我が愛すべきぼろ車たち

 

<前書き>

今年2月にPriusを購入。これが私の所有第18台目の車である。所有した車を年代順に記すとダットサン(‘57)、フォード(‘57)、フィアット、コルベアー、VW、ブルーバード、マークII、ミラージュ、プレーリー、アコード、アメリカン・アコード、フェスティバ、コルサ、シビック、BMWRAV4、パジェロミニ、プリウスとなる。フィアット、フェスティバ、コルサとパジェロミニは主に家内が使用していた車である。二台目のフォードから4代目のコルベアまではアメリカ留学中のものでありVWはフランス滞在中に乗っていた車である。15万キロ以上乗ったのはアコードとRAV4である。すべての車にはそれぞれいろいろの思い出があるが特に思い出深い初代ダットサン、フォード、それにVWについての思い出を時間の許す限り記してみたい。

 

1.ダットサン

大学入学以前に運転免許証を取っていたのでどうしても車が欲しかった。最初は家庭教師のアルバイトで貯めた金でオートバイを買うことにしたのだが資金援助するから危険なオートバイでなく自動車にしてくれと親に言われる。結局1960年に1957年製のタクシー上がりのダットサンを22万円で買うことになった。車体は薄い青みがかったグレー色でシートは赤っぽいビニール製であった。確かエンジンが700CCぐらいの車でフロントガラスは平らな一枚ガラスであった。方向指示器は電気式ではなく運転席のノブを回すと車の側面からぴょこんと赤い方向指示板が飛び出すものだった。今でこそ中古車が安く買えるが当時はなかなかアルバイトで貯めた金で買えるようなものはなかったのである。毎朝エンジンオイルの残量をチェックし車の前面からクランク棒をエンジンに差込み手でぐいぐいと回してエンジンを起動させる。時にはエンジンルームを開きキャブレターの上部をはずし手のひらをかぶせてチョークさせないとエンジンが掛からない。慣れてくると手のひらの押さえ加減のコツがわかってきて直ぐにエンジンが掛かるようになる。ぼろ車ではあったが良く働いてくれた。機械科在学中にしばしばこの車で通学していたので記憶されている方もいるかもしれない。堀君設計の卒論用の実験装置をこの車で溶接所に運んだ思い出がある。最高時速は下り坂での84キロ、時速80キロ近辺での共振振動を起こすがそこまで加速して走ることはめったになかったので問題にはならなかった。

 

(1)ある時この車で小学校時代のクラスメート数名と山中湖までドライブすることになった。国道20号は未だ舗装が完全でなく何箇所も砂利道を通って何時間も掛けてお昼近くに山中湖に近づいた時であった。急にゴックン・ゴックンと音をたてて車体が揺れだし、アクセルを踏んでも力が出ずのろのろ走るだけであった。未熟なクラッチワークによって起るノッキングとは明らかに違う。それでも超低速でやっとのことで湖畔の整備工場へ持ち込んだ。整備士が何やらエンジン部をチェックしていたが「こりぁ駄目だ。シリンダーの一つに穴が開いている。これでは東京まで帰れないぞ」とのたまった。「シリンダーのオーバーホールをしてやるから暫く山中湖であそんでいなさい。」と言うが早いかエンジンを分解し始めた。23時間後戻ってくると「もう出来てるよ!」と言ってエンジンをかけてくれる。シリンダーの内壁を取り替えたと言う。当時は旧くなったエンジンはシリンダーのオーバーホールを行い又何年か乗り回したものである。今はそんなことはしないようだが時々何故だろうと思う。もっとも当時はタイヤも磨り減ってくると「山かけ」といって磨り減った面の上にタイヤのゴムを溶かし込み再使用したものだった。新品のタイヤに比べればもちは悪いがそれでも安いので私も山かけの再生タイヤを愛用していた。山中湖ドライブに参加した同級生みんなでシリンダーオーバーホールの手際のよさに感心することしきり。修理費がとてつもなく高いのではと心配していたが数人で割り勘したら気にならない金額だったので驚き。学生と思ってまけてくれたのかもしれない。感謝!感謝!の山中湖ドライブでした。

 

(2)又ある時中学・高校時代の同期の友人2人を誘い新潟県の高田市(現在の上越市)まで行ってみようということになった。確か国道17号で行ったと思うがあまり記憶に残っていないので高田市までのドライブにはあまり問題はなかったようである。夜になって高田市に着き宿を探して一泊。翌朝早起きして市内の旧遊郭跡を見学し長野へ向かう。長野からは山道に入り大町に向かった。この山道が何年も人が通っていないのではと思われるほどに荒れている。馬車の轍が深いうえに背丈の高い草で覆われており先が良く見通せない。今でも上田市から明科に抜ける青木峠と言うのがあって道を踏み外すと23百メートル下の谷底まで落ちて行き引き上げ不可能で何台もの自動車が谷底に転がっていると言うがその青木峠の未舗装版と思えばよい。

 

この山道では我が愛車は何度もエンストを起こした。そのつど皆で車を押し何とか悪路のドライブを続行する。峠のトンネルは岩をくりぬいたもので車がやっと通れる狭さであった。このトンネルをやっとのことで潜り抜けると後は大町まで下り道である。相変らずの悪路であるが下りなのでエンジンの負担が少なく何とか大町にたどり着く。その日は有明(今の安曇野市)まで進み知り合いの禅寺正真院に泊めてもらう。和尚に「明日は美ヶ原に登ってみましょう」と進められその気になる。翌朝早起きして寺に別れを告げ松本へ出る。美ヶ原への道路は直ぐ見つかった。山道に入ったのは朝8時であった。勿論砂利道である。30分程登ったところで我が愛車が突然悲鳴をあげだした。アクセルが利かない。いくら踏んでもふうふうふうと唸るだけで先に進まない。さあ困ったと3人して車の外に出て途方にくれていると小型トラックが上から下ってきた。田舎のお兄ちゃん風の若い運転手であったが我々に気が付きトラックを止めて近づいてきた。「どうしただ?」と聞くのでアクセルが利かないというとボネットを上げキャブレターを指差し「こりゃベーパーロック(vapor lock)ずら」と言った。ベーパーロックは通常はオーバーヒートで蒸気の膨らみがブレーキの油圧パイプの中に生じ油圧が効かなくなる現象を言うらしいがこの場合はその現象がエンジンに噴霧ガソリンを送り込むパイプ中に発生しエンジンに供給されるガソリンが極端に希薄となりエンジンが正常に機能しなくなることを指していた。「これはエンジンが冷えてくれば又正常に動き出すずら」と教えてくれたのであった。

 

若いトラックの運転手がベーパーロック現象を良く知っていたのは美ヶ原に登る車は良くこのトラブルに見舞われていたに違いない。そうと分かればエンジンが冷えるのを待つしかない。持参していたウクレレを持ち出し車のそばでしばし演奏して時間をつぶす。エンジンが正常に動き出すまで30分以上も掛かったのである。いかし、やっと動き出したと思ったら山道は益々急になり15分も登ると再びベーパーロックに見舞われた。今度は何とか早くエンジンを冷やすため3人手に手にビニール袋を持ち道路脇の登山道を谷まで下りて行き水を汲んできてははエンジンにかける。こんな作業を頂上に着くまでに45箇所で行いやっとのことで美ヶ原に着いたときはもう暗くなっていた。美しい筈の景色も見ることが出来なかったのである。今では松本から美ヶ原への道は舗装されていて(あたりまえだ)340分で上まで行けるのに我が愛車ダットサンは10時間も掛かったのであった。

 

その翌日は松本から東京に向かった。国道20号は殆ど舗装されていなかった。しかも伊勢湾台風の傷跡がいたるところで見られ道路は何箇所かで分断されていた。一箇所は橋が流されたままで川を渡るには川の流れの中を進まねばならなかったのである。我ら3人裸足になって流れの浅いところを探す。一番条件の良いところで幅約7メートル水深約15センチ程の所が見つかった。 川底はぼこぼこした岩である。こんなところを我がぼろ車は無事渡れるであろうか? 自信はなかったがここを通らなければ東京へは戻れない。運転する人間以外は外に出ていざと言う時に車を押す準備をする。イチカバチで車を川に突入させた。天への祈りが効いたかぼろ車はこの難所を突破したのである。何時間掛かったであろうか我々は夕方八王子にたどり着いた。八王子の町でちょっと車から出てタイヤを見て驚いた。四つのタイヤ全部磨り減ってゴムの部分が薄くなり下の布地が覗いていた。正にご苦労様我がダットサンであった。

 

(3)昭和355月2人の友人を誘い神戸まで行ってみようと言うことになった。東海道の国道1号線は未だ完全舗装になっていなかったので一日で何処まで行けるかは出てみないと分からなかった。 兎にかく早出をしようと出発の前夜は渋谷の友人宅に泊めてもらう事になった。朝4時友人宅を出発。五反田から第一京浜に入ったあたりで突然ギヤが固まりギアチェンジが出来なくなった。3速に入ったままである。ドライブを断念すべきか迷った。時間が早かったので車の流れは少ない。どうせどこかの修理工場へ持ち込まなければならないなら行ける所まで走ってみようということになった。先に見える信号が青になるタイミングを計りながら信号で止まらずにすむよう3速ギアの範囲内で速度を調節し数ある信号を潜り抜けなんと一度も停止することなく小田原までたどり着いたのである。

 

今ではとても信じがたい話だが事実である。小田原で国道1号線沿いにあった修理工場で車を止めた。診てもらうとディファレンシャルギアがいかれていることが分かった。修理を頼むと快く直ぐ修理をしてくれた。山中湖でのシリンダーのオーバーホールといいこの小田原でのディファレンシャルギアの修理といい迅速にかつ安い修理費で修理してくれたものと感心する。一時間もしない内に修理が終わり予定通り神戸まで行くことになった。最初の難関は箱根の山である。長野での悪路の体験があったのであまり心配はしていなかったがやはり我がダットサンは大きな唸りをたてて登った。箱根の峠で三島の町が遠くに見えてきたときは感激した。

 

その後は順調に進んだが浜松近辺は国道1号と言えども未だ舗装されておらず砂利道を砂煙を立てて進んだ。夕刻には京都に入った。いい宿が見つからない。そろそろ宿を見つけないと今夜は寝られないかもしれない。自宅の親父に電話すると大阪まで行けるなら知っている料亭の女将に電話しておいてやると言われたので大阪まで頑張って走ることにした。大阪の料亭に着いたのは夜の11時をまわっていた。女将は三人分の布団をひいてくれていた。それに三人分のうな重弁当を用意してくれていた。とても美味かった。その夜は床についても未だドライブ中のように天井が揺れていた。翌日は神戸から有料道路で六甲山に登り有馬温泉に立ち寄り宝塚を通って岐阜まで走った。 青春の良き思い出である。

この我が愛すべきダットサンはアメリカ留学が決まってから早稲田の後輩が5万円で引き取って行った。その金が横浜からシアトルまでの船賃の一部となったのは言うまでもない。

 

2.1957年製アメリカンフォード

 

ハウスボーイとして住み込んだリチャードソン邸はメンバー制プライベートゴルフ場内にあるお城のような豪邸であった。ワシントン湖を見下ろす小高い丘の上にあり3階立てで南面は1階から3階まですべてガラス張りであった。 キャンパス近くの下宿からここに引っ越してきてまず必要となったのが通学用自転車である。また、ブロードモアーは関係者以外の一般人はゲートで許可証を見せないと侵入できない地区であり自分の車を持たないと休みの日に外出が難しいのであった。そんな訳で自転車と自動車を買うことにした。自転車は15ドルでリチャードソン夫人の知り合いの息子から買った。自動車の方はホストファミリーのミセス・デービッドソンの友達から200ドルで購入した。自転車は変速ギア付で時々チェインが外れるトラブルを除けば坂道の多い通学路には最適であった。車は1957年製のアメリカンフォードで色は濃紺で全体に丸っこい形をしている。運転席から前を見ると大きなずんぐりしたボネットが見えバスを運転しているような感じがした。

 

日本で乗っていたダットサンが小さかったので特に大きく感じたのかもしれない。だがこの車がものすごい代物であったのである。ボネットのヒンジが片方壊れていてエンジンルームをチェックする時ボネットを開くのに苦労する。助手席の座席は磨り減ってぽっくり穴の開いたように凹んでいる。又、助手席側のドアは壊れていていつも紐でくくって走行中に開かないようにしている必要があった。サイドブレーキは壊れていて使えない。おかげでサンフランシスコに似て坂道の多いシアトルのダウンタウンでは赤信号に出会うとアクセルとクラッチをたくみに操りバランスをとって停止状態を保っていた。おかげで数ヶ月も経つとクラッチワークが上手くなった。またマフラーも穴だらけで物凄い爆音をたて火花を散らせて走った。こんなぼろ車を使えたのはワシントン州であったからである。アメリカはまさに合衆国で州によって法律も異なりワシントン州は車検の制度がなかったのである。そんなわけで古い車も多く走っていた。アメリカ人の一人の友人は1936年製のアンティーク車に乗っていた。しかしながら私の1957年製フォードほどのぼろ車はあまりお目にかかったことがない。

 

ある時飛行場へ人を迎えに行った帰りのハイウエーでのこと。突然風にあおられてボネットが跳ね上がり前方の視界が遮られた。後ろを見るとほとんど同時にトランクルームの覆いも持ち上がり後方の視界も遮られた。まったくの目くら状態になった。幸い交通量の少ない時間帯であったので何とか停止し事なきを得たがこんな恐ろしい思いをしたことはない。よくクラスの友人に「昨日僕のうちのそばを通っただろう。あんなけたたましい音を出して走る車は君のしかないからな」と言われる。こんな車でも冬にはよく夕食後皿洗いを済ませて60マイルほど離れたスキー場に出かけた。途中の山道で周りの林がぱっつぱっつと明るくなる。自分の車がマフラーから火を噴いてその光に照らされて周りが昼間のように明るくなっていたのである。そのことを知った担当教授から呼び出しがかかった。「火を吐いて走るのは大変に危険だ」と言うのである。今考えると本当によく事故を起こさなかったものと思いぞっとするがその後マフラーを直した記憶はない。

 

ある時スキーに行った帰り道そろそろ雪道用チェインをはずしてもよかろうと思いチェインをはずした。そこから1キロも走らぬところでスリップを起こし車体が180度回転し後続車と正面衝突をした。この時もたいした事故にならなかったのは只運が良かったとしか考えられない。こんなぼろ車でも結構良く走ってくれた。2年間程乗っていたがエンジンが故障したのは一度だけ。日本で乗っていたダットサンと同じようにシリンダーの一つが壊れたのだ。シリンダーのライナーを取り替えるだけでOKだった。只一度だけこの車で事故を起こしたことがある。まだ購入して間もないころ広い一方通行の道を走っていた。この一方交通の道はなんと8車線であった。右から4車線目を走っているうち4車線・4車線の対面道路の中央線に沿って走っている錯覚に陥ってしまった。目的地に行くには左に曲がらなければならなかった。左側4車線には当然ながら向かってくる車は一台も見えない。私は後ろを振り返らずに左にハンドルを切った。ドーンと言う音がして衝撃を受けた。左側4車線は対面路線ではなく同じ方向の車の走る車線だったので左側を後ろから走ってきていた車に追突されたのであった。衝撃でハンドルを握っていた手の指からは血が流れていた。左の小道に曲がり停車した。追突してきた車も後ろに止まった。アメリカでは事故を起こしたときは自分が悪くても決して謝ってはいけないと聞いていたが勘違いして後ろも見ずに左折したことを謝った。さぞどやされるものと覚悟していたが後ろの車から降りてきた人は穏やかな人で留学生が車線を勘違いしたことを理解してくれ保険の手続きをごく事務的に終えると「これから注意してください」と言って去って行った。追突されたのは左の後部車輪の上でボディーがへっこみタイヤに擦れていた。工具を取り出し凹んだ部分を内側からたたき出すとタイヤがすれなくなり元通り走れるようになった。

 

その後はそれを修理することなく車を手放すまでそのまま乗っていた。この愛すべきフォードの最後は壮絶であった。韓国から来ていた留学生の李さんが私の車でスポケーン(シアトルの東薬50キロにあるワシントン州第二の町)迄一緒に行ってくれと言う。付き合っていたアメリカ人の彼女が実家のあるスポケーンに帰ってしまったので迎えに行きたいと言う。李さんと彼女はかなり深い仲になっていたし私も彼女のシアトルのマンションに招待されご馳走にもなっていたのでOKすることにした。しかしよく話を聞くと李さんが彼女に暴力を振るい彼女が愛想をつかして実家に逃げ帰ったのだという。「彼女も君の事は信頼しているから暴力を振るうのは韓国の愛情の表現だと彼女に説明してくれ」と言う。そんな嘘はつきたくないと思ったがOKした後だったのでスポケーンに向け出発した。

 

当然日帰りは無理なので泊まりとなる。李さんはアルバイトでYellow Cabtaxi)の運転手もしていたが運転が乱暴でよく事故を起こしていた。「俺が運転する」と言って我がぼろ車を彼が運転してスポケーンに向かったのだがその運転のすさまじいこと。途中スポケーンに大分近づいたころ国道横の傾斜のついた土手道を車が傾いた状態でびゅんびゅんとばすのである。怖かった。きっと事故を起こして車が大破すると思った。夕暮れ時で真っ赤な大きな太陽が車と一緒に追っかけて来るのが目に入った。これがこの世で見る最後の光景だと思った。

 

こんな思いをして到着したスポケーンであったが彼女への電話説得は功を奏さなかった。その日は静かな湖の近くのモテルに一泊した。翌日になって李さんが「俺は彼女を説得するためもう一泊する」と言い出した。私は考えた。説得に失敗したら気性の激しい李さんはますます無茶苦茶な運転をするに違いない。もうこれ以上彼に付き合うのは身の危険を感じる。私はどうしても今日シアトルに戻らねばならない用事があると言って一人先にバスで戻ることにした。数日後李さんがシアトルに戻ってきた時もう我が愛車フォードは一緒でなかった。帰路事故を起こし大破したのでジャンクヤードに18ドルで売ってきたと言って私に18ドル手渡した。我が愛車を失くした悲しみより生きていられたことを神に感謝した。

 

 

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