺の飼い猫が百舌(もず)をくわえて座敷に飛び込んできた。百舌は羽をばたつかせて逃げ出そうとしている。和尚はそれを見て喜んで「もっとやれもっとやれ」と猫をけしかけているではないか。殺生を咎めるのが和尚の務めと思っていたので驚いた。それに殆ど毎晩のように我々に酒を勧めるのである。焼酎を始めて飲んだのがこの時だった。冷凍してある四角い鯨肉の塊を目の前の包丁で刻み酒の肴に食え食えと進めてくる。時には「蹴っ飛ばしの肉(馬肉)」になることもある。方丈の奥さん(実はこの方は後妻さんだったがとても出来た方であった)もいろいろと酒の肴になる田舎料理を作ってはすすめる。一週間ぐらいは驚くことが多くて一日も早く逃げ出したい気持ちであったが不思議なことにだんだんとこの

和尚の魅力に惹かれていくのであった。所詮人生なんてえものはなるようにしかならないのだからじたばたしてもしょうがない。 簡単に言えば「自然に任せて生きよ」と言うのがこの和尚の生き方であったのである。結局私と友は2週間程この寺の世話になった。最後の晩には送別会だと言って我々のためにすき焼きパーティーを開いてくれた。酒がどんどん振舞われ私と友人は酔いつぶれて寝てしまった。翌朝のことである。住職の奥さんが我々のところに来て言うではないか。「方丈さん(奥さんはいつも和尚のことをこう呼んでいた)があれから田舎芸者の所へ行ってしまい戻ってこないの。二人で迎えに行ってくれないかしら。」奥さんに描いてもらった地図を頼りに私と友人は田舎芸者に住みかを尋ねた。雨戸が閉まっていた。戸を叩くと目をこすりながら和尚が姿を現した。まだ酔いが醒めていないようである。「俺は何も悪いことはしておらんぞ」と言うと又引き込んでしまった。大した和尚である。この和尚との話はその後フランスの女流作家グン・ニーベリさんやアメリカの神学校の牧師の卵ノーマン・アラーズ君を連れて訪れた際の禅の珍問答や珍騒動やらいろいろあるのだがそれらの話は又と言うことにして話を先に進める。10年ほど経った頃、海外留学から戻って新婚生活を送っていた東京の私のもとに突然和尚が訪れた。「有明村が中房から温泉を引いて別荘地開発公社を作ったのだが私も理事にさせられた。いい場所だから是非買っておくといい」と言う。結婚前山好きの家内にいつか山の近くに家を持って見せると空約束をしていたこと、そして販売価格を聞くと無理して買えない事もない程度であったので120坪ほどの温泉つき土地を買うことにした。今から35年ほど前のことである。当時は中央高速も関越道もなかったので訪れるのが大変であったが今では高速道のおかげで3時間ちょっとで行けるので一年中行ったり来たりしている。ちなみに正真院の方は件の和尚のお孫さんが立派な和尚となり寺を切り盛りしている。