<まえがき>
孫達に「善良な爺様」」という意味でグッジー(GOOD爺)と呼ばせていた木山健は喜寿を迎えようとしていた。子供の頃から何をするのも遅く、周りの者からは大器晩成に違いないと慰められ、自分でもそれを信じて生きてきたのだがこれ以上待っていても大器になる気配は見えない。そんな健は昔のことを思い出して過ごすことが多くなって来た。平凡なサラリーマン人生を送ってきた健だったが、思い返すとそのサラリーマンになる前に普通の人とは一味違った道を歩んで来たことに気が付いた。そしてそのことを孫達に「グッジーの青春物語」として伝えておきたいと考えた。1960年代に、当時はまだ一般的ではなかった海外留学をした一人の青年のお話である。健は徐に話し始めた。
 「インドに<6人の盲人と象>という寓話がある。 6人の盲人が象を触ったときの話である。象の鼻に触った盲人は「象はへびのようだ」といい、耳に触った盲人は「ウチワのようだ」、足に触った盲人は「木の幹のようだ」、胴に触った盲人は「壁のようだ」、尻尾に触った盲人は「ロープのようだ」、牙に触った盲人は「槍のようだ」といってお互いに自説を譲らなかったという。私も一人の盲人に過ぎなかったのではないかと考えている。だからこの国はこうだとか何国人はこんなものだとか決め付ける気持ちは毛頭ない。唯こんな一面を見たぞというだけではあるがその一面が自分の思っていたものとまったく違っていたものも多かったのだ。
 私の話は1962年に始まり1966年まで続く。その間アメリカではミズリー州立大の黒人学生問題、キューバ危機、そしてケネディ大統領暗殺が起こっている。フランスではベンバルカ事件、フランス人工衛星ディアマンの打ち上げ成功、そしてド・ゴールとミッテランの大統領決戦投票があり、ドイツは未だ東西分裂が続いていた。アジアのインドネシアではスカルノ大統領がクーデターにより失脚、日本では東京オリンピックが開催され、それに伴って高速道路や新幹線が作られていた。
私はフランスから船で戻ってきたのだが横浜まで待ちきれずに神戸で下船し名神高速バスで名古屋に出て、そこから東海道新幹線で東京に戻った。街の道路標識がインターナショナルのものに置き換わっていたし、日本を出る時には街に見られなかったコンビニがあちこちに出来ていて浦島太郎にでもなったような気分だった。正に日本の高度経済成長期だった。
では横浜出航のところから話を始めよう。いや、その前にちょっと留学にいたる経緯を話しておこう。」
I.アメリカ編
1.留学への準備

 留学への決断
ここでどうして私がシアトルのワシントン大学に留学することになったかについてちょっと触れておくことにしよう。
ハイゼンベルクの不確定性原理(Uncertainty Principle)は私の人生観、そして進路に大なる影響を与えた原理である。 アインシュタインが亡くなったとき高校の数学の教師が不確定性原理の話をしたのだ。(何故アインシュタインの相対性理論の話ではなくハイゼンベルクの不確定性原理の話になったのかは未だによく分からないままだ)。ニュートンの古典力学によれば世の中のすべての物質(人間を含む)の動きは未来まで一寸の狂いもなく決まってしまう。人生も初めから終わりまで運命が決まってしまっているという機械論的な宇宙観に偏っていた私は不確定性原理によって必ずしもそうではないかもしれないという希望を与えられた気がしたのだ。そこで新たな理論体系に基づく現代物理学、特に量子力学を深く勉強したいと思うようになったのだ。

早稲田大学の理工学部機械科に入った私は機械科の勉強もそこそこに量子力学を勉強すべく大学の図書館で理論物理の本ばかりを読んでいて授業にはほとんど出なかった。 4年でなんとか機械科を卒業出来たのだが実際のところ授業に出たのは2学年目と卒論を真面目にやった4学年目ぐらいだった。3学年の時には機械科の専門13科目全部が「不可」という成績だった。そんな頃久しぶりにクラスに出ると隣に座った同級生から「途中から編入した方は大変ですね」と言われた。 編入生でない私の顔を3年間教室でほとんど見たことがなかったのだから頷ける話だ。

量子論を勉強したいと言う願望と同時に、私には幼い頃からアメリカに行ってみたいと言う夢があった。そんなわけで量子力学を勉強しにアメリカの大学に留学しようという考えが固まってきたのだった。機械科を卒業して日本の一流企業に勤める道を選べば無難な人生を送れるかもしれない。しかし、もしここでアメリカに留学しない道を選べば間違いなく後悔するに違いないと思った。人生は一度しかやれないのだから。この時私は21才、大学3年生の夏だった。

 諸々の準備
ところが留学の準備を進めるうちに大変なことがわかってきたのだ。まず、留学の費用をどうするかだった。当時の為替レートは1ドル360円で大学卒の初任給が1万2-3千円で父親の月給も6万円弱だった。最初の半年分ぐらいの学費は親に無心できても長期間は無理だ。そこで私はスポンサー探しから始めることにした。まず、YWCAで英文タイプを習い中古のRemingtonポータブルタイプライターを1万2千円で購入し、アメリカでスポンサーになってくれるかもしれないと思われる諸々の研究所とか協会に手紙を手当たり次第に出したのだ。滞在費だけでも出してくれるところがあれば助かると思ったのだ。アメリカと言う国はすごいと思った。出した手紙にはすべて丁重な返事が来たのだ。但し、招待してあげようと言うものはひとつもなくすべての返事は「貴君の熱意には敬意を表するが同じ研究は日本のどこそこの研究所(又は大学)でやっているのでそこを紹介しよう」というものだった。私はどうしてもアメリカの大学で学びたかったのでこれには肩を落とした。成績優秀であればフルブライト奨学金などの道もあったのだろうが、現実的にそれが不可能なことは、自分でよく分かっていた。こうなると私費留学を考えなければならない。
 
費用捻出に何の手立てがないまま時が過ぎ、早稲田を卒業する年の秋からの留学はタイミング的に難しいことが分かってきた。「俺も一緒に留学するよ」と言っていた友達も気がつくと皆一流企業に就職が決まっていた。結局どこの会社も受けなかったのは私一人だった。これにはマイペースな私もさすがにあせった。他人を当てにしてはだめだ、何がなんでも留学してみせるぞ、と心に決めたのはこの時だった。
そこで留学を一年間先に延ばしてその間出来るだけの準備をしておくことにした。まずは英会話だった。英語はどちらかと言えば得意科目だったのでボキャブラリーには可なり自信があったのだが無口がわずらいして会話は苦手だった。そこで複数の英会話学校を掛け持ちしたり、ジャパンタイムズで英会話教えますとの広告を出していたいろいろな外人に教えを請いに行った。ワシントンハイツ(現在は代々木公園となっている)の米軍将校夫人とか、フィリピン大使館の領事の奥さんとかイギリスから来た風来坊の青年とか米国の牧師さんとか手当たり次第に習いに行ったり、親しくなって一緒に旅行したりして会話力を身に付けていったのだ。

 留学先の大学決定
英会話の習得以外にもしなければならぬことがいろいろとあった。調べてみると私費留学のためにはまず科学技術庁の試験にパスしなければならなかった。試験は心配したほど難しくなくパス出来たのだが問題はまだ留学先の大学が決まっていなかったことだ。私としては理論物理の分野で有名だったプリンストン大学、パーデュー大学、コロンビア大学とかいったところに行きたかったのだが入学要綱を取り寄せてみるとほとんどの大学が私費留学の場合米国内に保証人が居ることを受け入れの条件としていることが分かった。日本では仕事柄顔の広かった私の父親も残念ながらアメリカには一人の知り合いもいなかった。十数校手紙を出しておいたのだが保証人なしで受け入れてくれる大学はシアトルのワシントン大学1校だった。これで留学先の大学は決まりだった。

次なる課題はワシントン大学の入学許可を取ることだった。大学から要求されたものは早稲田の成績表、担任教授の推薦状、信頼できる機関による英語力認定書、そして日本の保証人である父親の1,400ドル以上の銀行口座残高証明書だった。英文の残高証明書は銀行が用意してくれたし、英語力認定書は会話学校の米国人教師が快く作ってくれた。問題は大学の成績証明書と教授の推薦状だった。
先に話したように私は機械科の専門科目で13もの「不可」をもらっていた。幸いなことに早稲田の場合は取り直して「優」とか「良」を取れば「不可」は記録に残らない。
3年の時は留学に成績表の提出が必要だなんてことはまったく頭になかったのでクラスにも出ず、教材も読まず試験を受けていたのだから「不可」となるのはあたりまえだったのだ。見かねたクラスメートが試験中模範解答を回してきて写せ写せといってきたのだがカンニングは一切しない主義だったので他人の模範解答を利用したことは一度もなかった。結局追試、追試で「不可」を消して行ったのだが一夜漬けではなかなかよい点は取れない。何科目かは追試の追試を受けたのだが、それでも合格点がとれない科目が一つ残ってしまった。そこで留学したいので何とかしてほしいと教授に直談判に行った。教授は私の懇願を聞き「よし、ここに座って俺の解説をよく聞きなさい。そして解説が終わったところで俺がわかったかと聞くから、分かりましたと答えなさい」と言われたのだった。解説が終わり教授が「解ったか?」とたずねるので私は「はい解りました」と答えた。最後の「不可」がやっと記録から消えた瞬間だった。

さて、最後の難問が担任教授の推薦状だった。あたって砕けろだ。卒論でご指導いただいたT教授に英会話学校の先生に協力してもらって作成した英語の推薦状を持って行きサインしてほしいと拝みこんだ。 T教授はその推薦状をしげしげと見つめ「君、Excellentという言葉の意味を知っているか?」と言った。 確かに推薦状には私がExcellentな学生で入学以来クラスをリードしてきたと書いてある。「はい、知っています」と答えると教授は「この推薦状、俺は許すが早稲田が許さないぞ」と言ったのだ。これにはぐうの音も出なかったがここで挫けたらそれまでの努力が水の泡だ。T教授には留学に対する長年の思いを切々と訴えた。そして終に私が自ら用意した推薦状に教授のサインをもらう事が出来たのだった。こうして、すべての必要書類を整えワシントン大学に入学願書を送ったのは丁度友人たちがは新社会人として働き始めた頃だった。

渡航準備
ワシントン大学から入学許可の書類が届いたのはそれから間も無くの事だった。最初の一年間の学費は両親が何とかだしてくれることになった。そこで最後に解決しなければならなかったのは渡航費だ。飛行機代は当時の金で30万円以上していてとても工面できる額ではない。いろいろ悩んでいる時叔父が貨物船での渡航を勧めてくれた。知り合いの船舶会社に頼んでアメリカ行きの貨客船(貨物船だが少人数の客も乗せられる船)に乗船できるよう頼んでくれたのだ。 船賃の9万円は大学時代家庭教師でためたお金で買ったボロ車を5万円で売り、差額を親に出してもらうことで解決した。渡航手続きは旅行会社に頼むとお金がかかるので親友の先輩が勤めていた旅行会社に出向き自分で書類を作ることにした。「こんなの自分で作る人などいないぞ」と言いながらも親友の先輩は私の熱意に押されて丁寧に書類作成を手伝ってくれた。

留学を一年先延ばしにしたおかげで大分時間に余裕が出来た。英会話だけではもったいないので早稲田大学に入る前から手がけていたフランス語とドイツ語の会話にも力を入れ毎日フランス語とドイツ語で日記をつけ将来に備えた。アメリカで勉強した後はフランスとドイツに渡りそれぞれの言葉を勉強したいと思っていたのだ。高校時代に英語の恩師からEtymology(語源学)の面白さを教わり毎日のようにWilliam SkeatのEtymological English Dictionaryで学校で習った英単語の語源を調べるのに時を忘れるほど熱中していたので自然と多くの言語に興味を持つようになっていたのだ。一見アメリカ留学に関係ないように思われる第二外国語だが、これらの外国語がアメリカに渡ってから思わぬところで大変役に立つことになる。

話は変わるが私が留学を考えるのに参考になった書籍が3冊あった。 犬養道子の「お嬢さん放浪記」(1958)、ミッキー安川の「ふうらい坊留学記」(1960)、そして小田実の「なんでも見てやろう」(1961)だ。中でもミッキー安川の「ふうらい坊留学記」には大変勇気付けられた。なぜなら私と同じように一人の知り合いもいないアメリカに単身乗り込みいろいろなアルバイトをして頑張った話だったからだ。
さて、長い前置きはこの辺にしていよいよ私が横浜港から青春の船出をするところから話を進めよう。

2. 1962年9月5日ついに横浜港から船出
日産汽船の貨物船「日令丸」は当初の予定を3日遅らせて9月5日ようやく横浜第三桟橋を後にした。12人まで船客を取ることの出来る貨客船だったのだが船客はたったの2人、私と研修に出かける看護婦の玲子さんだけだった。船が桟橋を離れだんだんと見送りの人々の影が小さくなり見えなくなった時、時計の針は午前7時30分を指していた。何とも言えぬ寂しさがこみ上げて来る。 2人の船客の心持を察してか穏やかな風格のパーサー(事務長)が傍に来てやさしくいろいろな話を聞かせてくれること約1時間、船もようやく横浜から遠のいた模様だ。まだ対岸の見える2階デッキからひとまず船室に戻った。別れ際にガールフレンドや友人達から手渡された手紙を取り出し読み進んで行くうちに胸がジーンとしてきて目頭までが熱くなってきた。畜生、バッキャロウ、誰かに怒鳴りつけたいようなおかしな感じだった。
食堂で朝食をすませ3階デッキに出てデッキチェアーに横になった。かかりつけの眼医者が言っていた通り洋上の太陽の反射はすさまじいものだった。サングラスを持ってきてよかったと思った。広大な海を眺めていると大変なことをやらかしてしまったという気持ちが断続的に襲ってくる。もう永久に愛すべき人々に会えないのではと言う錯覚に陥るのだ。渡米したい一心でことをここまで進めてきたのにアメリカには知人は一人もいないのだ。先は全く読めていないが考えても仕方ない、眠るしかないとデッキチェアーに横になったまま覚悟を決めて目を瞑った。どのぐらいうとうととしていただろうか、突然目の前が真っ赤になって体ごと溶鉱炉に投げ込まれるような気がして目が覚めた。目の前に無限に拡がる海、海。薄情な海は何一つ慰めの言葉を投げかけてくれない。ただ目の前に拡がっているだけだ。焼け付くような太陽に照らされた海面がギラギラと輝いて孤独感を煽り立てる。太陽の熱で体中が燃えてくるようだった。

昼食の後再び3階デッキに出てデッキチェアーに横になると満腹のせいか睡魔に襲われ眠りに落ちた。どれぐらい経った頃だったろうか突然、階段を駆け下りてくる音で目を開けると「鯨だ、鯨だ」と船員たちが叫んでいる。慌てて立ち上がり探してみたがもう見当たらなかった。鯨を見逃してしまった私は仕方なく船内の探索に出かけることにした。「日令丸」は7千トン弱(正確には6,648トン)でそれほど大きい船ではないがやはり外国に行くだけあってそれなりの装備が施されていた。 4階には幹部船員である船長、機関長、通信長、事務長の船室と並んで客室がある。最上甲板(デッキ)には輪投げセットやゴルフセット(プラスティックのゴルフボールがひもでつながれている)等があり適当な運動はここで出来る。下の階に行くとかなり広い浴場と一般船員の船室があった。あとは貨客船なので貨物用のコンパートメントが船の大部分をしめていた。

探索が終わると、私は持ってきたポータブルテープレコーダーで筝曲を聴いて過ごした。留学準備の一環として少々華道、茶道、琴を習っていた私は琴の先生に筝曲のテープをもらってきていたのだった。テープを聴き終えてうとうとしていると、何処からともなく「さくら、さくら」の音色が聞こえてきた。私のテープレコーダーからではない。どこから聞こえてくるのかと船内をうろうろしてみたのだが結局分からずじまいだった。夜は事務長(パーサー)、R嬢と3人してサロンで巨人・阪神戦を聞きながら談笑した。話しているうちにパーサーが大学の先輩であることが分かりなんとなく心強くなった。

3. 航海中の日々
波の穏やかな日はデッキで昼寝をしたり、ゴルフボールを打ったりして時間をつぶした。私の船室と同じ階には通信室があった。通信長の江本さんは外部との通信をモールス信号でツートン、ツートンと叩いている。紙切れに電文を書いて持って行くと快く電報を打ってくれる。四六時中通信をしている訳ではないので時間を見計らっては江本さんを訪ねるのが私達の日課のようになっていた。江本さんはとても話し上手で外国での経験談には夢をかりたてられた。又、とても音楽好きで部屋には様々なジャンルの音楽テープが置いてあり、よく得意のギターを奏でては我々を楽しませてくれた。 最初の日に耳にしたあの琴の音はきっと彼の部屋から流れてきたのに違いない。
 
デッキに出て海を眺めていると目の前をビュンビュン横切って飛んでゆく魚がある。トビウオでだった。優に50・60メートルは空中を飛んで行くのだ。 何十匹という数のトビウオが早さを競うように船首に向かって飛んで行く光景は圧巻だった。食事は船長や上級船員と一緒で、内容は思いがけず豪華だった。ビフテキや豚カツ、天ぷら等毎日違う料理が出て来てグルメでない私には十分満足のいくものだった。

4. 太平洋ど真ん中
日令丸は横浜から米国西海岸のシアトルに向かう途中カナダのバンクーバーに寄港する。 横浜からバンクーバーまでは8日間の船旅だ。長いようでもあるが楽しかったせいか思ったより短く感じられた。 中学の時、伊豆大島に行き帰路大シケで胃が空になるほど吐き続けたり波静かな瀬戸内海の小豆島に向かう船でさえも船酔いに悩まされた事のある私が、なぜが懸念していた船酔いにかからなかった。ベッドに横になるとグググと海底に引き込まれてゆくような揺れは毎日あったが、バンクーバーまでの航海は比較的穏やかだった。 

ただし、航海の半ばごろ遭遇した大シケはひどいものだった。 食卓の食器類はボクシングリングのロープの様に食卓の周りに張られていたロープにひっかかり転げまわる。 風呂場に行けば浴槽が遊園地のビックリハウスの床や壁のように大きく傾きお湯はほとんど流れ出ていて風呂の体をなさない状態だ。 そんな大しけの中、私はマストの中ごろまで登り持っていった8ミリ映写機で大シケを撮影するという暴挙に出た。その時はピッチング(船の縦揺れ)がものすごくジェットコースターに乗ったように急上昇、急降下を繰り返していた。少しは気持ち悪くなったが吐くところまではいかない。 一方もう一人の船客R嬢は船酔いで船室に籠ったまま出て来ない。私が東京の自宅に「太平洋ど真ん中、看護婦酔った俺元気!」という電報を打ったのはその時だった。

実に不思議だ。あんなに船揺れに弱かった私が何故平気だったのか。一つだけ思い当たることがある。 船でアメリカへ渡らなければならないと決まった時、船酔い対策として私が自分で考えた方法だった。 後楽園遊園地には大きな円形壁に背をあてて立つと円形壁の回転が始まりそれと同時に床板が下がってゆくのに遠心力のおかげで体は壁に押し当てられたまま宙に浮く装置があった。 渡航前この遠心力浮遊機に何回も乗って回転に体を慣らしていたのだ。 それが効いたとしか思えないがとにかくそれ以来私は何度船に乗っても船酔いにかからなくなったのだ。

5. 素晴らしきかな新世界!とカルチャーショック
横浜を出て8日目の早朝ざわめく物音に私はベッドから飛び起き、デッキに駆け上がった。未だ薄暗い中、地平線上にうっすらと黒い影が見えた。「陸地だ!」と誰かが叫んでいる。じっと目を凝らして地平線を見続けていると東の空に浮かぶ雲が少しずつピンク色に染まりだした。陸地がはっきりした姿を現すのにはそんなに時間がかからなかった。気がつくと周りには数多くの小船が朝焼けで眩しいほどの海面に揺れている。目に入る光景がすべてピンク色に染まり眩しく輝いていた。素晴らしい朝焼けのバンクーバー湾だった。私は「ついに見た素晴らしきかな新世界!」と日本の両親に電報を打った。思い出深い外地への第一歩だった。

港には日令丸の親会社駐在員が出迎えに出ていた。幹部船員と私達二人の船客はダウンタウンの中華街で夕食の招待を受けた。紹興酒をご馳走になっていい気分になったところで名所に案内すると言われた。暗闇の中私達を乗せた車は港を見下ろす小高い丘の上に出た。周りを見てごらんと言われ暗闇に目を向けると数え切れないほどの車が駐車している。見る限りどの車内でも人目をはばからず男女が抱き合っている姿がシルエットとして映し出されている。ほとんど人前でのキスシーンなどには出くわした事のなかった者にとっては強烈なカルチャーショックの始まりだった。

同じ夜、もう一つのショックを受けることになった。案内役の駐在員兼運転手の運転振りだ。かなり酔っ払っていたらしいのだが千鳥足もいいところで身体が腑抜けになり真っ直ぐに歩けないばかりか運転席に座ってもエンジンキーをどうしてもキー穴に入れられない状態だった。人の助けを借りてやっとエンジンをスタートさるが酩酊状態だった。乗せられている者は生きた心地がしない。上級船員たちも停泊中の船まで送ってもらうので何も言わず黙って同乗したままだ。しばらくして環状フリーウエーに入り込んだのだがそこでとんでもない事態に気が付いた。真正面から皓々とヘッドライトをこちらに向けて何台もの車が突進してくるではないか。どんなによく見ても正面から来る車は我々の車の走っているのと同じレーン上を走って来ているのだ。なんと蛇行運転しながら車はハイウエーを逆走していたのだった。何とか港の日令丸に戻ったときは皆ぐったりしていた。

6. いよいよシアトルへ
翌日、バンクーバー停泊中の日令丸は積荷の関係で数日は出航できないことが分かった。シアトルまでは<グレイハウンド>バスを使えば数時間で行き着ける距離だ。はやる気持ちで私は荷物は船がシアトルに着いた時点で港まで取りに行くことにし陸路シアトルに向かうことにした。シアトルまで日令丸で行くことになった玲子さんや親しくなった船員達に別れを告げシアトル行きのバスに乗り込んだ。 <グレイハウンド>バスは冬季雪の上でもチェーンを装着せずに走るような重量のあるバスでそのエンジン音はかなりけたたましいものだ。英語のヒヤリングには自信を持っていた私だったが、早口でしゃべる運転手の声はエンジン音と走行音にかき消され何を喋っているのか理解出来ない。バンクーバーを発ってしばらくするとカナダと米国の国境となった。そこでバスの運転手が外国人乗客に対して何か注意事項を述べたのだがやっぱり聞き取れない。私はどうにかなるさとばかり無視することにした。実はこれが後になってちょっとした面倒を引き起こすことになった。

数時間後バスはシアトルのダウンタウンにあるバスターミナルに無事到着した。さあ、これから一仕事、ワシントン大学の留学生担当事務所に電話をしなければならない。バスターミナルの公衆電話から外国での初めての電話だ。緊張の瞬間だったが受話器の向こうから聞こえてきたのは意外にもやさしい女性の声だった。流石に留学生担当だけあってゆっくり丁寧に話してくれたのでよく理解出来た。私が名前を告げるとすぐ書類を調べたらしく「あなたのホストファミリーのミセス・デイビッドソンが迎えに行くから動かないでそこで待っていなさい」と言われた。

小1時間も待っただろうか、すらっとした黄色いワンピースを着た年のころ35・6才の金髪女性が声をかけてきた。彼女の乗ってきたのはハリウッド映画に出てくるような黄色のコンバーティブル車(オープンカー)だった。私を助手席に座らせ勢いよく走り出した車はダウンタンを過ぎ、間もなくフリーウエイに入った。未だ日本には100キロ以上のスピードで走る事の出来る高速道路などがなかった時代だったのでフリーウエーですれ違う車の耳を劈く様なヒューン、ヒューンという音には圧倒されっぱなしだった。快晴だったせいかミセス・デイビッドソンの金色のスカーフが風になびいて眩しかった。私が「シアトルは何時もこんな天気なのですか?」と聞くと「こんな天気はめったにないわ。きっとケン(健)、あなたを歓迎してのことだわ」と言われた。会って間もないのにケンとファーストネームで呼んでくれたのが嬉しかった。デイビッドソン宅はワシントン湖の対岸ベルビューにあったがフローティングブリッジ(浮き橋)を渡って30分ほどで到着した。

7. ホストファミリーデイビッドソン家
私が留学生活最初の10日間ほどお世話になることになったデイビッドソン夫妻の家は現在マイクロソフトのビル・ゲーツ氏の豪邸が建っている場所からほど遠くないワシントン湖の畔にあった。平屋だったが家の半分ほどは盛り上がった土地に沿って高くなっていて中二階のようになっていた。家に到着するとその中二階にある一室に案内され「ここがあなたの部屋よ」と言われた。部屋は小奇麗に整頓されていて洋服ダンスの引き出しはすべて空になっていた。明るい部屋で一番よい部屋を空けておいてくれたようで私は感激した。デイビッドソン夫妻には子供がいなかったが、もしかすると子供のために作ってあった部屋なのかもしれない。次にバスルームに案内された。新しい洗面道具一式が私のために用意されていた。今では日本でもホテル等では一般的になっているがバスルームとトイレが一緒になっている。当時日本では未だ一般家庭では水洗トイレなど普及していなかった時代だったので便所は不浄なところという感じがあり、それが体を洗うきれいな浴室と一緒になっているのは違和感があって私は慣れるまでしばらく落ち着かなかった。

一通り家の中の案内が終わると庭の案内だ。よく手入れの行き届いた芝生と草花。芝生のマウンドの向こうにワシントン湖が見える。庭の真ん中に背の高い西洋杉が二本立っていて見上げると上の方が風を受けて緩やかに揺れていた。木の下には木製のデッキチェアーが二つ置いてあった。それぞれのチェアーの右ひじの部分には飲み物を立てる穴が刻まれている。アン(デイビッド夫人は自分のことをそう呼んでほしいと言った)が用意してくれたジントニックのグラスをそこに挿してチェアーに座りアンと暫く歓談した。ジントニックを進められるまま2~3杯飲むうちに私はほろ酔い気分になり頬に当たるそよ風も心地よく感じられた。ワシントン湖を眺めながら夢心地になり「ああ、これがアメリカなんだ」と思った。

夕方ご主人のハリー・デイビッドソンが仕事から戻ってきた。ご夫妻ともファーストネームで呼ぶように言われた。年上の人を敬称もつけないで呼ぶのはその習慣のない日本人にとってはなかなか抵抗があるが郷に入ったら郷に従えで私は初日からアン、ハリーと呼ぶよう努めたのだった。ハリーは何時もにこにこしてアンを見守っている優しい男性だった。彼はボーイング社に勤めていた。ボーイング社は巨大な航空機製造会社なので何らかの形でボーイング社とつながりのある方がシアトルには非常に多い。

夕食の時間になると、アンが「これとこれをテーブルに並べて」とドイリー、ホーク、ナイフ等々を私に渡した。最初から家族の一員のように扱ってくれたのだ。アンが腕を振るって用意してくれた夕食はとても美味しかったのだが出てきたデザートのアップルパイの大きさにはびっくりだった。日本なら3~4人分はある。そしてアイスクリーム。皿の上にドカンと山のように盛ってある。せっかく用意してくれたものを残しては悪いと時間をかけて全部平らげた頃には私の腹はちきれそうになっていた。

8. Ugly American
私がシアトルのワシントン大学に留学をした頃「Ugly American」 と題する本がベストセラーになっていた。ホストファミリーのアンが読んでみなさいと貸してくれたので直ぐに読んでみた。海外、特に東南アジア方面で粗野で野暮なアメリカ人が相手方の歴史や文化を理解せず役に立たない援助等を行ってしまう様子を描いたノン・フィクションに近い物語だった。この本は後にマーロン・ブランド主演で映画化もされている。ケネディー大統領はそのような状況を改めるべく極東の文化の理解に力を入れだしていた。ワシントン大学にも極東学部と言うのがあって中国語や日本語を学ぶ学生が数多く集まっていた。私もひょんなことから後にこの学部で日本語科の教員として雇われ一年間教壇に立つこととなったのだ。又、ワシントン大学に「Center of Asian Arts」と言う研究機関が誕生し、日本からは後に人間国宝にもなられたような筝曲、尺八、狂言の一流の方々が招聘され文化交流にあたっていた。毎朝授業前の時間にはリスが走り回る木々の多い大学構内にいろいろな音楽が流される。ある時ふと気が付くと聞こえてくるのは筝曲「六段の調べ」だった。こんな異国の地で「六段の調べ」が流れていることに私は感激した。

私はこの極東文化に力を入れる機運に後々いろいろな面で助けられたような気がする。その一つは奨学金がとりやすかったこと、そして物理専攻の学生のまま日本語教師として大学に採用され、貰った給料のおかげで生活が楽になったことだ。そして又、日本語を学ぶ多くのアメリカ人学生と仲良くなり楽しい彼らの飲み会にしばしば招待され楽しい学生生活が送れるようになったことだ。

9. オリエンテーション・プログラム
シアトルは北にMt.Baker, 南にMt.Rainier(タコマ富士とも呼ばれる)、東にカスケードマウンテンそして西にはオリンピック半島に聳える山々に囲まれた美しい町だ。1960年代にはプロ野球の球場もなければイチローの所属するマリーナーズもなかった。 ビル・ゲーツも現れていなかったし、ましてやマイクロソフト社もまだ存在していなかった。航空機を製造していたボーイング社とワシントン大学が目立った存在だった。ワシントン大学はヨーロッパ、中近東、ラテンアメリカ、アジア等から数多くの留学生を受け入れていた為、留学生の受け入れ態勢はなかなか確りしていた。

学期はクオーター制で秋学期、冬学期、春学期と夏学期の3ヶ月毎に区切られており通常一学年の単位は秋学期から春学期までの3学期で組まれており夏学期は落とした単位の取り直しや早く卒業したい学生が単位を取得する為に出席していた。大多数の留学生はきりの良い9月スタートの秋学期から就学することになるので、8月中旬からボツボツ留学生達がシアトルに集まって来る。留学生達は到着してから新学期が始まるまでの2・3週間大学側が用意したオリエンテーション・プログラムに組み込まれる。留学生はまずホストファミリーと呼ばれる留学生一人一人に割り当てられた個別の現地家庭に引き取られ生活環境に慣れさせられる。その間下宿探し、英語力レベル判定テスト、留学生同士の親睦のためのピクニック、身体検査等で新学期に備えるのだ。  

10.ルームメートにおびえた夜
オリエンテーション・プログラムも終わりに近づくと留学生全員が大学の寮生活を一日体験させられる。どういうわけか私が泊まったのは女子寮だった。といっても残念ながら女子学生は休暇中だからか又は留学生のためにその日だけ追い出されたのか判らなかったが体験プログラムを説明してくれた女子学生以外一人として残っていなかった。全員で寮内を見学した後食堂に集まり食事をし、二人一組となりそれぞれ割り当てられた部屋に入って夜を迎える。各部屋には二段式ベッドが用意されており相棒は上そして私は下段に休むことになった。相棒はアフリカのとある国から来たという黒人留学生だった。住んでいた村から何十時間も歩いて選考試験を受けに行ったのだと言う。2000人から一人選ばれたとも言っていた。話を聞いている分にはいいのだが面と向かって顔を見るともういけない。とても怖いのだ。

学術的には正確な分類ではないが日本人より色が黒い人種とと言えばミクロネシア系、ポリネシア系そしてメラネシア系が頭に浮かぶ。ミクロネシア系は身体も小柄で日本人が日焼けして黒くなったような感じだ。又ポリネシア系は相撲取りの小錦のように身体は大きいが愛嬌があって親しみが持てる。ところがメラネシア系は皮膚の色が青黒く顔もいかついのが多いようだ。歯だけは真っ白で暗闇では白い歯がことさら目立つ。件の相棒が上のベッドから身を乗り出して覗き込み「Good Night」と言った時私の背筋に冷たいものが走った。暗闇に真っ白な歯だけが見えたのだ。表情が黒くて読めないのがいけない。ターザン映画に出てくる人食人種そっくりで夜中に食われてしまうのではないかと心配になってくるのだった。今はおとなしいが夜中に気が変わって襲って来るのではないだろうか? 黒人を近くで見るのが初めてだった私はかなり長い時間寝付かれなかった。

11.下宿探し
新学期が始まる一週間ほど前までには留学生達はホストファミリーの元を離れ大学キャンパス近辺の下宿に移り住むことになる。留学生支援事務所ではいろいろな下宿部屋を紹介してくれるので気に入ったものを選べばよいのだ。私が学生の下宿街を見に行った時最初に驚いたのは各家々の色彩の華やかさだった。白、緑、ピンク、赤、青等々でまるで童話のヘンデルとグレーテルが出くわすお菓子の家みたいだ。たいていの家は2階建てか3階建てだった。大きい建物は男子学生のフラタニティハウスか女子学生のソロリティハウスだ。2階建ての家も大概道路から2・3メートル土盛りされた上に建てられていて道から玄関まで数段の階段を登って行くようなものがほとんどだった。

私が選んだ下宿は2階建てで屋根がグレーで側面が緑のおしゃれな家で70歳過ぎのミセス・ジェイコブスンと言うお婆さんが管理していた。ミセス・ジェイコブスンは白髪でしわだらけの顔に銀縁のメガネを掛けていたが背筋がピンとしており腰がダチョウのように大きく矍鑠としていた。部屋代は一ヶ月45ドルで相場の値段だった。金持ちの留学生は100ドルとか200ドルを出してプール付きのコンドミニアムに入ったり、もっと高い大学のドミトリー(寮)などに入っていた。ミセス・ジェイコブスンの下宿は一階がミセス・ジェイコブスンの住まいで2階に貸し部屋が3室あり階段を登ったところにバスルームがあり2階の住人が共同で使用するようになっていた。

12.下宿の同居人ポールとウディー
私が入居した時には既に他の二人の下宿人が入っていた。一人は香港からの留学生ポールでもう一人は黒人のウディーだった。ポールは誰から私のことを聞いたのか新入生のオリエンテーション・プログラムの時から愛想良く話しかけてきてはいろいろと親切に教えてくれていた人物だ。彼は数学科の大学院生で将来の大学教授を目指して勉強している真面目な留学生だった。ポールは時々リーダー(leaderではなくreader)の仕事を回してくれたりした。リーダーというのは教授が生徒から集めた宿題を優秀な学生に採点を任せることでリーダーとなる学生にとってはなかなか良いアルバイトとなっていた。一方ウディー(Woody)はアラビアンナイトのアラジンがランプをこすった時に現れる黒人の大男のような風体だった。ウディーは心理学を専攻していたが、非常に頭がよくGPAが3.9だった。GPAというのはGrade Point Averageの略で成績を数値化したものだ。A(優)は4点、B(良)は3点、C(可)は2点とし、履修した全科目の平均値で表示されるものだ。もしオールAを取ればGPAは4となるが大学入学から卒業まで全ての学科でAを取ることは至難の技であり、そんな生徒が現れると新聞に大きく報道される。
日本のある大学では生徒の半分近くに優をつける教授が多いと聞くがワシントン大学では生徒の成績は相対評価で付けられ25人前後のクラスでAを貰えるのは多くて3人ぐらいだった。少なくとも私が受講した物理、数学、外国語のクラスではそうだった。
ウディーが最初に涙ながらに話してくれた言葉は忘れられなかった。「俺はミセス・ジェイコブスンに恩を感じている。理由が分かるか? 俺はこの部屋を借りるまでに54軒の下宿屋で入居を断られたんだ。二グロと言うだけの理由だ。新聞で貸し部屋の広告を見て電話すると未だ空いていると言われる。出かけてゆくと顔を見たとたんにすまない今しがた他の人に決まってしまったと言われるんだ。54軒すべてでだよ。そんな偶然なんてあると思うか?表面では平等平等と言っていながらこれがアメリカの人種差別の実態なんだよ。」信じられない思いがした。でも、この年ミシシッピー大学で黒人学生の入学に反対する大規模な暴動が起こりアメリカ中が大騒ぎになる事件が起きた。50年近く後に黒人のオバマ大統領が誕生するなんてことは正に隔世の感がある。

13. アメリカ生活での戸惑い 
先ずは水洗トイレのフラッシュの件だった。当時日本では未だ一般家庭には水洗トイレは普及しておらず汲み取り式の和式トイレが普通だった。私の東京の自宅は浄化槽を独自に設置して様式の水洗便所になったばかりだった。 私がアメリカに渡る直前の東京はひどい水飢饉で断水が続き水洗便所も満足に使えない状態だった。アメリカに着きトイレ使用後フラッシュすると勢いよく水が流れるので驚いた。ある時私は下宿で同宿人のウディーに呼ばれトイレでちゃんとフラッシュするように注意を受けた。勿論大の方ではない。それはフラッシュを忘れたのではなく小の時水がもったいなくてとてもフラッシュする気になれなかったのだ。勿論それ以後私は小の場合でも必ず水を流すことにしたが暫くは水がもったいないなと言う気持ちが続いた。スーパーマーケットでは物の多さにも驚いたが水の豊富なことにいちばん感激したのは東京で水飢饉を経験した直後だったからだろう。


私が次に驚いたのは、アメリカでの女性の活躍だった。1960年代初め頃、日本ではいろいろな分野への女性の進出は未だあまり進んでいなかった。今では嘘のような話に思われるだろうが日本で女性が自動車を運転していようものなら皆が振り向いて珍しがったものだ。又、日本の大学では理工学部には女性の姿はほとんど見られなかった。早稲田大学でも理工学部の数学科に女子の学生が一人入ったと言って話題になった時代だ。そんな日本からアメリカに渡って驚かされたのは女性の活躍だった。身近なところでは理工系のコースを教える女性教師が可なりいたということだ。私には女性を蔑視する気は毛頭なかったのだが小学校以来英会話の先生を除いて全く女性の先生に付いたことが無かったので戸惑いを感じたのだ。女性に負けられないという気があったのだろうか私はワシントン大学では延べ6人の女性教師のコースを履修したが頑張って全てAを取ったのだ。立派な教師が多かったので女性の能力の高さを改めて認めざるを得なった。

14. 耐乏生活始まる
多くの日本人留学生はお金持ちの子息の私費留学か又はスカラーシップ等何らかの留学資金を確保して来ていた。私の場合は親から何とか一学期分の学費は出してもらっていたのだがその先は何とかアルバイトで学費と生活費を捻出しなければならなかった。と言っても米国移民局の許可なしには仕事をしてはならないとの条項があったので公には仕事に就けない。生活に慣れるまでは何とか学費以外の生活費を削りながら過ごすしかなかった。

先ずは食費だ。スーパーマーケットに行くと前日の売れ残りパンを安く売っている。多少硬くはなっていても十分食べられる。私はこの売れ残りパンにマーガリンをぬりハムを一枚はさんだサンドイッチと棒切りにしたセロリとにんじんを弁当にして大学に通った。そして夜は近所の韓国レストランで買ってきたお米を炊き、茄子とかビーマンに安いひき肉などを炒めて食べたりした。炊飯器などはなかったのでお米をといだ後、指で水加減を計り鍋で炊くのだ。安い食材を使った自炊生活を続けたおかげで、好き嫌いの多かった私もやがて何でも食べられるようになってきた。お茶の葉も一週間も取り替えず色が出なくなるまで使ったし、信じられないだろうが髭剃りの安全かみそりの刃も取り替えずに一枚で3年間も使っていた。牛乳は飲んでいたがコーヒーなどは元々飲まなくても平気な方だったので自分の下宿では飲んだ記憶がない。私はこんな耐乏生活を続けたおかげで粗食に慣れてしまい高い金を払ってまで美味いものを食べに行きたいとは思わなくなった。しかしアメリカで暮らすにはどうしても車が必要だったのでぼろ車を買うことにした。1957年製のフォードだった。

15. 1957製アメリカンフォード
アメリカでは車が必需品だったので、まもなく私は濃紺の1957年製のフォードを購入した。アンが見つけてくれた車だった。日本で乗っていたダットサンが小さかったせいもあるが、まるでバスを運転しているような感じがした。しかし200ドルで手に入れたこの車がものすごい代物であることに気付くのはすぐだった。

まずボネットのヒンジが片方壊れていてエンジンルームをチェックする時ボネットを開くのに苦労する。助手席の座席は磨り減ってぽっくり穴の開いたように凹んでいた。又、助手席側のドアは壊れていていつも紐でくくって走行中に開かないようにしている必要があった。サイドブレーキは壊れていて使えない。おかげでサンフランシスコに似て坂道の多いシアトルのダウンタウンでは赤信号に出会うとアクセルとクラッチをたくみに操りバランスをとって停止状態を保つ必要があった。おかげで数ヶ月も経つとクラッチワークが上手くなった。
またマフラーも穴だらけで物凄い爆音をたて火花を散らせて走るのだ。こんなぼろ車を使えたのはワシントン州だったからだ。アメリカはまさに合衆国で州によって法律も異なりワシントン州は車検の制度がなかったのだ。そんなわけで古い車も多く走っていた。アメリカ人の友人の一人は1936年製のアンティーク車に乗っていた。しかしながら私の1957年製フォードほどのぼろ車はあまりお目にかかったことがなかった。

16. 英語レベル判定試験
非英語圏からの留学生全員に対しては英語の実力判定テストが行われる。実力判定テストはヒヤリングが中心だった。知らない単語が幾つか出てきたので私は結果が出るまで不安だったが結果が [Exempt]だったのでほっとした。実力判定テストの判定結果は「Exempt」以下数段階のレベルに分かれていてレベル毎に専門科目の履修数が制限され最下位レベルはワシントン大学での学科履修が一教科も許されないでまず指定された学外の英語学校での英語履修が求められる。[Exempt]だと専門科目の履修数に制限が付かないのだ。
日本人留学生の中では英語の先生をしていた人や英語を専攻していた人以外では「Exempt」をとった人はあまりいなかったようだ。私は日本でFEN放送(日本での米軍極東放送で現在のAFN)のニュースを録音しノートにとり、アナウンサーと同じ速さでしゃべれるまで何十回も声を出して読むというやり方で勉強したおかげで、留学時のヒアリングレベルはFENのニュースがほぼ聞き取れる程度になっていた。
[Exempt]の判定を受けたおかげで専門科目を好きなだけ履修することが許された時、私は日本でいろいろな英語サークルに参加して英語漬けになっていたのが報われた、一年間のロスが取り戻せたと思った。

17. 健康診断とM検
当然のことながら書類で入学許可を貰っているとはいえ最終的に受け入れられるには大学側による健康診断にパスしなければならない。オリエンテーション・プログラムが進む中、私の許に大学から健康診断の通知が届いた。私は日本を出る前にも健康診断は受けていたので別段気にもしていなかったのだが、ある噂を耳にし急に不安になってきた。 健康診断では男子生徒に対してはM検があるというのだ。 私はM検を受けたことはなかったが男の大事なところの検査であることぐらいは知っていた。軍隊では必ずあったというし、つい数年前までは日本の大学入試でも行われていたからだ。よく成績の良かった先輩が東大に不合格になったのは試験の成績のためではなくM検で引っかかったのだとか言うまことしやかな噂を耳にしていたのだ。勿論悪い遊びなど一度もしていなかったので問題ないと分かっていてもどんな検査なのか経験がないだけに落ち着かなかった。

知らない人間に調べられるなど想像するだけでも憂鬱になってくる。変な触られ方をして興奮してしまったらどうしようなどと下らないことが気になってくる。検査日までの数日は食事も喉に通らなかった。すこぶる純情だったのだ。いよいよ当日がやって来た。大学の病院ではなく大学構内ではあったが個人住宅のような建物に連れて行かれた。中に入るように言われドアを開けると、そこには白衣を着てメガネをかけた老紳士が回転椅子に座っていた。近づいて行くと人の顔をチラッと見るなりパンツを下げるよう手で合図をした。目を瞑って言われるままにすると一瞬何か下部を触られたようだったが「OK」と言ってお終りになったのだ。あまりのあっけなさに私のほうが驚いた。あれで何が分かったのだろうか? あれだけ悩んでいたのは何だったのか。でもそれで正式に入学が認められたのだ。入学が認められた喜びより、無事M検が終わってほっとしたのが実感だった。

18. 数学・物理両学部に編入
私は後に大学院で量子論又は理論物理を専攻したいと考えていたので、ワシントン大学ではまず準備として数学科と物理科の両学部の2-3年のコースに同時編入した。欲張った考えだったが2年間で物理、数学の両学部を卒業し大学院の理論物理科に進学するつもりだった。専門科目の各クラスはPrerequisit コース(それを受講するのに前もって履修していなければならないコース)が決められていて勝手に好きなクラスから始めるわけには行かない。日本で履修が終わっていたのは機械科の科目がほとんどで数学や物理は理論物理を始めるのに充分なだけのものは勉強が出来ていなかったのだ。幸いなことに数学科と物理科のクラスは同じ建物の中で行われていたし、授業があるのは月、水、金の週三日だけだったので二股をかけるのにそんなに苦労はしないですみそうだ。といっても毎回の宿題は量が多く、火曜と木曜は宿題に追われる。

各科目の教科書の厚さといったら日本の教科書の比ではない。高等数学の教科書は800頁もあり、これを読むだけでも大変なのに各章に付いている問題をやって行けるのかと心細くなった。数学、物理、フランス語等の教材5-6冊を購入して下宿に戻った時私は思わずそのボリュームに圧倒されてため息が出てしまった。勿論勉強のために留学をしたのだが、映画で見たような楽しく華やかな学生生活も少しは経験できるかなと少し期待していたのがとんでもない思い違いだった。朝からパチンコ屋に行ったり、雀荘にこもって授業に出て来ない学生の多かった日本の大学生活とはぜんぜん違う。今も昔もアメリカの大学は入学が比較的簡単だが学生は在学途中にFlunk-out(成績不良での退学)させられぬよう懸命に勉強するのだ。

19. 日本人留学生
私と同じ時にワシントン大学に入った日本人留学生の数は十数名だった。新学期が始まるとすぐに先輩達が新入生歓迎の集まりを開いてくれた。一通り自己紹介が終わると車に分乗しTavern(居酒屋)に繰り出した。日本では、飲んだら決して車の運転をしなかった私にとって、車を運転して酒を飲みに出かけるなんて考えられないことだった。しかしアメリカの生活に慣れてくると、大学のキャンパスの近辺には飲み屋はなく、車で離れたところ迄行くしかなく、仕方がないことなのだと納得出来た。

この年(1962年)の春シアトルで世界博覧会が開催され、先輩達はいろいろなアルバイトをしてお金をためることが出来たと聞いた。私もあと半年でも前に来ていたら少しは学費が稼げたのにと羨ましく思った。グレイハウンドバスでシアトルに入った時最初に目にしたあの美しいスペースニードル(宇宙人のような形をしたシアトルターワー)もこの万博を記念して建てられたそうだ。その後先輩達にはいろいろとアルバイトの仕事を紹介してもらうなど大変世話になることになる。

20. 授業と学友達
物理科も数学科も1クラスの生徒数は大体20人から30人程だった。席は自由だったが生徒は授業開始時間には全員着席していたし、先生も時間通りに現れ終了時間にはピタッと授業を終えて出て行く。授業が始まるとまず出席をとる。生徒は皆「Yes」ではなく「Here!」と答える。点呼で私の姓をまともに発音してくれた教授はほとんどいなかった。「キヤミ」と呼ばれることが多かった。初めは私のことを呼んでいるとは気が付かなかったがアルファベット順に呼んでくるので慣れるとすぐ分かる。どのクラスにも女生徒も黒人生徒もいたし、歳を取ってから再び勉強したいという中高年の生徒もいて、日本の大学とは違った雰囲気だった。

物理や数学の講義はよほど言葉に訛りのある先生でなければ言っていることはほぼ解った。どの授業でも毎回宿題が出て、次の授業までにレポート用紙に自分の名前と解答を書き半分に折りたたんで教授の部屋の前にある宿題受け箱に入れておくのだ。宿題はすべて採点され教室で受ける筆記試験の点と統合され学期の成績がつけられる。したがっていくら期末試験の点が高くても宿題をサボっていれば良い成績は取れないしくみだ。物理の場合は毎週のように実験のクラスがあり、その実験で集められたデータを使い課題に対するレポートを作成するのが宿題だった。実験グループは決まっていて私は同じグループのドイツ人のエキ、そしてアメリカ人のボッブとジョーンの3人とはすぐ仲良くなった。

21. ウディーとMoonshine(密造酒)
下宿同居人大男のウディーはもてあますエネルギーを時々発散する必要があった。 発散の仕方は酒、女遊び、そしてスポーツだった。休みの日には必ずと言ってよいほど体育館に行き一人でくたくたになるまでハンドボールのボールを壁にぶつけては拾い又ぶつけては拾いして汗を流して来るのだった。 そして女遊びだ。 人種差別の激しかった社会であっても白人の女子学生には結構もてたらしい。白人女性は黒人男性に意外と興味を持っていて付き合ってくれると聞いていたが黒人の肉体にあこがれるのか又は差別を受ける黒人に母性愛をくすぐられるのかは定かでない。ウディーの場合は心理学を専攻していたので女性をくどく術に長けていたのかもしれない。

そんな彼がある時女性を口説き落とす方法を伝授するから着いて来いと言いだした。ウディーに着いて行くと黒人が経営する場末のみすぼらしいドラッグストアに着いた。そこで何やら果実酒のようなものが入っているボトルを一本買い家に持ち帰るとその中にいろいろな得体の知れないものを混ぜてオリジナルの密造酒を作った。この密造酒を女の子に酔いが回るまで自ら飲んでもらうようにもって行くのがウディー独特のやり方だった。実演して見せるから女性になったつもりで俺と向かい合って椅子に座れと言う。横には作ったばかりの密造酒がグラスに注がれて置かれていた。

そこでウディーはこれから簡単なゲームをやろうと言いだした。「僕が手を動かすので良く見ていてそれを同じ順序で真似るゲームだ」と言って「Mr.サイモンが手を叩く・・」とか歌いながら手を叩き、その手を膝に触り、肩に触り、そしてほっぺたに触ったりするのだ。その間わずか数秒だ。同じ順序で手を動かすのはほんの数個の動作なので簡単に出来そうに思える。「もし君が僕のやったしぐさを間違えずに真似出来たらこのグラスを僕が飲み干すが、もし間違えたら君が飲むことになる。これがこのゲームのルールだよ。」と言うのだ。このゲームはどちらかが酔っ払うまで続く。初めは易しそうに思えたがやってみるとほんの5・6個の動作でも正確に手の動く順序を覚えていられるものではない。正確に真似できるのはせいぜい5回に一度ぐらいだ。と言うことはウディーが一杯飲む間にこちらは4杯ほど飲まされることになる訳だ。酔いが回れば回るほど記憶が怪しくなるのでますます勝負にならなくなる。酒には弱くない私も間もなく意識が朦朧としてきた。ゲームをして遊ぼうと言って始めるので嫌と言える女性はいないのだそうだ。やはり心理学の応用だろうか? 結局ちょっと声を掛けて知り合った女性が知らぬ間に酔いつぶれウディーの言うままになってしまうと言う。これは犯罪なのだろうか? 合意の上と言われればそれまでなのかもしれない。ただ、私は実際にウディーがガールフレンドをこの方法で酔わせているところを目撃したことはない。

そんなウディーがある時ちょっと頼みたいことがあると言って来た。「俺と一緒にコンドミニアムで共同生活をしてくれないか」と言うのだ。女性をもてなす場所がほしいと言うことだった。ミセス・ジェイコブスンの下宿には女性は連れ込めない。入れてもらえる下宿を見つけるだけでも苦労するウッディーにコンドミニアムなど貸してくれるオーナーなどいないのだ。「君なら日本人だからたいていのところは入れる筈だ。俺が家賃の半分を持つのだからこんないい話はないと思うけどどうだ。」と言った。私はちょっとウッディーの手練手管を真近で観察してみたいと言う興味に引かれたが絶対にそんな話に乗るべきでないと言う友人の強い助言もあってその話は断ることにした。それから間もなくしてウディーはミセス・ジェイコブスンの下宿から姿を消した。それ以来私がウディーに出会うことは一度もなかった。


22. 無知なアメリカ人と無知な日本人
当時、日本人ならほとんど誰でもアメリカの大統領が誰で、首都はどこで人々が何語を話しているかという事ぐらいは知っていたと思う。ところがアメリカの人は親日家でもない限り日本のことを正しく知る人はあまりいなかったのだ。日本の首相の名前を知っている人はまずいない。アメリカに行けば世界地図の中心は日本ではなく、日本は東のはずれにある極東の小国なのだ。

私が留学して間もない頃ワシントン大学の大学院の学生に「日本では未だ紙の家に住んでいるのですか?」と訊かれた。またある時牧師の家に招かれた時、「日本人は皆着物を着ているのですか?」と聞かれたのだ。当時、確かに母親世代の人は着物を着ていることはあっても、子供や若者、サラリーマンなどは当然洋服だったし、私も物心ついた時から洋服で過ごしていたのだ。そのうちに牧師はニューヨークの話を始めた。ニューヨークは高層ビルが沢山あり、地下には電車が走っているのだよと説明を始めたのだ。地下鉄の話になるとどう説明しようかと一生懸命になっているのがわかり、私は日本にも何十年も前から地下鉄があるとはなかなか言い出せなかった。

そんなある時私はシアトルの名門高校に社会科の一日講師として招かれた。私の講義が終わって生徒からの自由な質問の時間となり一人の生徒が手を上げた。「Geishaのことを説明してください」と言ったとたん横に控えていた社会科の先生が「その質問はだめ。」と慌てて遮ったのだ。社会科の先生ですらその程度なのかと、日本に対する知識の低さに驚いた。しかし、Geishaに関していえば、国際化が広まった現代でも外国人がそれを正しく理解しているとは思えず、逆にミステリアスで興味をそそられるところもあるようなので仕方のないことなのかもしれない。

勿論日本のことを驚くほど良く知っている人にも何人か出会ったが、いわゆる知識人という人達でさえ、そのほとんどが日本に対して間違った、あるいは時代遅れの知識しかないことに驚いた。それほどアメリカ人やその他の国の人々にとって、日本という国がまだまだ関心を寄せるほどのレベルではなかったということなのだろうか。しかしその内に私は面白いことに気が付いた。日本を侍の国と思っているような物理科のクラスメートが「ゼロ戦はすごい戦闘機だった」とか「Canonのカメラは素晴らしい」とか言うのだ。又、仲の良かった学友のボッブはアンプを製作して売っているほどのオーディオ狂だったがソニーのアンプをテストしてあまりに性能が良くて吃驚したと言ったのだ。すなわち彼らの頭の中には古い日本と技術的に優れた近代日本が同居していて一つに統合されていないのだ。
ある時留学生の集まりで私は「アメリカに来てから何か気が付いたことは?」と聞かれ「日本のことをよく理解していないアメリカ人が多いのにびっくりしました。」と答えた。
するとインドから来た留学生が立ち上がり「そうかもしれないがそれでは君たち日本人はインドのことをどの位しっているのですか?」と訊ねたのだ。この時、私は自分たちより進んでいる国には注目するが後進国に対してはあまり知ろうといていない自分に気が付いたのだった。正に、無知なアメリカ人と無知な日本人と言う気がした。

23. 最初の中間テスト
10月に入り数学のクラスで最初の試験があった。結果は100点満点の90点で私はそのクラスでダントツのトップだった。 英語での試験が始めてのことだったので問題を理解するのに慎重になりすぎ途中で時間切れとなってしまったが手を付けた問題はすべて出来ていたので実質満点のようなものだった。クラスの平均点は28点だったのでクラスの皆からは「Kill’m!」、Kill’m](Kill himのことで「やっちまえ!やっちまえ!」ということで、ブーイングの一種)と盛んにと野次られた。

ところが翌日その科目担当のテーラー教授から呼び出しが掛かったのである。 教授の前に座ると「I’ve got a hunch that ・・」で始まる一種の尋問が始まった。「君は既に同じコースを日本で取っていたのではないかね?」と。私は、ここで初めて学んだと説明し教授も納得して解放されたが、いい成績をとってなぜ尋問されるのかその時は腑に落ちなかった。しかし、アメリカの評価の仕組み、評価によって奨学金獲得や大学院で希望科目の専攻が認められるか等の判定に影響が出ることが次第にわかってきたのだ。日本では絶対評価が多いのに対し、アメリカでは相対評価なので、Aをとれるのはクラスで数人と決まっていて、評価が何になるかは生徒にとって大きな関心ごとだったのだ。私にとってはたとえ初めて学習する内容でも得意分野だったので試験結果は納得のゆくものだった。私は、評価がその後いろいろな判定基準になることから教授も念のため確認をしただけだったと納得することにした。

24. キューバ危機
10月も半ばを過ぎたある朝、私は下宿を出て物理の教室に向かっていた。下宿からキャンパスまでは歩いて5-6分だ。大学の構内に入るとなんとなくいつもとは違う雰囲気が漂っていた。すれ違う学生達が皆早足で歩いているし、パナマ出身の女子学生が目に涙を浮かべて通り過ぎて行く。いつもなら笑顔を返してくれる子なのに・・と不思議に思ったが教室に着いてやっと事態が飲み込めた。米国民を戦慄させる大問題が起こっていたのだ。世に言う「キューバ危機」だ。

1962年10月22日ケネディ大統領は、ソ連がキューバにミサイル基地を建設中であることを公表し同基地の撤去を要求、ミサイル搬入を阻止するため海上封鎖を実行するとの声明を出したのだ。 ソ連はこれを拒否しミサイルを積んだ船はキューバに向かいつつあり、米ソの正面衝突の危機が高まっていたのだ。

時はまさに米ソ冷戦状態の真っ只中で「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことでアメリカ中が混乱し、スーパー・マーケットなどで水や食料などを買い占める事態が起きたのだった。この緊張は10月28日にソ連のフルシチョフ書記長がミサイル撤去を約束するまで続いた。

下宿の部屋にはテレビなどなく私の情報源と言えば日本から持っていったポータブルラジオが頼りだった。夜、勉強しながら聞いていたのは音楽番組が中心で、この重大ニュースを聞き逃していたのだ。 終わってみれば一週間ほどの短期間の出来事だったがあの張り詰めた空気は忘れることが出来ないものとなった。

25. 高校レスリングチャンピオンとの対決をせまられる
キューバ危機問題も一段落し11月に入った。大学の留学生支援事務所はフレンドシップツアーと称して留学生の為に休みを利用してシアトル近辺のツアーを組んでくれる。その一つにシアトルから南にやや下った田舎町チャハリスの家庭で感謝祭(Thanks Giving)の休日を過ごす催しがあった。一時間程汽車に揺られてチャハリスの駅に到着するとホスト役の家族が出迎えに来ていた。私を迎えてくれたのは高校生の女の子とその弟を両腕に従えたウイリー夫妻だった。留学生達は一旦それぞれのホストファミリーに引き取られそれぞれの家族との交流を楽しむことになった。ウイリー家では感謝祭特有の七面鳥の料理が用意されていた。初めて体験する本場の感謝祭は全て物珍しく感じられた。食事の後子供たちの部屋に連れていかれた。持って行ったテープレコーダーで琴の曲を聞かせると姉のアリスは興味を示し日本から筝曲のレコードを取り寄せたいと言い出した。弟のジョンはやんちゃでどう勘違いしたか駅で会った時から私のことをキム、キムと呼んでいた。東洋人は皆キムと思っているようだ。私は一晩限りのことなので敢て訂正もしないでキムに成りきってあげた。ジョンにはマッチ箱を使った簡単な手品をしてみせると不思議がって何度もやってくれとせがまれた。そんなことで何とか無事ウイリー家との親睦を果たせた安堵からその晩はほど良い眠りにつけた。

翌日はツアーに参加した留学生全員が集合し町の見学が始まった。最初は立派な観客席の付いたアメフトのスタデアムに案内されしばし高校生のアメフト試合の観戦だった。ルールが良く理解できなかったがピチピチした女子高校生の躍動あふれるチアガールの応援は目に焼きついた。日本では早慶戦などでの男子応援団の勇ましい応援姿しか見ていなかったのでなおさ印象に残ったのかもしれない。次に連れて行かれたのは町の乳業製品加工工場だった。そこでご馳走になったアイスクリームの味は格別だった。日本でもアイスクリームはいろいろ食べていたが工場の生産現場で食べたのは初めてだった。 

夜になるとツアーに参加した留学生全員が高台にある町の有力者の豪邸に招待された。ハリウッド映画でしか見たことがないようなゴージャスな館で広大な庭にはお決まりのプールがあり、青々とした水が眩しかった。シャンパンが抜かれ町のお偉方の歓迎挨拶が終わると園遊会となり留学生たちと町の人達の歓談が続いた。宴もたけなわとなった頃歓迎会のホストである町長が私に近づいて来た。「一つここら辺で空手か柔道の術を披露してもらいたいのだが」と言うではないか。大学生時代に体術と言う柔道と剣道をミックスしたような武術をしばらく習った経験はあったが黒帯を取っていたわけでもなく、かろうじて受身が出来る程度の私が何故指名されたのだろう。 日本からの留学生の中には日本人離れした体格の黒帯の猛者がいたのだが、柔道は小さいものが大男を投げ飛ばすと言う妄信があったのだろう。 一番小柄な私が現地のレスリング高校チャンピオンと対決することになったのだった。そっと町長の後ろを見ると体格のいい若い男が立っていた。無下に断れば親善パーティーの雰囲気を壊してしまいかねない。といって体格の良いレスリングチャンピオンなどどう考えても倒せるわけがない。しばらく途方にくれてシャンパンをお替りしながら心の準備をしている振りをして時間を稼いだ。 それでも町長は諦めない。 またもや催促だ。 「タタミ有りますか?」とっさに出た私の言葉。「えっ、タタミ?ないね。ここのフロアじゃだめかね?」そういわれて指差されたフロアは一面大理石だった。「こんなところで投げ飛ばしたら受身を知らない相手の方は大怪我をしてしまいますよ!」とここで一気にまくし立てた。するとどうだろう町長は件の高校生の元に行き何やら説明していたがしばらくして戻ってくると「分かったわが町の高校レスリングチャンピオンを傷つけるのはやめにしよう」と言ったのだった。その後口にしたアルコールのなんと美味かったことか。 

26.官憲から突然の呼び出し
シアトルに落ち着いて3ヶ月程経った頃だった。私のもとに官憲から出頭命令が届いた。 一瞬何事かと考えたが、思い当たるふしが無い。恐る恐る指定された日に税関局に行ってみると関税係官に「貴君はカナダ入国の際に持込所持品として日本製のカメラ(Canon)を申告しているがアメリカ入国時にはそれを申告していない。もし今それを所持していないなら個人使用品として持込み、違法に売りさばいたことになる」と告げられたのだ。ここで私ははたとバンクーバーで日令丸から下船した時に個人使用としてカメラを申告していたこと、 そしてカナダとアメリカの国境で運転手がなにやらしゃべっていたのがバスの騒音にかき消されて良く聞き取れなかったので無視していたことを思い出した。

私は日本からナショナル(現在のパナソニック)の高性能のポータブル・ラジオ、ビクターのポータブル・テープレコーダー、そしてキャノンのカメラを持って来たのだった。それらは全て日本が世界に誇れる製品だったがバンクーバーで下船する時身につけていたのはカメラだけで後の二品は日令丸が3日後にシアトルに着いたときにシアトルで税関に申告していた。そんなわけでキャノンのカメラだけが申告漏れとなっていたのだ。私が申告漏れを認めると未だ個人の所持品として持っているのなら公証役場(Notary Public)へカメラを持参し、所持していることを証明してもらい書類を提出するように言われた。私は公証役場で公証人に証明書を作成してもらい署名して提出し事なきを得たが大変に気をもんだ一件だった。

一時粗悪品として名を馳せた日本製品もこの頃から高性能、高品質として見直され海外に進出をし始めていた。中でも小型の携帯ラジオやカメラなどが高い評価を受けていて手に入れたがる人が多く、米国に持ち込むのも厳しくチェックされていたのだ。私の持ち込んだ携帯ラジオやテープレコーダーも留学中いろいろな場面で大変に役に立った。中でもキャノンのカメラは後に具合が悪くなりカメラとしての機能が壊れたにもかかわらずレンズが素晴らしいので売ってくれと言われた程だった。

27. 奨学金にチャレンジ
12月になって秋の学期も終わり成績が出た。数学が2科目とも「A」だったが肝心の物理の2科目は両方とも「B」だった。従ってGPAは3.5だ。物理はちょっと背伸びして実力以上のクラスに編入してしまったようだ。そんな時、留学生支援事務所の女性事務員ジーナから留学生向けのScholarship (奨学金)があるから応募してみたらと言われた。

奨学金などは学業が飛びぬけた生徒のみがもらえると思っていたので尻込みしていると「駄目もと」だから応募してみなさいと言ってアプリケーションフォームを渡された。半年先からの留学費の工面に頭を悩ませていた時だったので素直に応募してみることにして書類をジーナに提出した。数日後、銀行から電話が掛かってきた。「あなたの口座に1万2千ドル入金がありました」というのだ。どう考えてもありえない話だ。親に仕送りを頼んだ覚えはないし、そんな大金が家にあるわけもない。 奨学金だって生徒に直接支払われるわけではなく大学に支払われて生徒の授業料が免除になるだけの筈だ。「何かの間違いだと思うので良く調べてほしい」と言っても銀行側は「間違いないの一点張り」だった。

そもそも私はアメリカの銀行を全く信用していなかった。下宿が決まってすぐに大学近くの銀行で自分の口座を開いた時、通帳を開いてみると計算間違いが見つかったのだ。担当したテラー(銀行の窓口出納係)に言うと誤りを認めすぐに修正はしてくれたのだが一言の謝りもないのだ。日本の銀行だったらまず考えられないことだった。やはり今回も翌日になって電話が掛かってきた。「昨日の入金は間違いでした」とそれだけだった。もし私が銀行の言うことを信用して、理由のわからない入金を信じて、喜んでいたらきっとがっかりしただろうが、「ほら、やっぱり」と思ったのは少しアメリカの生活に慣れてきていたからだった。

さて、肝心の奨学金の方は二週間ほどして事務局からの手紙が届いた。「I regret to inform you ・・」で始まる文だった。要するに審査委員会は私への次学期の奨学金支給を見合わせたと言うものだった。もともとあまり当てにしていなかったのでそれほどショックはなかった。ジーナに告げると「今回は見送られたけれど成績が悪いと言うことではなくあなたがこの成績を持続できるかどうかもう一学期みたいと言うのが審査委員会の意見だったのよ」と教えてくれた。この留学生を対象とした奨学金制度は国別にQuota(割り当て)が決まっているので応募者の少ない日本の場合は良い成績さえ残せば比較的楽に獲得できることも教えてくれた。競争の激しい台湾の場合などはオール「A」でも取らないといけないようだった。それが事実ならば冬学期でよい成績をキープできるように頑張ればいいので悲観することはない。少し希望の光が見えてきた気がした。

28. 数学科の良きライバル達
私は数学科のコースでは大分Aを稼いだが手ごわい相手が二人いた。一人は台湾から来ていたマーク・リーだ。彼は私より一つ年上で小学校低学年のころ日本語で教育を受けていたため日本語が話せた。台湾は日本の統治下にあったので周りに軍人が多かったのか彼の日本語は完全に軍隊口調だった。何か話していると叱られているような気になってくるのだ。でもとてもいい人だったので学生食堂で一緒にランチをとることが多く、打ち解けると何でも話してくれた。台湾からアメリカに渡る途中日本に寄ったこと。そして東京の浅草でうわさに聞いていたトルコ(当時ソープランドはトルコと呼ばれていた)に行ったことなど。それで私が「それでトルコはどうだった?」と聞くと「貴様ねー、俺は愛情の無い相手とやったって楽しくなかったよ。やっぱり愛し合っているかみさんでなきゃだめだよ。」と言うのだった。リーさんは台湾に奥さんと小さいお子さんを残して来ていた。良い成績で卒業して良い職に就いたら家族を呼び寄せる計画だと言う。台湾は奨学金を取るのは日本より希望者が多い分厳しく大変だった。だから彼の勉強に対する態度は真剣そのものだった。積分に関するコースで一緒だった時のことだ。中間試験で私がAに該当する成績を取ったのに対し、彼はBに該当する成績しか取れなかった。これには理由があったのだ。コースの担当は若い助教授だったが中間試験の問題の出し方が実にあいまいだったのだ。 口頭でただ「あの重要と思われる定理の元になる部分を証明せよ」と言っただけだったのだ。中間試験の時までに出てきた定理は一つだけではなかったのでどの定理を指して言ったのか確かに迷うところだった。リーさんは早速助教授にあの表現ではアメリカ人には理解できても外国留学生には意味が取れないのでこれは差別であると抗議したのだ。そして再試験をするか期末試験で不利にならないよう取り計らうよう要求したのだ。執念と言うべきか、最終的にはリーさんは無事Aを取った。
もう一人のライバルは日本人のカコちゃんだ。彼女はほとんど日本人留学生の交流の場に姿を見せなかったが、よく図書館でこつこつと勉強していた。小柄でおかっば頭だったので見たところ小学生のように見えた。数学が好きで好きでたまらないと言った感じでほとんどのコースでAを取りまくっていた。 彼女は大学近くに部屋を借りていたが部屋には可愛いぬいぐるみをたくさん置いていた。 大学の成績を知らなければ正に可愛い女の子なのだが数学科では私にとっては強力なライバルだった。その彼女は学期が終わるといつの間にか姿を消してしまった。フランスに渡ったといううわさを聞いたのはだいぶ経ってからのことだった。

29. 一夜の寝床泥棒
冬のシアトルは雪があまり積もらないが気温は急激に下がって夜は零度以下になる。12月のある夜のこと私は友人達との飲み会でほろ酔い気分で下宿に戻って来た。いつもの様に玄関ドアの鍵穴に鍵を差し込んだのだがこの夜は鍵穴の中が凍り付いてしまっていて鍵が回せない。10分ほど懸命に捻ってみたが手はかじかんで力も入らなくなってきた。酔いはとっくに醒めて全身に震えが出はじめた。このまま外にいては朝までに凍死しかねないと焦った。玄関上のポールの部屋の電気は既に消えていた。誰か未だ起きている友人はいないものかと考えると近くの下宿に住んでいるドイツ人留学生ハンスのことを思い出した。勉強家の彼なら深夜を過ぎた時間でも起きているかもしれない。

彼の入っている下宿は100mほど先の角地にあった。 行ってみると幸いなことに一階の彼の部屋には未だ明かりが点いていた。窓に近づいて窓ガラスをこんこんと叩いてみた。気が付いた彼は玄関ドアを開けて部屋に招き入れてくれた。ハンスは未だ二十歳前だったが頬ひげと顎鬚を伸ばしパイプを加えて革張りの椅子に座っている姿は哲学者の様な風格があった。事情を話すと暫くパイプを吹かしていたがパイプから手を離すと親指を天井に向けて差し出しウィンクをした。下宿は未だ満室になっておらず上の階に空き部屋があると言う。「黙っててやるから朝早く起きて出て行けば大丈夫だろう」と言うのだった。私はそっと2階の空き部屋に忍び込み、真新しいシーツで整えられたベッドに滑り込んだ。罪悪感はあったが、おかげで凍死することもなく気持ち良く眠れた。翌朝まだ薄暗いうちに、何事もなかったかのようにシーツのしわをのばして宿を後にしたのは言うまでもない。

30. クリスマス休日のスキー合宿
クリスマス休暇に行くところのない留学生のために留学生支援事務所はスキー合宿を企画していた。 場所はカナダとの国境近くにあるマウント・ベーカー(Mt.Baker)のロッジだった。スキーが好きだった私はやはりスキーが好きの日本人留学生を誘って参加することにした。実はホストファミリーのアン(デイビッドソン夫人)はスキーが大好きで私のためにHEAD(メーカー名)の金属製スキー板を用意してくれていたのだ。

出発は金曜日の午後だった。教会関係のボランティアの人達が手分けして参加する留学生達を山小屋まで運んでくれるのだ。私を迎えに来たのはラスと言う名の優しそうな人だった。小型トラックに乗ってやって来た彼は30を少し過ぎたぐらいの年恰好だったがイガグリ頭で子供のようにニコニコしていた。

助手席に私を座らせるとラスの運転で小型トラックはシアトルを後にし北へと向かった。 2時間ほど幹線道路を北上すると東に向かって山道に入り暫く行くと川辺に出た。既に夜の帳はすっかり下りていた。「ここらで少し休んでいこうか?」とラスに言われドアを開けて外に出ると冷たい澄んだ空気で空には無数の星が輝いていた。ラスがいろいろと星座の説明をしてくれた。天空の星達はそれまでに見たこともないほど鮮明に輝いていて実に綺麗だった。

車中でラスが用意してくれていたサンドイッチをほおばりながらラスの話を聞いているうち気が付くといつしか車は雪道を登っていた。ロッジに着くと既に大勢の留学生達が到着していた。この夜は簡単な自己紹介から始まった。私を入れて日本人は4人だった。女性のKさんと慶応ボーイの上村君は既に顔見知りだったがもう一人の女性は初顔だった。法村律子という名前だった。自己紹介で彼女は「リ・ツ・コ」と言ったのだが外国人には発音しずらいためか、彼女は皆からリッコと呼ばれるようになった。以後この物語ではリッコと言う名で登場する。彼女はワシントン大学の医学部に日本から派遣されていた研究員だった。医学部の同僚のドイツから来たアイリーンと部屋をシェアーしてシアトルの郊外に住んでいたので大学近辺ではあまり出会う機会がなかったうえ、学生ではなかったのでそれまで留学生会の会合では見かけなかったわけだ。日本人以外にも、韓国のキム、トルコのハルーク、カナダのミッシェル(女性)、ドイツから来たギュンター、ウーゼル(女性)、ギゼラ(女性)等々がいた。ロッジには囲碁のセットも置いてあったので私はキムとは碁を打ち、留学生の余興の時間にはハルークとトルコの歌を歌い彼を感激させた。歌の苦手な私がたまたま江利チエミの「ウスクダラ」の歌詞を覚えていたのだ。ミッシェルは体格のいい女傑と呼ぶにふさわしい女性で男でも恥らうほどのY談(下ネタ話)を得意としていた(50年後に再開してみると驚くことにスリムで貞淑な女性に変身していた)。初日の夜は皆でクリスマスソングを歌ったり留学生同士のお喋りが暫し続いたが比較的早く床についた。ロッジのベッドは簡素なものだったが寝心地は悪くなく私はすぐに寝付いた。

翌日、私は上村君を誘ってロッジ裏のゲレンデに出てスキーを楽しむことにした。ゲレンデに出ると既にカナダのミッシェルとトルコのハルークが滑っていた。暫くしてドイツのギュンターとウーゼルも現れた。彼らと一緒になって滑っていると転んでも転んでも雪まみれになったまま平気な顔をして立ち上がり急斜面を滑り降りていく女性が目に止まった。白のセーターを着ていてサングラス、それに帽子やスカーフで顔を覆っていたが其れは間違いなくリッコだった。このクリスマス合宿では大勢の友達と出会ったが,中でも一緒にスキーをした仲間とはその後長く付き合うことになった。ギュンターとウーゼルはこの翌年結婚したがこの二人には私がアメリカからヨーロッパに渡った時にたいへん世話になることになった。リッコは合宿が終わって別れる時「時々車に乗せてもらえますか?」と言って私に紙切れを手渡した。紙切れには彼女の電話番号が書かれていた。私も慌てて自分の電話番号を教えた。楽しかったクリスマスが終わってシアトルに戻ると間もなく1963年を迎えることになる。

31. 冬学期始まる
アメリカにはクリスマス休暇はあっても日本のような正月休みはない。元日は休日となるが2日からは平日であれば仕事や学校が始まる。そんなわけで大晦日は親しい日本人留学生達と軽く一杯飲むぐらいで過ぎてしまった。正月気分を味わえるのはシアトルの日本語ラジオ放送から流れてくる「明けましておめでとうございます」の言葉ぐらいだ。私は日曜日にはよく日本語放送を聴いたが普通の日は現地英語放送のポピュラーミュージックの番組を聴いていた。その頃急に流行ってきたのが坂本九の「上を向いてあるこう」だった。もっともラジオでは「カユ・サカモト、スキヤキ(時にはスキヤカとも発音されていた)ソング」と紹介されていた。やはり懐かしいのでうれしく感じた。
1月に入るとすぐ始まる冬学期の選択科目を決めなければならない。私は奨学金をもらうために絶対にGPAを下げるわけにはいかなかった。数学は秋学期の続きの2科目を取り、物理は日本でも少し勉強した力学と熱力学を選び、更にGPAを上げるため自信のあったフランス語の中級コースを選んだ。いよいよ私の第二学期が始まった。フランス語はサルトルの本が教材だった。フランス語そのものより哲学的な内容のほうが難解だった。数学は問題なかったが物理は授業の進み方が早く宿題に終われる日々が続いた。ただ一度だけ力学の教材で「・・・はニュートンの法則と相容れないところである」との記述を見つけ教授にどの部分が矛盾するのか質問したところ「このクラスで計算問題の質問ではなく物理の根幹に関わる質問をしてきたのは君が始めてだ」と変な褒められ方をした。私としては古典物理学が行き詰って出てきた現代物理学を学ぶために留学したのだから当然な質問だったのだが。

32. 1963年2月 ハウスボーイとなる
2月に入ったある日久しぶりに大学の留学生支援事務所に立ち寄ってみるとスタッフから声をかけられた。「日本人のハウスボーイを探している家があるのだけれどもやってみないか」というのだ。私が留学資金で苦労していることを知っていたスタッフが私のために特別にとっておいてくれたアルバイト口だった。よく聞いて見ると今入っている日本人留学生がフラタニティハウスに移るので後釜を探しているというのだ。その日本人留学生は一年先輩のNさんだった。連絡を取ると「一度見に来ないか?」と言ってすぐに家まで連れて行ってくれた。

先輩に連れて行かれたリチャードソン邸は大学から2マイル程はなれた場所にあるブロードモアーと言う名のプライベート・ゴルフ場の中にあった。 ワシントン湖を見下ろす小高い丘の上にあり地下1階から3階まで南側が全面ガラス張りのお城のような豪邸だ。 話はその日のうちにまとまり私は早速リチャードソン邸のハウスボーイとして移り住むことになった。 

大学に通う時間以外で自分の自由になるのは日曜日と平日の夜9時から翌朝6時まででそれ以外の時間はすべて何らかの仕事が与えられていた。 土曜日は終日掃除でつぶれる。 学生ビザで入国している留学生は正式にはアルバイトをしてはいけないと言うことになっていたので厳しい条件で働かされても我慢するしかない。 他の日本人留学生からは「よく我慢できるね」と言われたが私は未来に夢を持っていたのでそれほど辛いとは思わなかった。 部屋付、食事付、そして月々$50(当時の為替レートは1ドル360円だったから日本の大学同期生の初任給より遥かに多かった)のお小遣いをもらえる仕事は魅力だった。あてがわれた部屋はベースメント(地下)にあるとはいえ広いバス、トイレ付でベッドも立派なダブルベッドだった。また明かり窓がついていて窓の真ん中ぐらいが路面の高さとなっていて光がふんだんに差し込んでくるのも気にいった。 

私はキャンパス近くの下宿からここに引っ越してきて通学用に中古の自転車を15ドルで買った。自転車は変速ギア付で時々チェインが外れるトラブルを除けば坂道の多い通学路には最適だった。ブロードモアーは関係者以外の一般人はゲートで許可証を見せないと侵入できない地区だったたが間もなくゲートの番人にも顔を覚えられ自転車で自由に出入りが出来るようになった。早速私は仲の良かった友人達にはハウスボーイとしてリチャードソン家に移り住んだことを連絡した。特にクリスマス合宿以降、時々車が必要な折に助けを求めてきたリッコにはこれからはあまり役に立てなくなったと告げた。 

33. リチャードソン邸での仕事
毎日朝6時には起きて夫妻のために1階のキッチンに駆け上がりコーヒーの準備をする。毎朝6時に起きるなどと言うのは日本にいた頃には考えられないことだったが慣れとは恐ろしいもので暫くすると3階の寝室でご夫妻が目覚めた気配(具体的にはベッドがコトッと音を出す)で目が覚めるようになった。コーヒーの準備が終われば直ぐに大きな飼い犬を散歩に連れ出し犬が便をするまでゴルフ場の中を歩き回り犬の用便が終わるや否や家に連れ帰って大学へ自転車に乗って出かける。大学から戻ればスーパー・マーケットへの買い物、庭の草花の手入れ、植木の刈り込みなどで休む暇のない毎日だ。

又、夜は皿洗いをすることになっていた。ディッシュ・ウォッシャーはあったのだがある程度食器を洗っておかないと完全に汚れが取れない場合があるということでディッシュ・ウォッシャーに入れる前に軽く洗っておくのだ。毎週土曜日は朝から夜までかかってお城のような家の地下室から4階のアトリエまで家中の大掃除を一人ですることになっていてこれが又大変な仕事だった(何しろ全部でトイレ浴室が5ヶ所もあったのだ)。十数室ある部屋のふかふかした絨毯に大型の電気掃除機(日本ではまだ電気掃除機は普及していなかった)をかけることから始まり、家具の艶出し、洗面室のタイルのたわしがけ、トイレの便器磨き、そして時には便器にへばりついた便をたわしを使っての除去、窓ガラス拭き、ブラインドのひだ1枚1枚の裏についているほこり取りはとても根気の要る泣きたくなる作業だった。 窓拭きにしても低い階の窓はまだしも3階、4階となると身体を半分外に乗り出して外側も磨くのだから電信柱の上に登って作業しているようで高所恐怖症の私には震えが来てしょうがなかった。他の留学生が休みを楽しんでいる土曜日はそんなわけで私にとっては一番大変な日だったのだ。

それ以外にも月に一度大きな部屋一杯に集められていた銀の食器類を特殊なクレンザーで磨く日が決められていて、これがまた大仕事だった。銀食器は一ヶ月もすると表面が酸化して黒く汚れてくるが、この汚れをクレンザーで磨くとその黒い銀特有の汚れが磨いている手のしわの溝に染み込んでそれがどんなに石鹸で洗っても一週間はとれないのだ。この豪邸はプライベート・ゴルフ場の中にあったので主人夫妻は年に何回かは100人前後の客を招待してはパーティーを開いたり、また夫人の方は数人の友人を招いてブリッジをしたりゴルフをしたりした。そんな時は臨時にバーテンダーにさせられたり、ウエイターにさせられたり、キャディーの役をさせられたのだ。確かに大変な日々ではあったが私は夢中で全部をこなしていった。

34. ヨークシャーテリア「トップス」
ハウスボーイとして住み込むこととなったリチャードソン家で最初の日に夫人に言われたのは「Make bed for Tops!」だった。Tops(トップス)というのは夫人の飼っていた犬の名前だった。小学生の頃、通学途中で道の先に犬の姿が見えるともう足がすくんで歩けなくなるほどで世の中から犬などいなくなればよいと思っていたほど犬嫌いだったこの私が犬の世話をすることになろうとは思ってもいなかった。初めに犬の話を聞いていたら、きっとこのハウスボーイの仕事は断っていたに違いない。

世話をするようにといわれたトップスはふさふさした薄茶色の毛にところどころグレイの毛が混ざったやや老齢なヨークシャーテリアだった。<Make bed>というのは寝床を整えるという程度の意味だがあがっていたせいか犬のベッドを作れと言われたと勘違いしてしまった。リチャードソン夫人がどうして私の工作好きを知ったのだろうと不思議に思った。トップスの寝床はベースメント(地下階)の一角にあった。見ると毛布がくしゃくしゃになっていた。あっ、そうかこの毛布をきちんとひきなおしてやればいいのだなとその時気がついた。

トップスも毎日餌をやっていたので暫くすると良くなついてきて怖くなくなってきた。毎朝餌をやった後に排便をさせるためリチャードソン邸の庭と繋がっているゴルフコースに連れて行く。 早朝のゴルフ場はたくさんの小鳥達がそこら中で競うように囀っていてとてもさわやかな気分になる。 但し当然のことながらトップスが便意を催すまでの時間は日によってまちまちだった。このことが私にとっては大問題となってくる。大学の授業は8時20分から始まる。リチャードソン邸からは自転車でどんなに急いでも物理の教室までは15分はかかるのだ。 と言うことはトップスの朝の散歩は8時までには済まさないといけない。トップスが便意を催すまでの時間にはばらつきがあるので余裕をもつ為には7時半には散歩に連れ出さなければならないのだ。 

6時過ぎに3階のリチャードソンご夫妻のベッドがコトッとなる音で目が覚めるとすぐさま着替えをして台所へ行きご夫妻のための朝のコーヒーを用意しなければならない。それと同時に自分の朝食を食べ、サンドイッチの弁当を用意する。トップスの排便時間が定まらないと毎朝せわしないこと夥しいのだ。そんな時、ふと奇策を思いついた。そうだ、これならばトップスの排便をコントロールできるかもしれない。思いついたら直ぐ実行あるのみだ。ゴルフコースに出るとフェアウエー脇の林で小枝を拾い、狙いを定めてトップスの肛門のしわしわの部分を突っついてみた。そうするとどうだろうトップスはその場でよたよたと数歩進むとかがみこんで排便を始めたのだ。この方法は百発百中成功した。私にとっては大発見だった。それからというもの毎日この方法でトップスの散歩時間をコントロールしたのだ。トップスにとってはいい迷惑だったに違いない。

35. 自動車事故
リチャードソン家に入って間もない頃だった。私はダウンタウンに向かって車を走らせていた。片側4車線の一番内側センターラインに沿って走っていた、いや、そのつもりだった。ダウンタウンに行くためには左の脇道に入らねばならなかった。前方から車が向かって来ていないことを確認してハンドルを左に切った。途端にドカーンと音がして車がはじかれるのを感じた。後ろを走っていた車が私の車を追い越そうとした時に私が急に左にハンドルを切ったので追突したものと思った。気が付くとハンドルを握っていた私の手の指の間から血が滴っている。慌てて車から降りてみると追突した車の運転手が立っていた。保険に入ってるかと聞かれ入っていると答える。保険に入るときアメリカでは自分が悪いと思ってもソーリーと言ってはいけないと聞いていたので黙っていると追突したその人は穏やかな口調で話し出した。「君は留学生かね。ここは一方通行だよ」と。ハッと気が付くと8ッのレーンを走っている車は皆同じ方向に走っている。私がセンターラインに沿って走っていたと思っていたのは単に8車線の内の4番目のレーンを走っていただけだったのだ。だから左にハンドルを切るときには自分の左側を走っている車がないかを確認してからハンドルを切らねばならなかったのだ。日本では8車線もある一方通行の道など考えられなかったから間違えたのも仕方がなかったのかもしれない。相手の運転手は怒ることもなく淡々と私の示した保険証を見て保険会社に連絡を取り以後気を付けなさいと言って傷がついた車に乗って立ち去って行った。私の車は左側後部が大きくへこみ車体部が後輪を圧迫していてそのままでは発進できなかった。車に入っていた金具で時間をかけてへこんだ部分を叩きだした私は徐行運転でなんとか下宿先まで戻ったが血だらけになった手が心配ですぐ大学の病院に向かった。
ワシントン大学には留学生が利用できる医務室があった。若い担当医は私の手をしばし調べていたが骨はやられていないので大丈夫だ助手が手当てをするから隣の寝室のベッドで休んでいるようにと言って出て行った。私がちょっと動転していたので休んで行けと言ったのかもしれない。暫くベッドで休んでいるとドアが開いて白衣の女性が入って来た。何とリッコだった。白衣のリッコを見るのは初めてだった。「なーんだ。木山君だったの。日本の留学生だから手当てするよう言われてきてみたんだけど」と言ってにこっとした。リッコは医学部の研究員で看護婦ではないのだが手際よく傷口を消毒して包帯を巻いてくれた。なんだか借りを作ってしまったような気がした。その時リッコが大学近くの下宿に移り住んだこと、そして私にアッシーの役を頼まなくて済むようになったことを知った。リッコが研究員として勤めていた大学病院は私が授業を受けていた物理教室の傍にありリッコの新しい通勤路と私の通学路がクロスしていた。この出来事以来しばしば通学途中リッコと出くわすようになった。

36. 仲良し4人組
物理の実験で一緒だったエキ、ボッブ、それにジョーンとはすぐ仲良くなった。 エキはドイツ人で物理の科目はほとんど「A」を取っていた。ボッブはオーディオマニアで彼自身アンプを作っては売って学費に当てていた。ジョーンは人のいい普通のアメリカ人だ。私を交えた4人は放課後よく集まって数学や物理の宿題を一緒に解いた。

物理の宿題は多くの場合その週に行った実験のデータを使ってレポートを仕上げるものだったがエキが何時も確りとデータを記録していてくれたおかげでずいぶん助かった。ボッブとジョーンはあまり数学がとくいではなく小1時間程考えても出来ないと私の答えをコピーして提出していた。エキは毎回のように物理のレポートを短時間で書き上げるのが不思議だったが、ある時その理由を知ってしまった。

フィゾーの光速測定実験の時だった。私は3x10の8乗メーターに近い結果は出たがエキはC=2.9979・・x10の8乗と5桁ぐらいまで正確な数値を出すのだ。ふと彼のデータを見るとなんとデータを捏造していたのだ。最初に「答えありき」で測定データの代わりにより正確な結果が得られるように自分で都合のいい測定値を作っていたのだ。学期の最終成績には宿題の点が50%程反映されるのでこれでは勝負にならないが、エキは期末試験でも良い点を取っていたので何も言えなかった。

37. 初デートと不可解な話
気候も春めいて暖かくなって来た頃私はエキからボッブ、ジョーンと共に家に招待された。誰かガールフレンドを連れて来いというのだが、私には適当なガールフレンドなどいなかったので困ってしまった。そこでふと思いついたのがクリスマスのスキー合宿で知り合ったドイツから来ていたギゼラだった。ドイツ人の家庭に行くのだからドイツ人女性がいいかなと言う単純な発想だった。ギゼラに連絡を取ると「いいわよ」と二つ返事だった。ホストファミリーのアンに話すと「良かったわね。初めてのデートでしょ。私の車を使いなさいとヒルマンの赤いコンバーティブル車を貸してくれた。

真っ赤な小型オープンカーに金髪の女性を助手席に乗せ新緑の郊外を走るのは気分のいいものだった。シアトル郊外のエキの家に着くと既にボッブとジョーンは来ていた。しかし二人ともガールフレンドは連れてきていなかった。エキは私がドイツ人のギゼラを連れて現れたので一瞬びっくりしたようだったがすぐにギゼラと打ち解けて話し始めた。そこへエキの父親が現れていいものを見せるからといって私を地下室へ案内した。そこは研究室と言うか実験室と言うか部屋の真ん中には宇宙を思わせる様な模型があり地球のようなものが空中をぐるぐる回っていた。エキの父親は人工衛星エコー(私が日本にいるときに東京の夜空でも肉眼で見ることが出来たアメリカが打ち上げた話題の人工衛星)開発技術者グループの一員だったそうだ。その彼が私に向かって「私はこの装置を使ってアインシュタインの光速度不変(いかなる慣性系から見ても)の原理が間違いであることを証明した」と言いだしたのだ。もし、それが本当なら物理学界を揺るがす大問題になるはずだがそれ以後そんな話はどこからも聞こえてこなかった。私はエキのデータ捏造を知った後だったので「この父にしてこの子あり」なのかなと思った。

母親が留守だったせいかエキは自らソーセージを主体としたドイツ風の昼食を用意していた。食事が終わると、エキは自作のアンプを持ち出してきてボッブに見せ何か意見を求めていた。当時のアンプには真空管が使われていた。そんな時エキが突然私に向かってチラッとボッブに目をやり「ボッブはこれだから注意しろよ」と言ってアンプから取り出した真空管を口にくわえる仕草をしたのだ。まさか、ボッブにはガールフレンドがいた筈だ。しかしその日ボッブもジョーンもガールフレンドを連れてきていなかった。

それから数日たったある日、ジョーンがリチャードソン邸の私の地下室に尋ねて来た。数学の宿題を一緒にやってくれと言うことだった。ジョーンが一人だけで来たのは初めてだった。暫く一緒に宿題に取り組んでいのだがその内私は異様な雰囲気に気がついた。ふと顔を上げてジョーンを見ると私を見つめているのだがその目がうつろになっている。私は気味が悪くなり表に飛び出した。「ブルータス、お前もか」の心境で暫く心臓の鼓動がなりやまなかった。ダウンタウンのバーで変な男に言い寄られたこともあった私はアメリカにはあちら系の人間が多いのだなと思った。しかし、その後もボッブやジョーンとは注意しながらも普通の友人関係を続けた。尚、エキの家に一緒に行ってくれたギゼラはその後間もなく家庭の事情で国に戻って行ってしまった。

38. ジミーとエミ
私が留学していたころシアトルには日本料理店が4・5軒あった。どの店でも結構ちゃんとした日本料理を出していたがよく行く店は決まっていた。そこはちょっと洒落たバーカウンターがあって話し相手になってくれるエミいう名の可愛い女性バーテンダーがいた。はきはきした話しぶりで我々日本人留学生の良き話し相手になってくれた。何回か通った頃ワシントン大学同期の上村君と私とが彼女のアパートに招待された。「何か美味しいものを作ってあげるからいらっしゃい」と言われ私は上村君と勇んで彼女のアパートに馳せ参じたのだった。部屋に入るとしゃぶしゃぶのセットが用意されていた。柔らかい牛肉をふんだんに食べさせてもらった二人は大満足だった。そんなことがあってから上村君と私は以前にもましてエミのいるバーに顔を出すことが多くなっていった。
私は日本人留学生達とは幅広く付き合っていたが同い年の上村君とは何となく気が合い学部が違うので勉強の話はしたことがなかったが学業以外のことではよく一緒に行動していた。
リチャードソン邸に移り住んで1ヵ月もすると春めいた気候になって来た。そんな頃のある日曜日ことだ。天気がいいので私はブロードモアーゴルフコースの散策路を散策していた。すると向こうの方から小柄な男がちょっと肩をいからせながら歩いて来た。初めて見る顔だった。傍まで来るとその男は「ヘイ、ユウ日本人?」と話しかけてきた。私がリチャードソン家でハウスボーイをしていると答えると「ボク、ジミー辻原というんや、先週からその先のベンソン家にやっかいになっているんや」「ユウはハウスボーイでいくらもろうてんのや?」「50ドルか、僕は30ドルしかもろうてないが仕事はほとんどしなくていいんだ」と一方的にまくしたてた。話し方が日系二世のように感じられたのだがれっきとした留学生ということだった。只よく聞くと大阪で中学を出てからハワイの叔母のところに世話になりハワイの高校を出たのだという。その日はそのまま別れたがその後は家が近かったのでちょくちょく出会うようになった。間もなくしてそのジミーが新車を買った。どこからそんな金が出たのかは分からないがシボレーのオープンカーだった。「ちょっとテストドライブするから乗ってや」と言い私を助手席に座らせるとキーッと音を立てて急発進した。その急発進のさせ方がすごい。駆動輪を急回転させるとタイヤが空回りして路上との間に摩擦熱で煙が出るのだ。ジミーはそれがたまらなく好きだというのだ。急発進だけでなくカーブでの急回転でキー、キー、音を立てて猛スピードで街を走るので生きた心地がしない。そのジミーがある夜「彼女とボーリングをしに行くので一緒に行かないか」と誘いに来た。ボーリング場に行くと何と待っていたのはエミだったのでびっくりした。それから何度か一緒にボーリング遊びのお供をしたがいつもジミーが誘いに来るのは真夜中過ぎだった。エミの仕事が終わるのを待つのでそんな時間になるのだと分かったが私にとってもハウスボーイの仕事に関係ない時間だったので都合がよかった。こうして深夜の3人でのデートが暫く続いた。

39. 園遊会と七面鳥の亡霊 
Mr.リチャードソンは大手製紙会社の営業部長だった。学生時代はアメフトの全米代表選手にもなったことがあると言うだけあり立派な体格をしていた。夫人の方も大柄で漫画のブロンディーのような金髪で丸顔だった。二人は良く友人を招いてパーティーを開いた。
私はパーティーの日が近づいてくると夫人に呼ばれ、バーテンの練習をさせられた。「ジントニックを作って」、「マティーニを作って」との指示で、メジャーを使ってベースとなる酒と添加物をグラスに注ぎかき混ぜて完了だ。混合比率を間違えると「それではダメ!」と言われやり直しさせられる。練習用にビンの中身はすべて水なので失敗しても問題ない分何度も練習させられた。

パーティーにはプロのバーテンダーが雇われるので実際のところ、私の出番はあまりないのだが、ウエイターとして飲み物の注文をとって回るのである程度の知識がなければならないわけだ。リチャードソン家のパーティーに集まる人達が注文するのはウイスキーのオンザロックかジントニックかマティーニぐらいだったが苦労したのは飲み物の注文をとることより注文した人のところに飲み物を間違いなく届けることだった。何せ広い庭での立食パーティーだ。人々はいろいろな人と話すため動き回る。皆似たような顔をしていて服装も似ているのだ。動かないでいてくれても区別が出来ないのに動き回るのだから注文された飲み物をそれを注文した人に間違いなく持って行くのは至難の業だった。

日本では飲み会等を開く場合はサークル、学校のクラスメート、職場の仲間とかある特定のグループだけで集まるのが普通だが、アメリカのパーティーはホストにつながりのある人々を招待するので、それまで繋がることのなかった人々が集い、友達の輪がどんどん広がってゆく。
パーティーでは前もって出欠席の返事を貰っているのだが、時には当日になって出席者の数が大幅に狂うことがある。その年リチャードソン家で友人の出版祝賀会が催されることになった。60人前後の参加者を予測していたところ実際に参加したのが40人強になってしまった。被害を蒙ったのは私だった。七面鳥の料理が大量に余ってしまったのだ。七面鳥も通常だったら美味しいと思えるのだが、来る日も来る日も七面鳥を食ってくれと言われ続ければどうなるか。一週間もこの拷問が続いた頃から私は七面鳥にうなされるようになった。

40. アメリカ女性の秘毛(?
ある時夫人の姪でワシントン大学の学生だったフライデーが泊まっていった。 そして翌日の土曜日、私はゲストルームの浴室を掃除中、金色のちじれ毛が落ちているのに気が付いた。フライデーのものに違いない。そのまま洗い流そうとした時ふと高校時代の友人の頼みを思い出したのだ。それは是非アメリカ女性のあそこの毛を持ち帰ってほしいというものだった。あそこの毛なんてよほど親密にならなければわけてもらえるはずもない。そんなことは内気な自分に出来るはずもない。しかしここにあるのは紛れもなくその友人ご所望のものであることに間違いない。私は早速努力なしに手に入れた一物を件の友人に郵送した。しかし友人からは何の反応もなかった。 奥さんに見つかって逆に絞られたのだろうか。感謝されなかったのは間違いないようだが、その真相を聞くこともなく月日は流れてしまった。 

41. 奨学金に再挑戦
1963年の冬学期は数学で「A」が二つ、フランス語も「A」だったが肝心の物理では「B」二つの成績で終わった。私は成績が下がらなかったので留学生向け奨学金に再度挑戦することにした。待つこと一週間今度は「I am glad to inform you・・・」で始まる嬉しい手紙が届いた。但し、最終決定には2人の担当教授からの推薦状が必要とあった。一つは良い成績を取っている数学の担任テーラー教授に書いてもらうことにした。教授を訪れると快諾してくれた。問題はもう一つの推薦状だ。フランス語は良い成績でも自分の専門ではないので使うわけには行かない。やはり物理科の教授に頼むしかなさそうだ。考えた挙句、「B」を取った熱力学のダッシュ教授を訪れた。「A」を取れなかったので遠慮がちに事情を話すと「私の難しい科目で留学生の君が“B”を取ったのは賞賛に値するよ」といって素晴らしい推薦状を書いてくれたのだ。これで二年間の学費が無料になる。
ハウスボーイになって衣食住の心配がなくなっていた上、奨学金により学費も要らなくなったので親の援助なしに留学生活を続けられるし少々ながら貯金も出来るようになった。

42. 1963年6月 砂漠へのドライブ
1963年6月同期の上村君が1年の留学を終えて帰国することになった。この上村君が私にお願いがあると言ってきた。帰国するにあったって持っていた車をアメリカ人の学友に買ってもらったのだという。ところが件の学友は夏休みに入ってアルバイトのためアラスカに行ってしまった。 上村君は後で友人宅まで届けるという約束でぎりぎり迄売った車を使わせてもらうことにしていたのだ。そこで私に車をその友人の実家まで届けてほしいと言うのだった。 上村君とは1年間仲良く付き合って来ていたしそんなことならと引き受けたのだがその友人の実家のある場所がシアトルの東のカスケードマウンテンを超えた先の砂漠地帯にある田舎町だった。私は一つ返事で引き受けたものの片道200マイル以上もある場所だ。丸一日掛かりの大仕事に成ることに気が付いた。一人で行くのはさみしいし、途中で事故にでも遭ったらどうしようもない。日曜日は仕事がないはずなのでリッコに付き合ってもらえないか聞いてみた。「そう、日曜日なら何も予定を入れていないから行ってあげるわよ」と言ってくれた。
日曜日の早朝頼まれた車でリッコを迎えに行った。上村君は資産家の息子だったのでアメリカに来る時も帰国するときも飛行機を使っていたし、滞在中も家賃の高い大学のドミトリーに入っていた。そんな彼が持っていた車なので私のぼろ車とは違って1961年製のシボレーだった。内装も赤と白のツートンカラーの革張りで豪華だったし馬力も強かった。リッコはサンドイッチの弁当を用意してくれていた。1時間も走るとカスケード山脈の樹林帯に入った。夏なのに窓を開けると涼しい風が入ってくる。カーブの多い道路だったが青々とした深い樹林帯のドライブは心を清めてくれる。リッコからいろいろな話を聞いた。兄弟の話や本当は医学ではなく法律を勉強したかったということなど。樹林帯のドライブは小一時間ほどで終わり今度は草木のほとんどない乾燥地帯に出た。急に視野が開け地平線まで砂漠のような大平原が続いていた。道は地平線まで一直線にのびていた。私はグッとアクセルを踏み込んだ。車は力強く加速し、速度計は時速100マイルを指していた。時速160kmの速度だ。私が生まれて初めて経験した速度だった。いくら一直線の道でもちょっとハンドル操作を間違えれば大事故につながる。リッコは助手席で黙って座っている。なかなか度胸がすわっているなと思った。私は事故を起こしてはいけないと思い速度を時速60マイル迄落とした。午前11時ごろ目的地に着いた。小さな集落だったので訪ねる家はすぐ分かった。出てきた母親に事情を告げると「遠いところをわざわざありがとう」と言ってケーキとコーヒーを出してくれた。私とリッコは食事をして行けと言われたが遠いのでと辞退してシアトル行きのグレイハウンドバスに乗り帰路に着いた。
長距離ドライブの疲れからか私はバスの座席でうたたねを始めた。暫くすると横に座っているリッコの小さなうめき声に気が付いた。どうしたのか聞くと激しい頭痛が始まったという。リッコが頭痛持ちだったのは聞いていたが今回のは可成りひどいらしかった。私は行きのドライブで時速100マイルもの高速運転をしてリッコの神経を高ぶらせてしまったのが原因かと思って責任を感じた。バスがシアトルに着いてもリッコの頭痛は一向に収まる様子がない。リッコはいつものことだから時間がたてば治ると言うが放っておけない。私は自分の車にリッコを乗せアンの家に運んだ。アンに事情を話してリッコをアンの家で休ませてもらうことにしたのだ。リッコの下宿では同居人に気兼ねしてゆっくり休めないと思ったからだ。アンは近所のホームドクターの許で手伝いをしていたので患者の扱いに慣れている。リッコには以前私が使わせてもらっていた部屋で休んでもらうことにした。アンが出してくれた頭痛薬を飲んで安静にしているとリッコの頭痛は夜には消えていった。

43. 1963年夏学期
アメリカの大学生は大部分が学費を自分で工面する。親の脛をかじる風潮はあまりないようだ。夏学期は大学に行かずに何らかのアルバイトをして一年分の学費を稼ごうとする学生がほとんどだった。私の在籍していた数学科や物理科の学生も多くは夏季学期のコースを取らずにアルバイトを求めて散っていった。日本人の学生にとっての最高のアルバイトはなんと言っても時間給の高かったアラスカでの鮭の「いくら」造りの仕事だった。日本人留学生なら誰でも参加できると言うわけではなく採用試験の面接があった。私も参加したくて面接に行ったのだが結果は不採用だった。私よりも屈強な友人が採用されたのだ。

仕方なく私は学業に励むことにし夏季学期の数学を欲張って5コース履修した。結果はオール「A」で2年間での学部卒業をほぼ確実なものにした。5コースのうちの一つは最初「B」が付いてきたのだが、どう考えても「A」のはずだったので返却された期末試験の答案(日本の大学とは違って試験の結果は採点後学生に返される)をクラスメートのアメリカ人学生に見せて判断を仰いだ。「間違いなくミスだよ」と言ってその学友が教員室まで同行してくれた。担当はスウェーデンから来ていた若い女性の助教授だった。私の差し出した答案を見て「Sorry, it's my fault.(すみません。私のミスです)」と言ってその場で大学に「A」への修正手続きを取ってくれたのだ。もし日本の大学(少なくとも早稲田)のように採点後の答案を返してくれないのであればこのようなミスは表面化しない。私はアメリカのやり方の方が公明正大で良いなと思った。

夏学期も終わりに近づいた頃アンから2・3日のピュージェットサウンド(シアトルの西側に位置する瀬戸内海のように静かで島の多い海域)クルーズに誘われた。アンの友人が所有しているクルーザーでの航海だ。とても楽しそうだったので何とかご招待を受けたかったのだが何しろハウスボーイの仕事がある。アンがリチャードソン夫人に掛け合ってくれたが答えはやはり「No」だった。ハウスボーイに3日も暇を取られては困ると言うのが理由だった。結局私も雇われの身、諦めざるをえなかった。その代わりアンは日曜日に彼女の友人に頼んで私とリッコをワシントン湖での水上スキーに誘ってくれた。リッコの看病をアンに頼んだ一件でリッコが私の彼女だと思っていたようだ。リッコに話すと是非水上スキーをやってみたいと言って一緒に行くことになった。最初はスキー板が水中にぐんぐん引っ張られていく感じで溺れそうになったが慣れてくると水の抵抗をうまくスキー板の裏側で捉えられるようになり湖上に体が浮上した。リッコも最初はだいぶ手こずっていたがその内に何とか水上に浮上できるようになって大興奮だった。モーターボートに引っ張られて湖上を駆け巡るのは実に爽快な気分だ。その後アンの家で庭の杏子の木によじ登り杏子を沢山もぎ取って食べたりして楽しい一日を過ごした。

44. ガーデニング
リチャードソン夫人は子供がいなかったせいか草花が好きだった。私がハウスボーイになった厳寒の2月に家の前庭の周りにパンジーやペチュニアの苗を植えるように言われた。霜の降りている土に小さなシャベルで穴を掘り、苗を植えてゆくのだが大邸宅だったのでその面積たるや大変なものだ。鼻水を流し流しの作業になり終わる頃には熱が出てきた。そんな時リチャードソン夫人は「Take this and you will be all right.(これでも飲んでいれば治るわ)」と言ってアスピリンを手渡すのが常だった。

裏庭の一部は薔薇園のようになっていてこの手入れが又大変だった。適当な時期に肥料を薔薇の木一本一本にかけるのだが、リチャードソン夫人が買ってくる肥料は魚の腐ったものから作られているらしく入れ物から出すと物凄い悪臭で卒倒しそうになるのだ。それをゴム手袋をして薔薇の枝の芽が出そうな部分にぬるよう言われる。いくらゴム手袋をしていても体の周りにしみついた匂いはなかなか取れず数日は食事も喉を通らない。

天気の良い日の芝刈りも大変な仕事だった。何しろゴルフ場の中にある家なので自分の家の庭とゴルフ場のコースとの区別がつかないのだ。どこまで芝生を刈ればよいのか実に悩んだものだ。又、垣根の潅木のトリミングは素人には難しいものだ。リチャードソン家の垣根の潅木は私健の背丈より少し高いぐらいだったのでトリミングなど難しくなかろうと始めた。半分ほど枝を切り落としたところで少しはなれたところから見てみると高さが揃っていない。いけないと思い一番低く刈り込んだところに合わせて出っ張っていると思われた部分を切り込みまた離れてみて見ると今度は切り込んだ部分が凹んでいて垣根の高さが一定していない。そこでまた今度は高い部分をトリミングする。また離れてみるとまだ高さが一定していない。こんなことを繰り返しているうちに気がつくとブッシュは丸裸になってしまっていた。さすがにリチャードソン夫人には切りすぎだとお小言をもらったが後の祭りだった。

45. 家庭教師と家庭料理
1963年(2年目)の秋学期も始まって間もない頃、先輩の日本人留学生Hさんから家庭教師のアルバイト口を紹介された。在シアトル日本国総領事館参与C氏のご子息の日本へ帰ってからの大学受験の準備のための家庭教師とのことだった。私は日本にいた時に大学受験生5人の家庭教師をしていた経験があったので喜んでお受けすることにした。

ハウスボーイの仕事がない日曜日になるとC氏が自ら車を運転してリチャードソン邸まで私を迎えに来てくださったのには恐縮した。ご子息に教えたのは数学と物理だった。謝礼を頂けたのは嬉しかったには違いないがそれより嬉しかったのは毎週暖かい日本の家庭的雰囲気を味わえたことだった。毎回、勉強が済んだ後に奥様が作られる手料理を御馳走になったのだ。当時既にシアトルには日本料理店が4・5軒あったがご家族の皆さんと和気合い合いの雰囲気の中いただく純日本的家庭料理の味は外食では味わえないもので本当に美味しく私にとっては至福の一時だった。

また、しばしば日本映画にも連れて行っていただいた。ダウンタウンにあったボザール(Beaux Arts)という日本映画専門の映画館だった。「青い山脈」、加山雄三の東宝「若大将シリーズ」、「勝新太郎の座頭市シリーズ」、長門勇の「三匹の侍」等々はハウスボーイで鬱積した疲労を癒すのに大いに役立った。

その後C氏から息子さんが東工大と早稲田の理工学部に受かりましたとの電話をいただいたのは私が帰国して間もない頃だった。

46. ブロードムアープライベートゴルフ場
リチャードソン邸はブロードムアーゴルフ場の中にあった。このプライベート・ゴルフ場は歌手のアンディー・ウイリアムズや名喜劇俳優のボッブ・ホープなどもプレーしに来ていた名門コースだ。リチャードソン邸の傍にあったスタートホールからはよくヒュルヒュルヒュルと唸りを立てて飛び出す打球音が聞こえた。今では私もゴルフをやるがプロのトーナメントを見に行って唸る打球を耳にすることはあっても仲間の打球が唸りをたてるのは聞いたことがない。ブロードムアーには結構上級ゴルファーが来ていたようだ。

このゴルフ場は木曜日が芝の休養日でクローズとなり従業員はプレーしてよいことになっていた。私も従業員だったのでプレーしてよかったのだが一年近くも勤めていてこの特権を一度も利用しなかった。「ゴルフなど覚えて日本に帰ったらお金が掛かって大変よ」と言う同期のM子の言葉を真に受けてゴルフをやらなかったのだ。今考えると大変もったいないことをしたと思う。リチャードソン夫人は良く友達を招いてブリッジをしたり、ゴルフをしていた。ゴルフをする時はいつもキャディー役を仰せつかった。キャディーと言っても芝の目が読めるわけも無いし、ゴルフのルールも知らなかったので単にリチャードソン夫人とゲストのゴルフバッグを担いでお供するだけだった。今思うとカートがなく二人分を担いで回ったのだから大変な仕事だったが、ワンラウンドお供すると貰える6ドルはうれしい臨時収入だった。

ある日の午後犬のトップスを散歩に連れ出した。フェアウエーを横断しようとすると真新しいゴルフボールが落ちていた。周りを見回しても誰も見えない。犬の散歩中にはよくロストボールを拾っていたのでこのボールも拾い上げてポケットに入れてしまった。いつもと違うのはコース脇のブッシュの中ではなくフェアウエーのど真ん中だったことだ。その時だった。遥か遠くにゴルファーの姿が現れたのは。これはプレー中のボールだったのだ。しかし完全に私の姿はゴルファーの視野に入っている。ボールを元の位置に戻しに戻ったら訴えられるかもしれない。ハウスボーイを解雇されるかもしれない。そう思うと怖くて戻れなかった。結局、ボールをポケットに入れたままコースを横断し林に身を隠したのだ。豪快なショットを放ったゴルファーはフェアウエーの真ん中にある筈のボールが見つからず首をかしげたに違いない。今でも思い出すたびに悪いことをしたなと思っている。

47. インターナショナルショー
年に一度インターナショナルショーなるものが大学の講堂で開かれる。これは留学生達が国別に趣向を凝らした芸を披露する一種のお祭りのようなショーだ。留学生はもとより、ホストファミリーそして地域住民たちが集まってくる。日本人グループは年によって多少の違いはあったが、日本舞踊、琴の演奏、柔道の乱取り、唱歌合唱、そして盆踊り等々から2・3選んで披露していた。前者三つは留学生の中から経験者が選ばれて担当したのだが合唱や盆踊りは日本人留学生ほぼ全員参加で行われた。ぶっつけ本番と言うわけには行かないのでインターナショナルショーの日が近づくと週に1・2度は集まって練習する。皆で唄った歌の中でも瀧廉太郎氏の名曲“花”「春のうららの すみだ川 上り下りの船人が・・」は思い出深いものだ。シアトルの日本人会から貸してもらったゆかたを着、菅笠を被る。皆で集まってわいわいするのは楽しいものだが、あまり時間を取られると学業に影響が出てくる。私はこれを逆手にとって良い成績が取れそうもない科目の中途棄権の口実にした。

欲張って科目数を多めに選択してしまった場合とか、背伸びして自分の実力以上の科目を選択してしまった場合など学期が始まって1・2週間もすればこのまま続けると「C」とか「D」になりそうだと解る。こんな時には最初の2週間以内に担当教授に申し出て正当な理由さえあれば無傷のままドロップアウトすることが可能だった。インターナショナルショーの準備で忙しく勉強する時間が取れないと言うとほとんどの教授は認めてくれたのだ。私は1・2度この手を使って悪い成績を取るのを防いでいた。

インターナショナルショー様々だが、私がワシントン大学にいた間に見たショーの中で一番鮮明に覚えているのはイスラエルから来ていた超美人留学生のベリーダンスだ。 3年後ヨーロッパから日本に帰る途中エジプトで見た本場のベリーダンスより遥かに魅惑的だった。

48. 1963年11月22日ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺
その日私は大学の図書館で物理レポートの作成に取り組んでいた。正午前だったと思う。突然、図書室中央の大きなドアが開いた。館長が姿を現し「今しがたケネディ大統領がダラスで銃弾に倒れ現在昏睡状態にあります」と告げたのだ。館長の目は真っ赤で涙が溢れていた。当時ラジオでは頻繁にケネディとジャックリーヌの物まねコミックが流されていてケネディ家族は皆に大変親しまれていた。キューバ危機を乗り越えた若き大統領に期待が集まっていた最中のこの事件がアメリカ国民だけでなく全世界に与えたショックは計り知れないものがある。
ワシントン大学の午後の授業はすべて中止となり建物には半旗が掲げられた。私も直ちにリチャードソン邸に戻りテレビにかじりついて事件の成り行きを追った。間もなくケネディ大統領の死亡が発表され、その夜遅くリー・ハーヴェイ・オズワルドがケネディ殺容疑で逮捕された。ところがこのオズワルドは、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、ダラス市警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いルビーに射殺されたのだ。この時の模様はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万人のアメリカ人が生中継でこの瞬間を見ることになったのだ。私もこの瞬間をテレビで見ていた一人だった。
ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーヌが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由だったが、ケネディ大統領暗殺事件を検証するためジョンソン第36代アメリカ合衆国大統領により設置された調査委員会であるウォーレン委員会はおろかマスコミでさえその不可解さを取り上げることはなかった。しかも、この事件とも何の関係もない、かつ警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入り込めたのかという理由について、ウォーレン委員会はダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判してはいるものの、その理由については最終的に満足な説明は何一つ為されなかったのだ。
また、事件後には、ルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を随時追いかけていたことが複数の人物から証言されたが、そのルビーはこの事件について多くを語らないまま4年後に癌により獄中で死亡した。日本であれば警察が移送中の重要容疑者が殺されたりすればマスコミが警察に対する非難を大々的に取り上げ大変な騒ぎとなったと思う。
副大統領であったジョンソンがケネディ大統領の後を継ぐ第36代アメリカ合衆国大統領に就任したがその就任式でジョンソンが「この難関を乗り越えるために私は国民皆さんの協力と神のご加護が必要である」と述べたのを記憶している。とにかくなぞの多い事件だった。

49. リチャードソン夫人
ある土曜日のこと、いつもの様に私は一階のロビーから絨毯の掃除機がけを始めた。そこへリチャードソン夫人が上の階から降りてきた。時々私の掃除ぶりをチェックするのだ。ところがこの時はチェックではなかった。夫人はロビーにあった数個のクラシックな椅子の一つを指差し「ちょっとこの椅子の足を見てごらんなさい。接いだ後があるでしょ。」指差された椅子の足を見ると確かに継いだ痕が見える。「私が思うにヤスが私の留守中にこの部屋で柔道の練習をして椅子の足が折ってしまい、慌てて強力接着剤でつなぎ合わせたのよ」と言って私に同意を求めたのだ。確かに私の前任者のヤスさんは柔道黒帯だったがそんなことするとは思えない。私が最後まで頷かなかったのでその時はそれで終わったが、下手すると私も何かあらぬことで疑われているかもしれないと思うと落ち着いていられない。
又、ある日のことスーパーマーケットで買い物をして帰って来たリチャードソン夫人があわてて私を呼んだ。何事かと思って飛んでゆくと「スパーマーケットで35セント余分に払ってきてしまったのに気がついた。私のキャデラックを使っていいから35セント取り返してきて」と言うのだった。キャデラックで行けばガソリン代だけでも35セント以上は掛かるはずだ。私が夫人の金銭感覚が良く理解できずに躊躇していると「ついでにrisqué(リスケイ)thing を買ってきて」と言ったのだ。私はrisquéという単語を知らなかったのでriskyと思ってどんな危険なものかと訝っていたが夫人の説明を聞いているうちにrisqué thingとは「大人のおもちゃ」のことであるとわかった。パーティで贈り物に使うのだそうだ。いずれにせよあまり引き受けたくない仕事だ。私が首をかしげていると夫人も私にそんなものを頼むのは良くないと思ったのかrisqué thingは自分で買うからいいと言いだした。ほっとしたが今思うとアメリカの大人のおもちゃを知るいい機会だったのかもしれない。

時には親切心から私を困らせることもあった。ある時夫人が大きな白身魚を買ってきて夕食時に私のために炒めて出してくれたのだ。日本人は肉より魚が好きであると思ってのことだろうが、私は魚が好きではなかった。しかも味が無い大柄の白身魚など食べられたものではない。しかし、親切心から夫人がわざわざ作ってくれた料理を食べないわけには行かない。私にとっては苦痛の魚料理だった。

50. 愛犬トップスとのお別れ
トップスは老齢のためか段々家の中で粗相をするようになってきた。ところ構わず大量の臭い大便を数か所に落とすのだ。そしてその処理はすべてハウスボーイの私がやることになる。まず盛り上がった糞の塊を取り払い、絨毯についた跡を洗剤で洗い落として臭い消しをかけるのだ。問題はそれが私の仕事の時間外に起こることが多いと言うことだ。試験前の夜にでも当たったら落ち着いて勉強も出来ない。

トップスは糞だけでなく良く臭い「おなら」もするようになっていた。ある日トップスがおならをした時、私はたまたま近くにいたリチャードソン夫人に「Tops farted!」と告げた。夫人は「今何と言った?」と言うので「Farted」と言うと「その言葉は何処で覚えたの?」と訊かれた。正直に日本にいたとき辞書で覚えたのだと言うと、それならしょうがないわねと言う顔をして夫人が説明してくれた。「fart」は卑しい言葉で人前で使ってはいけない。言うなら「break wind」と言いなさいと。「break wind」がおならをするという表現なら「fart」は屁をひると言う言い方で一種のfour-letter wordであることを知ったのはトップスのおかげと思っている。

それから間もないある日のこと大学から戻ってくるとトップスの姿が見当たらない。何処へ行ったのかと思ってリチャードソン夫人に尋ねると「トップスはもういません。今日獣医さんのところで安楽死させました」と教えてくれた。私が粗相の始末をいやな顔をしてやっていたのでこうなってしまったのかと思うとたまらない気持ちになった。

ところが翌日大学から戻ってくるとリチャードソン夫人の足元をグレーの小さなプードルが走り回っていた。この犬の名前は覚えていない。なぜなら名前を覚える間もなく私自身がリチャードソン家から去ることになったからだ。

51. リチャードソン邸を辞し再び下宿生活に戻る
1963年12月になってリチャードソン家を出る決心をした。奨学金を獲得し、家庭教師のアルバイトも出来るようになって少し生活に余裕が出てきたこともあるが、もっと自由な時間がほしくなったのだ。交友関係も広がりいろいろな付き合いに誘われることが多くなってきていたし、スキーシーズンに向かって思い切りスキーをしたいと言うのがあった。また、ニューイヤーの休みにはワシントン大のアメフトの応援にロスまで行く予定もあったのだ。リチャードソン夫人に話すと「後釜が見つかるまで居てくれるならいいわ」と言ってくれた。運良く留学生支援事務所の世話でハウスボーイを希望していると言うタイの留学生が見つかった。話はとんとん拍子に進み間もなくして私は思い出深いリチャードソン家から新しい下宿へと居を移した。移った下宿先は以前住んでいたジェイコブスン宅と同じ道路に面していて近くにはリッコやその他仲良しの日本人留学生の何人かが住んでいた。 近くなったことでリッコと出会うことが多くなった。また、近くに住んでいた先輩姉御Yさんの所は日本人留学生の溜まり場となっていて皆で頻繁に集まりお喋りしたりカード遊びをしたりした。そんな時はいつもリッコを誘って出かけた。ハウスボーイを辞めたおかげで楽しい留学生活を味わえるようになったのだ。

52. ローズ・ボウル(Rose Bowl)
アメリカに行けば当然のようにいつでも野球が見られると思っていたのだが、シアトルには プロ球団もなければプロ野球用の野球場もなかった。スポーツの一番人気はやはりアメフトだった。ワシントン大学にはアメフト用の立派なスタジアムがありハスキー(エスキモー犬)をマスコットとするワシントン大のアメフトチームが出る試合には何時も沢山の観客が集まっていた。 というのもジム・オーエンスというコーチが就任してからハスキー(ワシントン大のチームはこう呼ばれている)はぐんぐん力をつけ常に優勝戦線に顔を出すチームとなっていた。何でもこのコーチは大学の総長より高い給料を貰っていたということだった。ハスキーは1960年と1961年、二年連続して全米一に輝いた名門チームだったのだ。

私が所属していた物理科にもブリッグスというハスキーのアメフトの選手がいた。彼は1963年の全米のアメフト大学選手ベストイレブンに選ばれた超有名選手だった。彼の活躍もあって、この年ハスキーはまたしても西部地区の覇者となりローズ・ボウルに出場することになった。 ローズ・ボウルというのは毎年1月1日にロスアンジェルス郊外のパサディナという街で1947年以降、ビッグ・テン・カンファレンス(東部地区)の大学優勝チームとパシフィック・テン・カンファレンス(西部地区)の大学優勝チームとの間で全米一を争う試合のことだ。 クラスメートが出場するので応援に出かけたいと思っていたところ幸いにも在学生に割り当てられる入場券の抽選に当たった。 シアトルからロスまでは結構な距離があるが大勢の学生達が車に相乗りしてロスに向かう。まさに民族の大移動といった様だ。私は留学生支援オフィスが手配してくれたサンフランシスコのホストファミリーに一泊し汽車で12月31日ロス入りを果たした。サンフランシスコでお世話になったのは前年のクリスマススキー合宿で知り合いになった牧師さんの家だったので旧交を温めることにもなった。

53. 大晦日に本場キッスの洗礼
ロス郊外パサディナでの元日のローズボウルを翌日にひかえた大晦日、世話になっていたホストファミリーの家でニューイヤーズ・イブ(大晦日)のパーティーが催された。ホストファイリーが病院の偉い人であった為だろうか30代、40代と思われる看護婦達が20人ほど招かれていた。夜半から始まったパーティーはいつもながらの立食パーティーで参加者は皆自由に動き回って歓談している。ホストのハンフリーさんは私を日本から来ているワシントン大学の留学生だと言って参加者一人一人に紹介して回ってくれた。アメリカに来てから覚えたジントニックを何杯か飲んで一人一人の他愛も無い質問に答えているうちに段々と酔いがまわってきた。

新年を迎える零時が近づいていた。その時朦朧としている耳の近くで看護婦達がひそひそ何やら話し合っているのが聞こえてきたのだ。「いいのかしらやっちゃって」「日本から来た留学生だって郷に入ったら郷に従えだわ」どうやら意見がまとまったみたいだ。まもなく零時、New Yearだ。灯りが消されると同時に件の看護婦達が順番に私に近づいてきたかと思うと一人一人私にキッスをし始めたのだ。そんなにディープキッスではなかったが本場のキッスを受けるのは初めてで数人にやられた頃には頭がボヤーットして来た。酔いのせいかキッスのせいか判らないがふらふらになり皆さんに失礼して早めに床に着かせてもらうことにした。何時間寝ただろうか朝眼が覚めると喉は痛いし、頭も痛む、それに気がつくと物凄い熱だった。そういえば昨夜のキッスの中に風邪の匂いのするのがあった。風邪を引いていた看護婦から移されたのに違いなかった。ちょっといい思いをしたが代償は大きかった。

54. 記念すべきローズ・ボウル観戦
ローズ・ボウル・ゲームの当日、1964年の一月一日は快晴だった。スタジアムに到着するとグランドではカラフルな服装を着たワシントン大、イリノイ大両校のチアー・ガール達が応援の練習に余念がない。躍動感に溢れたチアー・ガール達の眩い動きが目を刺激し、試合開始に向かって知らず知らずのうちに気持ちを高ぶらせてゆく。

毎年ローズ・ボウルのキック・オフには著名人が招かれるしきたりだ。日本の野球で言えば始球式のようなものだ。このオープニングに迎えられるゲストはGrand Marshalと呼ばれる。1964年のGrand Marshalは第34代米国大統領アイゼンハワー氏だった。アイゼンハワー大統領がグランドに現れると観客が総立ちとなり大歓迎、そして大統領の挨拶が終わるといよいよキック・オフだ。

スタンドの片側に陣取ったワシントン大の応援団は応援のフラッグを振り、「Bow down to Washinton、・・」で始まるハスキーの応援歌を歌いだす。応援フラッグの色は早稲田と同じ紫色でイニシアルもWで一緒なので早慶戦を応援に行った時を思い出す。試合は暫く一進一退だったがその内イリノイ大チーム優勢のまま前半のハーフが終了した。

後半が始まってもイリノイ大は攻撃の手を緩めず、ワシントン大はますます窮地に追い込まれる。私もその頃にはひどかった頭痛や高熱を忘れて一生懸命に応援したが残念ながらハスキーはイリノイ大に17対7の大差で敗れてしまった。それでも伝統あるローズ・ボウルの試合を観戦できたことは大変貴重な体験だったと思っている。

55. 夜汽車の美少女
それはパサディナのローズボール観戦を終えロスからシアトルへ戻る車中でのことだった。列車に乗り込み周りを見ると窓際に可愛い少女が一人座っているのが目に入った。横の席に座っていいか尋ねるとその少女は愛くるしい笑顔で頷いた。年の頃十二・三歳だ。薄いピンクのカーディガンにグレーのスカートをはいている。アグネスチャンに似ていた。頬はほんのりとピンクかかっているがお化粧はしていない。夜汽車だったので少女の顔が窓に映って輝いて見えた。

列車がロスを発って暫くすると少女は雑誌のようなものを取り出して盛んに鉛筆を走らせ始めた。そっと覗き込むと四角い升目にいろいろな英単語を埋めている。ボナンザグラムだった。暫く見ていると気が付いたらしく「やってみる?」と話しかけてきた。どうせ少女がやっているのだから大して難しくあるまいと思って見せてもらうと驚くことに20単語ぐらい書かれているうち知っている単語は僅か2・3個しかない。一瞬、英語ではないのではと疑った。私は英語のボキャブラリーが留学前に数千語にはなっていた筈だ。私はそれまで一頁にこれほど多くの判らない英単語を目にした事はなかった。彼女に「これみんな判るの?」と尋ねると当然と言わんばかりに頷いた。少女の年ぐらいで何万語ぐらい知っているのだろうと思うと急に惨めな気持ちになってきた。私の英語に対する自信は粉々に崩れた。「全然歯が立たない」と言うと彼女は本をしまって話し始めた。

ロスで結婚した姉の家に遊びに行った帰りだということ、そして正月にロスで姉にとても素晴らしくスリリングな映画を見せてもらったと言うこと。映画のすごかったシーンをいろいろと説明してくれる。どうやらケーリー・グラントとオードリー・ヘップバーン主演の「シャレード」のようだ。しばらく喋り続けると疲れたのか少女は頭を窓ガラスにもたれかけたまま居眠りを始めた。とても可愛い寝顔だった。

ロスからシアトルまでは直行の列車が無く一旦シスコでシアトルまで行く列車に乗り変えなければならない。汽車がサンフランシスコに着くと少女は無言でさっさと降りて行ってしまった。さっきまで仲良く話をしていたのに挨拶もしないで行ってしまうなんて寂しいなと思いながら私はシアトル行きの列車に乗り換えた。するとどうだろうあの少女が窓際の席に座っていて隣の席を私のために取っておいてくれていたのだ。

サンフランシスコからシアトルまでの汽車旅は少女と話が出来たおかげで退屈しないですんだが汽車がシアトルに近づくにつれ少女の口数が少なくなっていった。最初は眠くなったのかなと思っていたのだがどうも様子が変だ。顔から笑みが消え緊張した面持ちに変わってきたのだ。汽車がシアトル駅に到着すると今度こそ本当に人を無視するように挨拶も無く列車から飛び出して行った。私がホームに降り立つと少女は迎えに来ていた父親の胸に抱きつきハグをしているところだったが傍らを通り過ぎた私を見ても「こんな東洋人となどお話などしていなかったわ」と言った態度で無視したのだ。家庭で外では見知らぬ人とはお口を聞いてはいけませんとでも教育されていたのだろうか。私はシアトルに着いてからあまり東洋人としての差別を感じたことはなかったがこの少女の変貌振りにはショックを受けた。でも到着が迫るなか、少女も心の中で葛藤していたのではないかと思うと憎むことは到底できなかった。愛くるしい笑顔の美少女との楽しい思い出だけを大切に心にしまっておこうと思った。

56. スキー三昧
シアトルで二回目の冬を迎えていた。シアトルでは夏はセイリング、水上スキー等の水遊びが出来、冬にはスキーが楽しめるスポーツ好きにはたまらない所だ。シアトルの近くにはスノーコロミー、ハイヤック、スティーブンスパス、クリスタルマウンテンといったスキー場が点在していた。ホストファミリーのアンはスキーが大好きで休みにはよく私をクリスタルマウンテンに連れて行ってくれた。長身のアンはスタイルもよくゲレンデではちょっと目立つ存在だった。アンは私のためにクリスタルマウンテンのシーズンパスまで用意してくれた。ただ、残念なことにクリスタルマウンテンは他のスキー場に比べて遠過ぎて私一人で行く機会が作れないままシーズンが終わってしまった。

リチャードソン邸でのハウスボーイを辞して自由になった私は週末になると日本人留学生のスキー仲間とよくスキーに出かけるようになった。よく一緒に行ったのがジミーとエミのカップルにリッコだった。時には前年マウント・ベーカーのクリスマスキャンプで仲良くなったミッシェルやハルーク等外人の友人も誘った。また、平日には一人でも夕食後一時間弱で行けるスノーコロミー・スキー場に通った。夜7時頃にスキー場に到着するので10時まで3時間夢中で滑るのだ。スノーコロミースキー場の中では一番短いゲレンデでのことだがロープトウを使って3時間で100回も滑り降りたこともあった。スノーコロミースキー場ではスキー教室を開いており常に数名のスキー・インストラクターが常駐していた。ある時その内の一人が私に話しかけてきた。「私の名はジョージです。日本が大好きです」と片言の日本語だ。友達になって日本語を教えてほしいと言うのだ。ジョージもワシントン大学の学生で夜間だけスノーコロミーでスキー・インストラクターのアルバイトをしていたのだ。それからというもの週に二度ほど大学キャンパス内で落合い彼に日本語会話の手ほどきをすることになった。そのお礼としてジョージはスノーコロミーでスキー教室のない時間帯に私にスキーの個人指導をしてくれるようになった。ジョージのおかげで、私のスキー技術も上達し、スキーではあまり怖い思いをしないですむようになった。しかしジョージの車では怖い思いをしたことがあった。その日はジョージの車(やはりぼろ車だった)でスノーコロミーに出かけていた。スキーを終えて車に乗り込みスノーコロミーを後にした。雪道なので当然ながらタイヤにはチェインを装着していた。30分も走ると雪道が終わり路面がはっきり見えるようになって来た。そろそろチェインをはずそうかと言うことになり路肩の広いところでチェインをはずしたのだ。その場所から走り出してほんの数分後のことだ。目の前の景色が急に大きく回り始めたかと思うと車が180度回転し後ろから走ってきていた車に正面衝突した。後続車があまりスピードを出していなかったので大事には至らなかったが冷や汗ものだった。路面が凍っていた上にジョージの車のタイヤは溝が無くなりつるつるだった。

57. T氏の外国人女性くどき術
アメリカに留学すれば可愛い金髪女性とすぐにでも仲良くなれるのではという私のはかない夢は留学後まもなく粉砕してしまった。内気な私にはとても女性に声などかけられない。ところが日本人留学生の中にも次から次へと可愛い子をナンパしている人物がいた。私と同年輩のT氏はいとも簡単にアメリカ女性と懇ろになっていたのだ。ある日Tさんが「女性くどき術」を伝授するからと言って彼の下宿に連れていってくれた。部屋に入るとソファーが置いてあり、その向こうにオーディオセットがある。まず女性をソファーに座らせ、部屋を薄暗くしてムードある赤い電球を灯し、ムードミュージックを流す。次に何気なく女性の傍らに座りしばらく雑談をし、ムードが盛り上がったところでまず彼女の髪を褒めるのだそうだ。そして時を見計らって彼女の髪を撫で、髪にそっとキスをするのだという。そこで彼女が嫌がらなければもうこっちのものだとT氏の説明だ。
ウディーはアルコールを利用して判断を狂わす、T氏はトークとムードを重視するという点で大きく違うが、どちらも最初に女性に声を掛けるところから始まるのだから女性に声も掛けられない私にはどちらも何の役立にも立たなかった。
後日談だが数十年後、アメリカで大学の教授になっていたこのT氏が客員教授として東京大学に赴任したことがあった。たまたま仕事の関係で知っていた同じ学部のY教授にT氏の昔話をしたところ「そんなことは信じられませんT教授はとても真面目な方です」と一蹴されてしまった。人間とはずいぶん変われるものだなあと思った。

58. デートあれこれ
シアトル時代に私が外国人女性と一対一のデートをしたのは後にも先にも前にお話ししたドイツからの留学生ギゼラとの一日デートとフランス語クラスのアメリカ人学友スーザンとの昼食のデートの二回しかない。 私が取った中級フランス語は2学期にまたがっていた。最初の学期で「A」を貰ったのが3人いて私とスーザンがその中に入っていた。スーザンは金髪のロングヘアーで可愛い顔をしていたがちょっと気位が高く出来の悪いクラスメートを見下しているところがあった。あまり好きなタイプではなかったのだが私が「A」を取ったことを知ると彼女から話しかけてきたのだ。「来学期も頑張って一緒にAをとろうね」と。そして「A」を取ったお祝いに一緒に食事に行こうと彼女から誘ってきたのだ。断る理由はない。彼女の行きつけのレストランに行った。ところがとんでもない結末が待っていた。レストランに入って間もなくすると私は急激な腹痛に襲われ始めた。スーザンとろくに会話も出来ずにトイレに通い詰めとなり、しかも支払いの時になって財布を忘れて来たことに気がついたのだ。結局スーザンに支払ってもらい彼女を家まで送り届け早々に引き上げる羽目となった。それ以来彼女から話しかけてくることはなかった。全く惨めなデートの思い出だ。

車を持っていた日本人女子留学生は少なかったこともあり車を持っていた私はよく運転手の役を仰せつかった。今で言う無害で便利な「アッシー君」というところだろうか。そんなわけで幾人かの日本人女子留学生とは一対一でドライブすることは往々にしてあった。それがデートと呼べるならそのようなデートは何度もしたことになる。

ある時リッコと湖半に車を止めて美しい天空の星を眺めながら四方山話しをしていた。夜風が涼しいので窓は閉めていた。ふと気がつくと周りの木々がサーチライトに照らされて明るくなってきた。その明かりがだんだん近づいてきたのだ。何事が起こっているのだろうと息を凝らしていると車のドアを叩く音がする。はっと顔を上げるとお巡りさんが覗き込んでいるではないか。「何ですか?」と聞くと、にこっと笑って「Vertical position please!」と言ったのだ。初めは言っている意味がよく解らなかったのだが、どうも車の中では椅子にちゃんと座っていなければいけないということだったようだ。私たちは空がよく見えるように前の座席を倒して寝転がるようにしていたのだが、お巡りさんにはそうは思われなかったようだ。私は気まずいやら、おかしいやら、まさか自由でオープンなアメリカでこんなことで注意を受けるとは想像もしていなかった。

59. リッコのお見合い
家庭教師をしていたC家の家族とダウンタウンの日本映画館へ映画を見に行った時、映画館でばったりリッコと出くわした。リッコは下宿のオーナーの家族と一緒だった。後で聞くとお見合いをさせられていたのだと言う。下宿のオーナーは香港出身のご夫婦だったが、独身の歯科医をしている甥っ子がいた。ご夫婦は医学部の研究員だった真面目そうなリッコを嫁にできないかと密かに二人のお見合いを画策していたのだ。リッコはそんなこととは知らず、親切だった下宿のオーナーの誘いに乗って映画鑑賞に付き合ったのだと言う。暫くしてこの話をリッコと親しかった日本人留学生仲間のM子さんにすると「リッコには日本に婚約者がいるのにね。」と言った。私は「えっ」と思った。私はリッコが婚約していたことを聞いていなかった。M子は私がリッコと親しくしていたのを知っていたのでそれと無く私に注意を促したようだ。よく考えてみれば私だって日本で付き合っていたガールフレンドの話はリッコにしたことがなかったのだからリッコがそのことを私にわざわざ話さなければならない理由は何もなかった。只、私が知らないのに他の人が知っていたということが何となく面白くなかった。リッコとは手を握ったことも腕を組んだことも一度もなかったのだが何かリッコとの付き合いに水を差されたようで何となく釈然としない感じだった。私は暫くリッコと二人だけで会うのを出来るだけ控えるようにしようと思った。

60. 1964年6月 三年目の大きな出来事
私は2年で数学科と物理科の両方の学部を卒業して大学院で理論物理を専攻するつもりだった。ところが数学科は卒業出来たのだが物理科の方は詰まらぬ手違いから学部卒業に必要な単位を一つだけ取り損なってしまった。丁度リッコのことで頭がぼやっとしていた時期でそれが手違いの遠因だったかもしれない。アメリカの友人達はたった一つの学科のために留学を一年延ばさなければならないことを知り「学費が大変だろう」と言って大いに同情してくれた。確かにもったいないとは思ったが実際は奨学金をもらっていた上、家庭教師や他のアルバイトもあって滞在が長引けば長引くほど貯金は増えてゆく状態だった。

私はいつも思わぬことに出くわすと「人間万事塞翁が馬」と考えることにしている。私はとりあえず大学院の数学科に席を置くことにした。

大学院に通いだして間もない頃のことだ。半年近く文通の途絶えていた日本のガールフレンドから一通の手紙が届いた。「今まで長いことお世話になり有難うございました。今日庭で今迄にいただいた手紙を全部燃やしました。」と言う短い文章が入っていた。読んだときは一抹の寂しさを感じたが彼女が自分で判断したことなので素直に受け止めることにした。私も裏庭で彼女から貰った手紙をすべて燃やした。

61. 留学生の移り変わり
多くの留学生は1年から長くても3年もすると学業を終えて帰国する。親しくお付き合いをしていた先輩や同期の友人が一人二人と去ってゆくのは寂しいものだが同時に新しい後輩達が入って来るので又新しい出会いが始まる。留学生以外でも変化があった。エミが家庭の事情で急に日本に戻ってしまった。ジミーは飛行場まで彼女を送ったそうだが私は突然のことだったので別れの挨拶も出来ずじまいだった。

日令丸で一緒にアメリカに渡った玲子さんがジョンホプキンズ病院での研修を終えて帰国することになったとの連絡を受けたのはこの頃だった。シアトル経由で帰国するので会おうということになった。飛行場に迎えに行くとぐっとあか抜けた彼女は明るい笑顔で現れた。

その夜、1晩泊めてもらえることになったアンの家で玲子さんが留学中あちこちで撮ったスライド写真を流暢な英語で解説をして見せてくれた。船でご一緒したときにはおとなしそうに見えた彼女もアメリカでいろいろな経験をし、精神的に逞しくなったみたいで私も嬉しくなった。アンも彼女を素晴らしい女性だと気に入ったようだった。翌日アンと二人で彼女を飛行場に送ったのを昨日のように覚えている。彼女との賀状交換は50年たった今も続いている。

62. 1964年7月プライス家のハウスボーイとなる
夏学期が始まって間もない頃、大先輩のMさんから「僕のやっているハウスボーイを引き継いでくれないか」と打診された。M先輩は結婚することになったのでハウスボーイを続けるわけには行かなくなり誰か後釜を探していると言うのだった。内容を聞くと悪い話ではない。給金は月30ドルでリチャードソン邸の50ドルより少ないが仕事の量が俄然少ないのだ。一週間に一度一台の乗用車を洗うのと土曜日に玄関前の前庭の落ち葉掃除、そして夕食時の食卓のセティング(ドイリーを敷き、ナイフ、フォーク、スプーンを並べるだけ)そして来客がある時だけ白い給仕服を着て蝶ネクタイをつけ給仕をするというものだった。

「Roll over!」と言うとくるっと短足胴長の体を横に一回転させる可愛いダックスフントが飼われていたが、犬の世話はしなくて良いことになっていた。どう計算しても一週間に仕事に取られる時間は3時間ほどしかない。奨学金のおかげで学費は掛からないし、バイトのおかげでお金も少々貯められる状態になっていたので私がほしかったのは自分の自由になる時間だった。今度のハウスボーイの仕事なら十分に自由時間をキープできる。早速下宿を引き上げて二度目のハウスボーイの職場プライス家へと居を移した。

商業銀行の創始者だったご主人を無くなした未亡人のミセス・プライスが新しい家の主人だった。プライス夫人は背筋のぴんとした英国の貴族を思わせるような気品のある女性だった。家は二階建てで横長であり中央の玄関は前庭を隔てて「Broadway」という名の公道に面していた。裏に回ると斜面で土地が低くなっており地下室が一階の様になっていた。私が与えられたのはこの地下室(裏に回れば一階)だったが表の正規の玄関を使わずに済んだので自由に出入り出来、ハウスボーイをしているような感じはしなかった。門限も無かったので友達と夜遅くまで飲みに出ることも自由に出来た。

63. プライス家とカルチャーショック
プライス家には夫人の90過ぎの母君が同居していた。又、この母君の世話をする可なり歳のいった介護師の女性とノルウェイから来ていた賄い担当のクリスティーおばさんが一緒に住んでいた。クリスティーは太っていて動作が鈍く話し方も小声でもぞもぞ話すので言っていることが良く理解できなかったが人柄は良く、時々私にカレーを作ってくれた。一階の正面玄関を入るとアメリカ映画でよく見るような立派な階段が二階へと続いていた。その手すりにはレールがついていてレールのうえの椅子にプライス夫人の母君が座るとスルスルスルと電気仕掛けで二階まで登って行くのには驚いた。自動車のガレージもプライス夫人の帰ってくる自動車が見えないうちからシャッターがひとりでに開いていくのに驚いたものだ。でもプライス家で受けた本当のショックはこんなものではなかった。

プライス家に入った日、私は食堂でミセス・プライスによって他の従業員達に紹介された。その席上でのことだった。私の面前で夫人は食堂の数ある食器棚の一つ一つに鍵をかけていったのだ。それぞれの棚には高価な食器類がおさめられていたのだ。私の受けたショックは大変なものだった。その行為が私に対する親切心からであると言うことが解るには可なりの時間が必要だった。しばらくして、知り合いの老婦人に教会に連れていかれたときだった。教会近くに車を止め車のドアを閉めた時、同伴していたその老婦人が私に向かって「外から見えるところに手荷物を置いてはいけません。それはsinです。(crimeではありません)」と言って私を咎めたのだ。要するに他人に盗みを唆すような環境を作ることは罪であると言うことなのだ。完全に性悪説に基づく理論だ。盗みを思い起こさせないようにするのが親切心なのだ。プライス夫人のとった行為もやっと納得できた。後にフランスで止めておいた車から大事な荷物を盗まれた時、警察で見えるところに置いとけば盗まれるのがあたりまえだと言われ、どちらかと言えば性善説にたつ日本との違いを改めて思い知らされたことになった。

もうひとつ私がアメリカで感じたカルチャーショック、それは人の厚意に直ぐ金を払おうとすることだった。最初の下宿に居た時、宿のオーナーのジェイコブスンおばあさんに壁の額縁を留めていた釘が取れたので新しい釘を打ってくれと頼まれまた。釘と金槌を手渡されたので直ぐ新しい釘を壁に打ち付けた。1分も掛かっていなかった。するとジェイコブスンさんは私にさっと二ドルを手渡したのだ。親切心でやった行為にお金を渡されたので侮辱された気持ちになった。勤労奉仕は美徳であると教わって育った私は特にそう感じたのかもしれないが、私は非常に情けない気分になったのだ。只、半年ぐらいたった冬のある日、水道管が破裂して困っている家の前を通りかかり、車を止めて手持ちの材料で緊急処置をしてあげたとき差し出された5ドルは素直に受け取れる自分になっていた。慣れというのは恐ろしいものだ。

64. スタッグ・パーティーとブルーフィルム
スタッグ・パーティー(バッチェラー パーティーとも言う)とはもうすぐ花婿になる人とその男友達だけが集まり独身生活を惜しんで羽目をはずすパーティーだ。私にプライス家のハウスボーイを譲ってくれたM先輩も結婚を控えてスタッグ・パーティーを開いた。勿論、最初は飲み会から始まるのだが宴もたけなわとなるとブルーフィルムの上映が始まる。
スタッグ・パーティーは結婚式でベストマン(新郎の世話人代表)をする人が手配することになっているそうだが、もし私がベストマンをやることになってもそんなブルーフィルムを手配することは出来ないなと思った。

ブルーフィルムとはポルノ映画であり今で言えばAVビデオにあたる。当時はビデオなど無く映写機で写す8ミリ映画をブルーフィルムと呼んでいた。私はブルーフィルムなる言葉は知っていたが一度も見たことはなかった。部屋の壁に写された映像は白黒で決して鮮明なものではなかったが生まれて初めて見るブルーフィルムの画像は今でもよく覚えてる。何でも警察から回ってきたものだと言うことだった。警察が押収したポルノは凄いのが多いよとは弁護士をやっていた友人がよく言っていたがなるほどその通りだった。

スタッグ・パーティーがあって暫くするとM先輩の結婚式に招かれた。教会での厳かな式が終わると新郎新婦は車に乗って会場を後にする。その車にはアメリカ映画でよく見るように幾つもの空き缶が紐で繋がれ車が動き出すと引っ張られてガラガラと音を立てる。これを見た時、ああ、アメリカだなとしみじみ思ったものだ。

65. ピナクルピーク登山
リッコは医学関係の学会で時々シアトルを留守にすることがあったりして私がプライス家へハウスボーイに入ってから暫く会うこともなく時が過ぎていた。1964年秋が始まろうとしていた頃だった。M先輩にピナクルピークと言うシアトル近郊の山へハイキングに誘われた。Mご夫妻は山歩きが好きで時々日帰りの山登りハイキングを企画されていたのは知っていたが参加するのは初めてだった。十数人が数台の車に分乗して1時間程のドライブでピナクルピークの麓に着いた。参加者のほとんどはM先輩の奥さんが通っていたシアトルの英会話学校の友人達だったが驚いたことに参加者の中にリッコを見つけた。リッコは英会話学校には関係なかったが知人を通じてこのハイキングのことを知り参加したのだった。リッコには私以外にも車に乗せてくれる友人が何人かいたようだ。ピナクルピークは高度1,500m程の岩山だったが車でかなり高いところまで行っていたので皆でわきあいあいとお喋りしながら登ると昼前には頂上に到着した。皆が持ち寄った握り飯を分け合って食べた。近くにはタコマ富士と呼ばれる雪をかぶったレニヤー山が聳えていた。天気に恵まれ気持ちのいいハイキングだった。長時間ではなかったがリッコとも以前のように言葉を交わすことが出来何となくすがすがしい気持ちだった。こんなことがあってから又以前のように日本人留学生の集まりにリッコを誘うようになった。

66. リッコの自動車
リッコは時々思いもよらないことをやる。私に度々車での送り迎えを頼むのを申し訳ないと思ったのかそれとも、煩わしいと思ったのか分からないがあるとき運転免許証も持っていないのに帰国することになった留学生からフランス車、ルノーのドルフィンを買い取った。スキーに行くのに自分の車がほしかったのだと言う。そこで仲の良かった日本人留学生数人が交代で運転を教えることになった。私も何度か練習のお手伝いをさせられた。実は私もシアトルに着いてすぐに米国の運転免許証を取っていた。日本で既に運転免許証を取っていたのだが当時、日本は未だ自動車の国際連盟のような組織に加盟しておらず日本では国際免許証を発行できなかったのだ。そこでアメリカで新たに自動車運転免許証を取る必要があったのである。日本と同じように学科試験と実地試験があって両方パスしなければ免許証はもらえない。学科試験は練習問題を勉強しておけば大体合格点が取れる。実地試験だって受験者は無免許で車を運転して試験場に乗りつけるのだから甘いと思う。1ヶ月程たったある日プライス家でハウスボーイの仕事をしているところへ突然リッコが愛車ドルフィンに乗ってやってきた。運転免許証を取ってきたのだという。学科試験は即合格したが実地は失敗したのだそうだ。免許証をもらえなければ又、無免許運転をして帰らなければならないがそれでもいいのかと変な屁理屈で粘って渋々合格扱いにさせて正規免許証を手に入れてきたのである。リッコが若い頃の希望通り法律を勉強して弁護士にでもなっていたらどんな弁護士になっていただろうと思うと恐ろしくなってくる。
翌日が土曜日だったのでリッコの車でドライブしようと誘うと賛成してくれた。 遠乗りしようということになりオリンピック半島にある有名な国立公園レインフォーレストに行くことにした。オリンピック半島で快適なドライブを満喫して夕方帰路に着いた時だった。
突然リッコの愛車ルノー・ドルフィンのギアー・チェンジが出来なくなった。一旦停止するとギアー・ハンドルが動かない(後になって分かったのだがディファレンシャルギアの破損が原因だった)。その場で通りかかった車に助けを求めようとしたのだが全く車が通らない。そうこうする内に夜の帳がすっかり落ちて辺りは真っ暗となった。月が出ておらず鼻をつままれても分からないほどの暗さになってしまった。今までこんな暗闇を経験したことはなかった。いくらか目が暗闇に慣れてきた時はるか遠くに米粒ほどの明かりが見えた。
人家に違いない。そこまで歩いて行き助けを求めようということになった。暗闇の中明かりを目指してそろりそろりと十数分歩いてやっと道路脇の一軒家にたどり着いた。ドアをたたくが警戒してか中々開けてくれない。ドア越しに大きな声で事情を説明するとドアが開いて白髪の老女が顔を出した。困り果てている我々の姿を見て老女はすぐカウンティー(州の下の単位で日本の郡のようなもの)のパトロール隊に電話をしてくれた。暫くすると道路パトロールの車がきた。我々二人を親切にもパトロール車に乗せて送ってくれることになった。しかしカウンティーの境目まで来ると我々の守備範囲はここまでなのでここから先は次のカウンティーのパトロールに送ってもらってくれと言ってそこから先の管轄のパトロールを呼んでくれたのである。二つのカウンティーの連係プレーで無事シアトルまで戻れたが大変な一日だった。翌日ジミーに頼んで置き去りにしてきたリッコの車を回収に行った。

67. 黒人街のダンスホールに潜入
留学前に映画ウエストサイド・ストーリーを見てアメリカに渡ったら是が非でも黒人街で本場のダンスを見てみたいと思っていた。しかし、シアトルの黒人街にはほとんど白人の姿は見当たらない。そんなところへは恐ろしくて一人でなど行ける筈もない。又、ダンスホールへ行くには一緒に行ってくれる女性の協力も必要だ。そんな思いを抱いたまま2年が過ぎようとしていたある日のこと日本人留学生の集まりでのことだった。 先輩で姉御肌のYさんが「私も行ってみたいと思ってたのよ。一緒に行ってみようか?」と言ったのだ。この機を逸したら黒人街のダンスホールへの潜入は出来そうにない。早速Yさんに同行してもらうことにした。黒人街に行くにはもってこいの私のぼろ車で出かける事になった。

薄汚い赤茶色の家々が立ち並ぶ黒人街にさしかかると無事に戻って来れるのかと言う不安に襲われる。ダンスホールの傍に車を停めた時にはやはり此処で引き返そうかとしばし車中から周りの様子を覗っていた。数分たってやっとのこと意を決して薄汚い入り口のドアを開けて中に入った。中は薄明かりで目が慣れるまであまりはっきり見えない。しかしそこで見た光景は私の想像していたものとはまったく違うものだった。

がんがんと鳴り響く音楽の中で黒人達がダイナミックな踊りを披露しているのを想像していた。ところがダンスホールの中に入ってみると静かなスローテンポの音楽に合わせて全員が夕闇のなか風になびく稲穂のように揺れ動いていたのだ。それがダンサー個々の動きではなく全体が一つの生き物のようにスローテンポの音楽に実に良くハーモナイズされて動いていたので思わず息を飲んだ。

いつでも逃げ出せるようにと入り口近くの椅子に座ったYさんと私は暫く素晴らしい黒人ダンスに見とれていた。何曲かが終わった時だった。ダンスをしない我々に気づいた一人の黒人男性が近づいてきたのだ。間違いなくYさんにダンス相手の申し込みだ。私のほうがどきどきしてしまった。もしYさんが断ったらどうなるだろうかと心配していたのだ。ところが流石にYさんだ。「With pleasure」と言ってフロアーに向かったのだ。それから気のせいか雰囲気ががらりと変わった。暫くして我々が帰ることになった時には何人もの黒人達がレコードを差し出し土産に持って帰れ言うのだ。案ずるより生むが易しとは正にこのことだったようだ。貴重な青春の思い出の一つとなった。

68. 新しい友との出会い
留学生活も3年目に入った頃ある奇特なアメリカ人夫妻が日本人留学生の憩いの場所として大学近くの邸宅の地下室を提供してくれた。かなり広いスペースだったが少々手入れが必要だった。私は大工仕事が好きだったので天井の隙間などを修理することにした。そこで三角形の隙間ににあわせて三角形にベニヤ板を切り、そこのパッチングを始めた。それを横でじっと眺めていたのがジミーだった。エミが帰国してしまい遊び相手がいなくなったジミーは私と行動を共にすることが多くなっていた。後で聞くと彼は大きな板を被せれば済むのになんて細かいことに手間をかけるのだろうと思って見ていたのだそうだ。良く考えれば至極ごもっともなことだ。細かい性格の私とは対照的に、大胆で行動力のあるジミーとはウマが合った。さて、その憩いの場所の壁に男子学生達がピンアップ写真を貼りつけた。ピンアップ写真と言ってもビキニ姿の女性の写真であってヌード写真ではない。ところがある日真面目なリッコがこんなところに貼るのはふさわしくないのではと言って剥がしていった。
その頃マウント・ベーカーのクリスマスキャンプで仲良くなったドイツのギュンターとウーゼルから二人の結婚式の知らせが届いた。結婚式はドイツのドルトムントで行われたので私は式には出席出来なかったが祝電を打った。同じころやはりマウントベーカーで親しくなったミッシェルもワシントン大学で知り合ったボッブと結婚した。とにかく私の周りでいろいろな変化があった。
物理科の2年後輩に一人の日本人がいた。留学生仲間ではなかったので多分日系二世だったのだろう。その彼が学生食堂でよく可愛らしい女性と食事をしていた。一度だけ紹介され、里美と言う名前だと知ったが後に彼女が遊び仲間になるなどとは思ってもいなかった。
1964年の夏も終わり多くの仲間が去り寂しくなった頃、未だシアトルで頑張っていた大先輩の姉御Yさんが住まいに居残った人達を招待した。誰でも呼んできていいよと言われていたのでジミーとリッコを誘って出かけた。Yさん宅についてみると驚いたことに学生食堂で何度か見かけていた里美さんが甲斐甲斐しくパーティーの準備を手伝っていた。Yさんと里美さんはワシントン大学で美術を専攻していてお互いに知り合いだったのだそうだ。私は里美さんを見知っていたのでジミーに紹介した。その日集まったのは10人ほどだったが皆でYさんと里美さんが準備してくれていたご馳走をいただき、ビールを飲み、和気あいあいの親睦会となった。会が終わる頃にはジミーと里美さんはすっかり意気投合したようで楽しそうに話をしていた。リッコと私も話に加わり楽しい時を過ごした。これを機に、多くの友人達が去って行った後のシアトルで私たち4人は仲良くなり次第に一緒に行動することが多くなっていくのだった。

69. 1964年10月 日本語の教師となる
ケネディ大統領の下、極東での異文化を理解しないがために起った諸々の摩擦が問題視されて極東の文化・言語学習の必要性の機運が高まりワシントン大学も極東の語学・文学にかなりの力を入れていた。日本語も結構人気があり、かなりの数の生徒が日本語を専攻していた。そんな時、日本語・日本文学科で助手を一人募集していると言うのを小耳にはさみ興味を持った私は、日本語科の主任教授のドクターTamako Niwaに直接売り込みに行くことにした。 試験として手渡されたのは日本の中小企業をテーマとした英文の論文だった。かなり難解な長文だったが何とか八割ぐらいを訳した時点で試験終了となった。まさかアメリカまで来て英文和訳の試験を受けることになろうとは思っていなかった。国語が大嫌いだったこの私がアメリカとはいえ日本語を教える立場になるなどは考えられないことだった。ところが予想に反して結果は合格だった。他にも応募者がいたのだが東京生まれの私が標準語を話すと言うことで選ばれたらしい。

日本語科のスタッフは主任教授の日系二世のドクターTamako Niwa、に日本から来られたドクター松村(この方は女性ですが医学統計学で博士号をとられていました)が副主任のような役割をしておられた。それにハワイ大学から客員教師として来ていたR女史、東京大学からみえたS講師、ワシントン大学留学生のG氏、才媛の誉れ高かったTさんに私を加えた6名だった。私はTA(Teaching Assistant)で教員の中では一番の下っ端ではあったがファカルティー(教職員)としての特権を与えられたのは嬉しいことだった。一般の学生が駐車できるのはキャンパスのはずれの大駐車場だったが、ファカルティーには学部建物横の駐車場が与えられる。一般学生駐車場より10分ほど教室までの時間が短縮されるのでとても楽になるのだ。それに月給$140と言うのも嬉しい収入だった。

70. 日本語のクラス(1)
私が担当したのはIntensive Japanese Course(日本語集中コース)のアンダーグラジュエイト(学部)のクラスと大学院の一コースだった。学部のコースは一年間で日本語を叩き込もうとする集中コースで生徒を一年間日本語漬けにする。基本的には日本語の基本文例の繰り返し練習で私がまず教科書の基本文例を音読しそれを生徒に復唱させるのだ。これは教科書が与えられたのであまり準備の必要がなく楽だったが大学院のクラスともなると朝日新聞の社説を教材としていた。社説など日本にいた頃はあまり真面目に読んでいなかったのだが教える立場ともなると学生達からの質問に答えられるよう前もって内容をよく読んでおく必要があった。

日本語集中コースの方は10名ぐらいの少人数だったが最初からある程度日本語を話せる生徒がかなり混ざっていた。生徒はいろいろな経歴の持ち主だった。日本での生活経験のあるウイリアムさん、そしてスキー場で知り合ったスキー・インストラクターのジョージさん、ハワイから来ていた日系二世の男子生徒ナコさん、ポリネシア系美人のロビンソンさん、香港から来ていたリーさん、アメリカ人女性のキャンベルさん、元日本駐在軍人のクリストファーさん、フォーサイスさん、そしてシアトルの日本食材店<宇和島>の娘さんとその友人などだった。初めて日本語の勉強を始める生徒も混ざっていたので出だしは生徒のレベルがかなりばらばらだが、何も無いところから日本語を勉強する生徒は熱意が違っていた。一学期(3ヶ月)も経つ頃にはそのような生徒が頭角を現してくるのだ。外交官を目指していたウェストマーさんはその良い例だった。彼は私が帰国してから待望の外交官となり在日米国大使館に赴任した。そこで大使館官舎でのクリスマスパーティーに私を招待してくれたことがある。

1授業の単位は50分だ。ベルと同時に授業を開始し終業のベルが鳴ると直ちに授業をやめる。10分間の休憩時間中に生徒は次のクラスへと移動しなければならない。だから教師は50分間でぴたりとその日のノルマを教えなければならない。 積み残しは出来ないのだ。生徒の方もこの点を良く理解していたようで私のペースによく協力してくれ、ノルマをこなせなかったことは一度もなかった。

71. 日本語のクラス(2)
日本語集中コースのクラスに一人ボス的存在の生徒がいた。香港から来ていた小柄なリーさんだ。彼は常にクラスの最後部で足を前の机にのせ小さめのハンチングを被ってふんぞり返って座っていた。これだけ聞くと手に負えない厄介な生徒と思われそうだが、リーさんはとても協力的でやや癖のある日本語でクラス全員を取り仕切ってくれていた。私はリーさんのことを小さな王様と呼んでいた。

金曜日になるとリーさんから「先生、今夜うちで一緒に飲みませんか?」と声が掛かる。彼の下宿に行くとクラスの全員がそろっていて歓迎してくれるのだった。みな一生懸命、習いたての日本語で会話をしている。私を交えて日本語会話の実習の場となっているのだった。ただ、フランスに駐屯していたことのあるクリストファーさんだけは私がフランス語を勉強していることを知っていつもフランス語で話しかけてきた。あまり熱心なので私も出来るだけフランス語で答えるようにしたが皆が日本語で話す努力をしているのだからほかの生徒に申し訳けない。 するとすかさずリーさんが「ここでは、日本語、日本語!」と言ってクリストファーさんを窘め助け舟を出してくれるのだった。

毎週のように続いたこの金曜の飲み会は私にとっても楽しい憩いのひと時だった。日本でパチンコに凝ってしまいパチンコの機械を持ち帰ってきていた女生徒の話、宝塚歌劇団に夢中になった女の子の話。そして一昔前にアメリカでも麻雀が大流行した時期があったことを知ったのもこの飲み会のおかげだった。

72. 教材作りと宮沢賢治の詩
日本語集中コースを担当しだして二週目の授業中、日本語科の主任教授、Dr.Niwaが突然教室の後のドアから入ってきて最後部座席に座り暫く注意深げに私の授業を観察して出て行った。勤務評定かなと思ったが次週の職員会議席上Dr.Niwaから驚きの発表がなされたのだ。「みなさんの授業を見学させていただきましたが、私がお願いしたことを忠実にやってくださっていたのは木山先生だけでした。」と少々ご機嫌ななめな顔で一同を見回した。理系の私以外の先生方は皆さん文科系だったので何かご自分の特色を出そうとされて授業に変化をつけられてみえたのだろう。私は文学の素養があまりないから教材を音読するだけに努めていたのが良かったのだ。実は私も授業中に学問的な脱線はしなかったが生徒の緊張をほぐす為に時々冗談を言ったり、クイズを出したりはしていたのだ。Dr.Niwaが教室に入って来た時は運良く真面目に教材を音読している場面だっただけなのだ。ふざけた一面を見られなかったお陰でDr.Niwaにはすっかり気に入られたようだ。それからと言うものあれこれと新しい教材作りのお手伝いを頼まれることになった。

Dr.Niwaから頼まれた最初の教材作成は、生徒が学習した基本構文のみを使って正しい自然な日本語の文章を作ってほしいと言うものだった。私は中学・高校時代には大の作文嫌いで、夏休みの作文には毎年悩まされていたのだ。そんな私がこともあろうに教材を作ることになったのだからまさに青天の霹靂だ。しかし人間とは恐ろしいもので信頼され、期待されていると思うと不思議な能力が出てくるのか、又は、使える基本構文が限られていた為か、わずかな時間で自分でも感心してしまうような無理の無い自然体の日本語文章ができあがったのだ。Dr.Niwaの評価も高くそのまま教材として採用されたのだった。

暫くすると今度は語学ラボで生徒達が聴く日本語の音声テープの作成に携わることになった。宮沢賢治の長い詩「雨にも負けず、風にも負けず・・」の朗読を任されたのだ。
私の朗読が録音され、それを語学ラボで日本語を学ぶ生徒達が何度も何度も繰り返して聴くことになるのだから大任だ。私は自分の声がいいと思ったことなど一度もなかったので何故こんな大役を任されたのか分からなかったがやるしかなかった。

視聴覚教室のスタジオには本格的な録音室がある。録音室のマイクの前に座ると横に副主任の松村先生が座って録音機の設定をし、私にスタートの合図を送る。緊張が高まって心臓がどきどきする。宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず・・」には難しい言葉は含まれていないが結構長い。初めから終わりまでペースを乱さずに朗々と朗読するのが実に難しい。途中で息切れがしてペースが乱れたり、ちょっとした句読点で言葉が詰まったり、似た単語を読み間違えたりしてなかなかOKが出ない。録音が無事終了した頃にはもうふらふらだったがこの貴重な経験が後にアルバイトで広告映画のナレーションを担当した時に非常に役立ったのだ。

73. 仙台から届いたファンレター
専門の物理や数学の授業にかち合わないように担当の授業を決めてもらえた日本語科のTA(ティーチングアシスタント)の仕事は楽しくて時間の経つのも忘れる。2学期も過ぎた頃のことだった。日本の仙台から一通の手紙が届いた。宛名にはワシントン大学Professor Kiyamaと書いてあった。若い女性からの手紙だった。「仙台の河北新報で先生のワシントン大学でのご活躍を知りました」で始まる文でどうやってアメリカに渡りそのような職を得たのか教えてほしいと言うものだった。彼女もアメリカ留学の夢を持っているのが良く分かる内容だった。

そう言えばそれより一ヶ月ほど前に日本の新聞社の記者が私の授業を見学し写真を撮っていったのを思い出した。それが河北新報に載ったのだろう。私が驚いたのはワシントン大学Professor Kiyamaで手紙が届いたということだ。アメリカの大学ではファカルティーの中では教授(Professor),準教授、助教授、講師、等々があって最後にTAdなので名前にProfessorをつけられ、同僚の教職員に対してばつが悪かった。でも田舎の女の子がアメリカの大学で教鞭をとっている人間に手紙を出すとすれば敬称としてプロフェッサーしか思い当たらないのは分かるような気がする。

仙台の彼女には丁重な手紙を書きいろいろと参考になることを知らせたが、それっきり彼女からは連絡もなく、その後どうなったのかわからない。

私がこの様にマスコミ(?)に取り上げられたことは他にもあった。大学の直ぐ脇からワシントン湖の対岸に住む私のホストファミリーの家の直ぐ傍まで新しいフローティングブリッジ(浮橋)が建設された時「新しい橋の恩恵を受け喜ぶ留学生」とのタイトルで私のことが写真入で地方紙の社会面に大きく出たことや、ワシントン大学を留学先に選んだ理由についてラジオ局からインタビューを受けたこともあった。日本にいてはなかなか体験できないことが起こるものだ。

74. 日本向け広告映画のナレーション
ある時日本向け広告映画のシナリオの翻訳とナレーションを依頼された。 Dr.Niwaの推薦を受けて大手の合板(plywood)製造会社が私に依頼してきたのだ。内容は工事現場でコンクリートを流し込む時に周りを囲う板に合板(ベニヤ板)が如何に優れているかを解説する20分程度の日本向けのコマーシャルだった。ギャラは200ドルだったが当時としては大金だ。日本で会社勤めをしている大学同期友人達の半年分の給料に匹敵する額だった。しかも私が費やした時間は3日程だった。なぜならシナリオが平易な文で日本語に訳し易かったのだ。更に宮沢賢治の詩の朗読でマイクに向かっての発声の仕方が分かっていたことも大いに役立ったのだ。
吹き込みは本格的なスタジオで行われ、スクリーンに映し出される画面に合わせてナレーションを入れて行くのだ。これが自分で言うのも変だが驚くほど声の乗りが良く、画面と最初から最後までぴたりと合って最高の出来となった。
それから一週間ほどして同じ会社からもう一本やってほしいと依頼が来た。前回あれだけ上手く行ったのだから今度は経費節約の為スタジオではなくモテルの一室で画面なしでテープレコーダーにナレーションだけを吹き込んでほしいと言うのだった。映画の映写時間だけ教えられその時間に合わせてナレーションを録音してくれと言う無茶な要求だった。
ギャラの良さと相手のしつこさに負けてソニーのテープレコーダーを前にモテルの一室で頑張ったのだが出来は散々なものだった。どうしてもナレーションが画面とずれてしまって合わないのだ。経費をつまらないところでケチった会社の担当者に責任はあるのだと自分に言い聞かせたが、日本での反応はどうだったのか考えると暫く落ち着がなかった。

75. 3年目の生活と1965年正月
留学3年目には日本語の教師となって生活環境が大きく変化すると同時に日本人留学生の中でも古株となり日本人留学生会のプレジデントを任されることになった。ハウスボーイをしていたミセス・プライスの地下室で皆を集めてダンスパーティーを催したり、いろいろと日本人留学生たちの親睦を図るイベントを企画した。そんな時には奇特な人が提供してくれた日本人留学生の地下集会所は非常に役に立った。

一方、学業の方は物理科の卒業に必要な必須科目を一つ残していただけなので比較的時間に余裕が出来た。フランス人の家にフランス語の会話を習いに行ったり、交友関係も留学生同士だけでなくワシントン大学に講師としてきた方々やシアトルに語学研修に来ていた方達とも親しくなった。旅行をしたり、山にハイキングに行ったり、お宅にお邪魔して日本食をご馳走になったり、ゲームをしたり、正に青春を謳歌した時代だった。アメリカ人の学友とは勉強の話ばかりで一緒に遊ぶことはほとんどなかったが日本語科の生徒達とはよく飲み会をした。そんな中シアトルで迎える3回目の正月を迎えた。元日は日本語科の副主任松村先生の家に日本語科の教師達が呼ばれ賑やかな親睦会となった。ふんだんに料理と酒を振る舞われ皆無礼講となりそれぞれの先生方の普段教員室では見られない一面が見えて面白かった。話している内にスキーの話が出て私の案内で有志数人がスノーコロミー・スキー場に行くことになった。一番張りきったのは松村先生だった。ところがこれが切っ掛けで松村先生が入院する事態となった。正月明けの休日に私を含め5人でスキーに出かけたのだが1時間ほど滑ったころで松村先生が急に腰痛を訴え動けなくなった。シアトルに戻った翌日松村先生は病院で検査を受けた。3日後に出た結果は何と脊椎カリエスだった。スキーに誘った私は何となく責任を感じてそれから松村先生の通院のための付き添い役をかってでた。松村先生はおかげで病気が発見されたのだから気にしないでと言ってくれたが私はシアトルを離れるまで先生の足代わりとなって運転手役を務めることになった。

76. リッコの自動車事故
1965年2月のことだった。プライス家で夕食を終えて寛いでいた時リッコから電話がかかって来た。「ぶつけちゃった。」と言う。私が紹介したスキー・インストラクターのジョージにスキーを教えてもらうことになりジョージとスノーコロミーにスキーに行った帰り道の追突事故だった。事故現場まで迎えに来てもらえないかというのだ。ぶつけたのはリッコの車ルノー・ドルフィンでリッコが運転していたという。帰り道、前を走っていた車が止まったので慌ててブレーキをかけたがブレーキが全く利かずズルズルと進んで追突してしまったとのこと。前の車には赤ちゃんが乗っていたので怪我をさせたのではないかと心配している様子だ。私は直ぐ車に飛び乗り現場に駆け付けた。リッコの車は前部がつぶれラジエーターから冷却水がぽたぽた地面に滴っていた。幸いなことに追突された方の車は大したことなく事故保険の手続きだけ調べて立ち去ってしまっていた。
エンジンの掛からなくなった車を私の車にロープでつなぎジョージの弟が働いていた自動車修理工場まで運んだ。リッコはかなり動揺していてもう車はいらないと言う。結局、ジョージの弟が事故車を50ドルで買ってくれることになった。 車はそれで片付いたがリッコの動揺は暫く続き好きだったスキーにももう行かないとまで言い出した。それからしばらくの間私やリッコと仲の良かった遊び仲間たちがそれと無く気を使ってリッコを一人にしないようにした。

77. ジミーと里美さんの婚約
ジミーと親しくなった里美さんには日系二世の方と結婚してシアトルに住んでいたお姉さんがいた。 彼女はそのお姉さんの家から大学に通っていた。 里美さんと親しくなってからはジミーと良くそのお宅に遊びにお邪魔した。 時には大勢の日本人留学生達を招いてパーティーを開いて下さったこともあった。日本領事宅での家庭教師の仕事が終わった後、私にとっては里美さんのお姉さん宅は美味しい日本食をいただける楽しい憩いの場所となっていた。お邪魔しては懐かしい日本のレコードを聴かせていただくのも楽しみだった。西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」や鶴田浩二の「好きだった」等々のレコードを繰り返し聴いては日本に思いを馳せた。3年目の冬になると里美さんのお姉さんご夫妻とジミー、そしてリッコを交えて一緒に良くスキーにも出かけた。こういったお付き合いが何ヶ月か続いた後ジミーと里美さんが婚約することになった。そしてお二人の出会いの時から知っていた私は結婚式でベストマンになってほしいと頼まれた。二つ返事で「喜んで」と言ったもののベストマンなるものがどんなものか全く知らなかった。

78. シボレーのコルベア
親しくしていた同期の友人が一時帰国することになり彼の乗っていたシボレーのコルベアを預かることになった。パワーステアリングでしかもマニュアル車ではなくAT車だったので急に裕福な留学生になったような気がした。あまりにも軽快に動くコルベアに慣れると自分のぼろ車を運転する時にハンドルが重くてカーブしきれないことがある。

使い出して間もない頃、日本から文化使節団の一員としてワシントン大学にみえていた若い女性から電話が掛かってきた。「素敵な車をお持ちのようですね、自動車の運転免許を取りたいので練習用に使わせて貰えないかしら」というのだ。借りているものを又貸しするわけにはいかない。ましてや未だ運転免許証を持っていない人に貸すなどはもってのほかだ。「私のぼろ車ならお貸ししましょう」と答えるとあんなぼろ車ではいやだとおっしゃって私を困らせる。私も借りている車を貸すわけにはいかないので丁重にお断りし続けた。それ以後その彼女は私と出会うたびに私ことを「意地悪爺さん」と呼ぶようになった。後に有名になられた方だがこの当時は良家に育てられた30才前後の少しだけわがままなお嬢様だった。

仲良しのジミーと里美さんが婚約をした時にはジミーの車ではなくこのコルベアでリツコを加えた四人でオレゴン州のフッド山にキャンプに出かけた。軽快な車でのドライブは楽しいものだった。この車を借りていられる間は私のぼろ車に乗る気にはなれなかった。

79. 私のぼろ車1957年型フォード車の最期
私の愛すべき車フォードの最後は壮絶だった。友人にコルベアを返してしばらくした頃、あるパーティーで一人の韓国人留学生と親しくなった。その韓国人留学生李さんにはアメリカ人の恋人がいて私も李さんに誘われて何度かその彼女の所にお邪魔したことがあった。その李さんが実家に帰ってしまったアメリカ人の彼女を迎えに私の車でスポケーン(シアトル東約500キロにある町)迄一緒に行ってほしいと頼んできた。 彼女のことは私もよく知っていたのでOKしたが、よく聞いてみると李さんが彼女に暴力を振い彼女が愛想をつかして実家に逃げ帰ったという。「彼女も君の事は信頼しているから暴力を振うのは韓国の愛情の表現だと彼女に説明してくれ」と言うのだ。そんな嘘はつきたくないと思ったがOKした後だったので仕方なく李さんに同行してスポケーンに向けシアトルを後にした。

李さんが「俺が運転する」と言ってスポケーンに向かったのだがその運転のすさまじいことといったらない。国道横の傾斜のついた土手道を車が傾いた状態でスピードを上げて走るのだ。私は恐怖で身体が硬直した。こんな思いをして到着したスポケーンだったが彼女への電話説得は功を奏さなかった。その日は静かな湖の近くのモテルに一泊したのだが翌日になって李さんが「俺は彼女を説得するためもう一泊する」と言い出した。私はもうこれ以上彼に付き合うのはごめんだったので「どうしても今日シアトルに戻らねばならない用事がある」と言って一人先にバスで戻ることにした。数日後李さんがシアトルに戻って来た時、もう我が愛車フォードは一緒ではなかった。李さんは帰路事故で車が大破したのでジャンクヤードに売ってきたと言って私に18ドル手渡したのだ。我が愛車を失くした悲しみより私は生きていられたことが嬉しく神に感謝した。李さんに彼女との結末を聞かないまま私は彼との付き合いを止めた。

80. オナラスカのコプロライトとアゲイト・ビーチ
ミセス・プライス家のハウスボーイの仕事を譲ってくれた先輩Mさんは化石やらメノウ等の工芸品作成に適した鉱石を発掘するのが趣味だった。採取してきた珍しい石は小型タンブラー(角を磨耗させる回転機)に入れ何日もかけて石の表面をつるつるに磨きネックレスや、ブローチなどを作っていた。そんなM氏ご夫妻に誘われて、私とジミー、里美さんとリッコの4人はオナラスカに化石堀に行った。
シアトルから南へ車で1~2時間下ったところにあるオナラスカには直径10~20cmもする丸太片がころころ転がっている。それがすべて立派な木の化石(Petrified Wood)だった。 又、樹木の化石以外にもコプロライト(Coprolite)と呼ばれる恐竜の糞石が見つかる。このコプロライトは蛇がとぐろを巻いているような形をしていて今にも湯気が立ちそうな立派な糞の化石だ。私たち4人は化石堀りを存分に楽しみ、お土産にいくつか化石を持ち帰ってきた。

又、別の機会にはリツコと私はアゲイト・ビーチと呼ばれるコースにも連れて行ってもらった。そこはアゲート(メノウ)が拾える海岸だった。M先輩はアゲートでもいろいろな装飾品を作るのを趣味とされていたのだ。私はフランスに渡った後でMさんの奥さんに頼まれ、遥々2日掛けてフランス北部の町ナンシーに住むフランス人女性のもとにMさん自作のブローチを届けることになった。
 
81. プライス家を出る
3年目も半分を過ぎた頃ミセス・プライス邸のハウスボーイを辞め、再び下宿生活に入る事になった。中国人の友人が安くていい下宿を教えてくれたのだ。それはまたしても私がシアトルに着いて最初に入ったジェイコブスンおばあさんの下宿の直ぐ傍にあって地下室だったがシャワー付きで明り取りの小窓も付いている小奇麗な部屋だった。驚いたことに家賃が月たったの15ドルだった。ジェイコブスンの下宿が平均的な家賃月45ドルだったからこれにはびっくりした。流石に中国人仲間の情報網は凄いと思った。その下宿には沖縄からの留学生もいてよくひき肉を買ってきては特大のジューシーなハンバーグを作って食べた。

82. 日本人の海外移住の歴史
日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始まった。始めは政府の許可や旅券を受けることなくハワイやグアムへ出稼ぎ労働者として日本を出国したのだそうだ。その後、幾多の紆余曲折を経てラテンアメリカへの日本人渡航が盛んになり、そして20世紀初めには、北米へ多数の日本人学生が渡航した。サンフランシスコ、シアトル、ポートランドなどで仕事をしながら英語を学び、学校へ通ったのだ。私がしたのと同じように白人家庭に住み込み、食事代と部屋代を免除してもらい、小額の小遣いを受け取るかわりに、料理や掃除、洗濯など行い、昼間の空いた時間に通学したということだ。
また一方で、農園などで働く出稼ぎ労働者も数多く合衆国やカナダ西部に渡り、やがて日本人人口の急激な増加が白人の人種的恐怖心を煽るようになり、1924年に合衆国は日本人移民入国を禁止するようになった。1924年以来、日本人に門戸を閉ざしていた合衆国も、戦後、まず日本人「戦争花嫁」の入国を許可し、さらに1952年には少数の日本人の入国を認めるようになった。そののち合衆国国内の公民権運動の高まりとともに、私の留学中の1965年には白人中心主義に基づいた移民政策を撤廃し、日本人移民への差別的入国制限がなくなった。
このような歴史があって私が留学した時、シアトルには確りした日本人コミュニティが存在していた。銭湯も、碁会所も何軒かの日本式レストランも存在していた。夏には盆踊りも盛大に行われていたのだ。
私はひょんなことから、このシアトル日本人移民の歴史を調査するお手伝いをすることになった。

83. シアトル在住日系移民の歴史を学ぶ
ハウスボーイを辞め大学近くの下宿生活に戻った頃、先輩のUさんはワシントン大学社会学科のシアトル日本人移民の歴史を編纂するプロジェクトで日系人家族を戸別訪問して調査するお手伝いをしてみえた。そのUさんからこのアルバイトを続けられなくなったので後を引き継いでもらえまいかと声をかけられた。興味ある内容だったし時間的余裕も出来ていたのでお引き受けすることにした。
プロジェクト担当の日系人教授から手渡された調査資料には一戸分の調査項目が数ページに亘ってぎっしりと詰まっていた。「イエス」か「ノー」かで簡単に答えられるものはあまり無く、一つ一つ丁寧に話を聞いて文章でまとめなくてはならない項目が多かった。アルバイト代は一戸当たりの定額謝礼金とガソリン代だった。
このアルバイトが大変であることが分かったのは調査を始めてからだった。まず訪れても留守で何度も出直さなければならないケースが非常に多かったことと、在宅していてもドアを半分開いて用件を聞いたとたんに「お断りします」と拒絶反応を示す家庭があったりして調査はなかなか捗らないのだ。中には反対に「どうぞ、どうぞ」と言って私を家の中に招きいれ、調査に関係の無い昔話を長々とされるお年よりがいたりする。昔話が長引いて肝心の調査が一回の訪問ですまないケースも出てきた。
もらえる謝礼の割には時間のかかる割の合わないアルバイトだ。10家族ほど調査を終えたところでやめることにしたが学んだことは多かったと思う。
日系アメリカ人は当初から偏見と差別に苦しむことが多く、生活も苦しかったけれども、汗水流して働き、教育熱心で、よきアメリカ市民になろうと努力していたこと。第二次世界大戦中における日系人の強制収容(relocation camp)など人種差別によるいくつもの障害があったものの、日系人はその勤勉性で世代が変わるごとに、ゆっくりとではあっても確実に、アメリカ社会での地位を向上させていったという事等だ

84. 物理科卒業試験
1965年6月、物理科を卒業するため合格点をとらねばならぬ最後の一科目の試験日が来た。一年前取り損なり、そのために卒業が一年先延ばしとなった因縁の難関科目だった。 合格点が取れたら日本そばを作ってあげるとリッコに言われていた。 試験結果は三日後の正午に物理教室の廊下に採点結果が記された答案用紙が返却箱に入れられ置かれることになっていた。三日後返却箱が出されそうな時間に見に行くと既に返却箱が置かれていたが予定よりだいぶ早く出されていたようで結果を調べに来ている生徒はほとんどいなかった。返却箱にはクラス全員の答案が重ねて入れられているので一枚一枚めくって自分の答案を探さなければ結果が分からない。緊張の一瞬だ。何枚目かをめくった時私の答案用紙が出てきた。合格印が付いていた。すぐさまリッコの下宿に報告に行くと既にそばが用意されていた。私より先にリッコは物理教室まで結果を見に行っていたのだった。私には関係ないよと言う顔をしていたのに陰ながら気にかけてくれていたのだった。その時の日本そばは格別うまかった。その日の夜はリッコと二人でスペースニードル(シアトルの一番高いターワー)に登り夜景を見ながらステーキを食べた。その後、フォークダンスしか踊ったことがないというリッコがダンス・ホールに行ってもいいよと言い出した。思ってもみなかった申し出にびっくりしたが反対する理由はない。結局シアトル郊外にあったどでかいダンスホールに行った。場内に入ると色とりどりのライトがちらつく中で大勢のカップルが踊っていた。それほど混んではいなかったのでフロアに出て踊ろうとするとリッコは胸と胸を10cm以内に近づけてはいけないと言い出した。 ラテンものならともかくワルツとかブルースとかのスタンダードダンスでは胸をつけないで踊るなど出来たものではない。リッコはフォークダンスしか経験がなかったのでしょうがないと思ったがこんなダンスは先にも後にもしたことがなかった。でも、ダンスホールに一緒に行ってくれただけでもうれしい出来事だった。その夜別れ際にリッコからCongratulation のカードをもらった。それには合格おめでとう! 「今年は本当に卒業できるの?」と記されていた。

85. アインシュタインは例外だ!(夢半ばの挫折)
3回目の春学期で物理学部卒業に必要な最期の科目を無事履修し終わった私は直ちに大学院理論物理科の主任教授のもとを尋ねた。主任教授は一寸細身なところを除けばアインシュタインそっくりな風貌だった。私の大学院で理論物理を専攻したいという希望を聞いた教授は私の学部(Undergraduate)の成績を見るなり「大学院で理論物理を専攻するのはアンダーグラジュエイトでの成績がほとんど“A”の学生なんだよ」と言い出した。ここで引き下がるわけにはいかない。「かのアインシュタインはそんなに良い成績ではなかったように聞いていますが」と言うと「アインシュタインは例外だ。」とのたまった。

あれこれやり取りが続いた後、教授が「ではマックスウェルの電磁気学について述べてみなさい」と言い出した。勿論古典物理学の重要理論であるマックスウェルの電磁気学は知らないわけは無いのだが突然の口頭試問は予想していなかった。知っている限りの知識を絞って説明を始めると何とか諦めさせようという意図があったのか鋭い質問を次々と浴びせてきた。教授は少し訛りがあった上早口だったので質問をすべて正確に理解できていた自信はない。時間がとても長く感じられたが最期まで大学院での理論物理専攻の許可はもらえなかった。 私の計画が挫折した瞬間だった。

当時ワシントン大学の大学院数学科で私に[Measure Theory]の個人指導をしてくれていたスウエーデンから来ていた若い客員助教授にこの話しをすると「若者が勉強したいというのを許可しないのは間違っている」と言ってひどく憤慨してくれたが大学の結論を覆すには至らなかった。

86. フランス行きを決意
大学院での理論物理専攻の夢が断たれた後も暫くはワシントン大学の大学院で数値解析(numerical analysis)を勉強していたのだが、ある日突然ワシントン大学でMBAを取った女性に「日本に帰って就職するなら数学で修士号をとっても意味無いわよ」と言われたことを思い出した。理論物理を専攻出来ないのなら自分は今何のために数学を勉強しているのか? そう考えると馬鹿らしくなってきた。こうなったら好きな語学を学びに早いことヨーロッパに行った方がいいと気が付いたのだ。

後三ヶ月で数学の修士号が取れるところまで来ていたが未練はなかった。直ちにフランスに向かう準備を始めた。シアトルの旅行会社でニューヨークからフランスのル・アーブルまでの船旅を予約した。船は当時世界一の豪華船と言われていたフランス号だ。以前はクイーン・エリザベス号が世界一といわれていたがそれに勝るとも劣らぬ豪華船と聞いていたので是非乗ってみたかったのだ。因みに私は飛行機が大嫌いで空旅はどうしても避けたかったこともある。早速フランス行きの件は両親に知らせた。アメリカ留学の時とは違い自分で稼いだ金で1年ぐらいはフランスで生活できそうだから心配はいらぬとも伝えると確り勉強して来いと激励の手紙が届いた。親しくしていたシアトルの友人達にも間もなくお別れすると告げた。 リッコはワシントン大学での仕事を契約期間まで勤めたらフランスを回って帰ると言い出した。私はフランスに来たら歓迎するよと言ったがリッコの言葉の深い意味は思いつかなかった。

87. ジミーと里美さんの結婚式
いよいよジミーと里美さんの結婚式の日が来た。1965年8月8日のことだった。アメリカの結婚式には花婿付添い人(groomsmen)と花嫁付添い人(bridesmaid)が欠かせないのだがそのうち日本でいう仲人の男性の役割を担うのがベストマン(best man)であり、仲人の女性の役割を担うのがメイド・オブ・オナー(maid of honor)だ。

花婿付添い人には私の他に沖縄から来ていた日本人留学生のN氏とワシントン大学で私の日本語コースの生徒でひょんなことからジミーとも親しくなっていたアメリカ人のジョージが選ばれた。そうして私がベストマンを任されたのだ。花嫁付添い人の方は里美さんが親しい方々に頼んだのだがリッコは仕事の関係で丁度シアトルを離れていて結婚式に参加できなかった。私は結婚式の仲人役など後にも先にもこの時だけだから非常に貴重な体験をさせてもらったことになる。
付添い人たちは皆正装で男性はタキシードだ。通常は付添い人が自前で用意するのだが貧乏学生だった私たちはタキシードのレンタル料をすべて里美さんのお姉さんに用立てしていただいたのだった。披露宴ではハワイから駆け付けたジミーの叔母さんがフラダンスを披露して宴を盛り上げた。ジミーと里美さんの友人達も二人に纏わるエピソードを披露した。私からの贈り物はお金では買えない様なものがいいと考え披露宴の会場を駆け巡り出席者一人一人にメッセージを吹き込んでもらった録音テープを記念品として贈呈した。

この結婚式を挟んで2週間ほどリッコは仕事でシアトルにいなかったのだがその間にリッコは引っ越しすることになっていた。リッコは留守の間引っ越し荷物一式を預かってほしいと言って私の下宿に置いて行った。 旅行中にゆっくり考えて戻って来たら婚約者とのことを話すと言っていたリッコは戻って来ても暫く何も言わなかった。しかし私はリッコのすっきりした様子から日本の婚約者と決別したのだということを悟った。

二人の結婚式から数ヵ月後、私とリッコは婚約を決意し化石採掘に誘ってくださったり、私たちの交際を応援してくれていたM先輩の下へ報告に行った。すると気が変わらない内に発表した方がいいと言って婚約パーティーの段取りをしてくれたのだ。婚約パーティー当日、山好きなリッコの提案でMt.Rainierの近くにある岩山、Mt.サイに記念登山することになった。頂上近くには両手で懸垂をしなければ先に進めない岩場があった。私は高所恐怖症なので躊躇したがリッコに先に登られてしまった。目を瞑ってでも頑張るしかなかった。ここで登らなければ男がすたる。ようやく登りついた頂上からの眺めはまさに絶景。山をどうやって下ったかは覚えていないが麓まで降り雪解け水の渓流に飛び込んで身体を清めた気分は最高だった。その晩の婚約パーティーには留学生のみならず、日本語科の生徒達や文化使節団の先生方など大勢の知人達が祝福に集まってくれた。その日浴衣姿で出席したリッコは輝いて見えた。

88. Three Trees とナイトクラブ
ワシントン大学の大学院での理論物理専攻を諦めてフランスに渡ることにした後も直ぐにはシアトルを発てなかった。ニューヨークからフランスのル・アーブルまでの船のチケットを買ったが出航までの2ヶ月程シアトルでのんびりすることになった。その時期、毎晩のようにリッコと通ったThree Treesと言うライブ・ハウスがあった。こじんまりとした小さなサロン風の店だったがいつも癒し系のポピュラーミュージックをピアノで生演奏していた。とてもいい雰囲気で私達の語らいの場所となった。潔癖好きなリッコには似つかわしい店だった。この店でのデートは私がシアトルを離れるまで続いた。
この店とは対照的な所にも一度だけ行ったことがあった。私がシアトルを離れる日が近づいていたある夜、リッコとシアトルのダウンタウンへ行った時のことだ。ナイトクラブに入ってみたいとリッコが言い出した。私もアメリカのナイトクラブへは行ったことがなかったし、潔癖性のリッコにはどうかなと一瞬躊躇したが一度だけでいいから入ってみたいと言われ勇を鼓して高い金を出し中に入った。 薄暗い中で座席に座ってから15分もしない間にリッコがもう出ようと言いだした。丁度舞台でゲイがストリップを始めたのだ。美しい美女のストリッパーなら私も見たかったがゲイのストリップには私も反吐を吐きそうになった。二人して直ぐ店を飛び出した。払った金はもったいなかったがリッコの潔癖性が立証されたようで安心もした出来事だった。

89.アメリカを後にしてフランスへ
1965年9月10日リッコと大勢の友達に見送られて3年前にシアトルに着いたのと同じ場所であるダウンタウンのグレイハウンド・バスターミナルからニューヨーク行きのバスに乗り込んだ。3年間のさまざまな思い出を胸に見送りの人たちに手を振った。バスは思い出深いスノーコロミーを通過してデンバーに向かった。
3日間バスに揺られニューヨークに付いた時には流石に臀部がはれぼったくなっていた。出航まで未だ3日間あったのでメジャーリーグの野球観戦に行ったり、友人宅にお邪魔したり、映画を見たり、床屋で散髪したりして時を過ごした。ニューヨークの物価の安さには驚いた。
タイムズスクエアー近くで別々のホテルに3泊したのだが最初のホテルが1泊3ドル、二日目は4ドル、三日目は奮発して6ドルのホテルに泊った。みな安宿には違いなかったがフロントもあり、ベッドのシーツも清潔で浴室も配管等がさびで汚れてはいたがお湯がちゃんと出たので不自由はなかった。貧乏学生のアメリカ最後の宿には相応しいものだった。因みにヒルトンとかシェラトンとかの名の通ったホテルは一泊30ドル以上していた。
二日目の夜、街を歩いていると向うから見覚えのある女性が歩いてくるのに出くわした。シアトルで最初の1年間ご一緒したEさんだった。Eさんも私のことを良く覚えてくれていた。とても感じのいい方だったので友達になりたいと思っていたのだがそんな機会もないいままシアトルを離れていった人だった。立ち話もなんだからということでTavern (酒場)に入って酒を飲みながらお互いの近況報告をしたり未来の夢を語り合って時のたつのを忘れた。

9月15日ニューヨークの街中で当時は珍しかった日本の寿司屋を見つけた。すしを握ってもらい日本のビールを注文し3年間のアメリカ生活を振り返りながら一人で盛り上がりアメリカ最後の夜を過ごした。

II. フランス編
1. 豪華客船France

アメリカからフランスへ向かうには思い切って豪華客船で渡ることにした。乗船する船はフランスのドゴール大統領が国の威信をかけて建造させた豪華客船フランスだった。総トン数は66,348トンで私が日本からアメリカへ渡った時の日令丸(6500トン)の十倍の大きさだ。1965年9月16日ニューヨークから出航した。船内はあまりの豪華さに驚くばかりだった。航海中にシアトルのリッコに次のような手紙を送っている。
「今丁度大西洋の真ん中ぐらいを航海している。時間は19日午前2時、シアトルの18日夜9時ごろのはずである。兎に角この船の馬鹿でかさには度肝を抜かれる。大きすぎて夜自分の船室に戻るのにいつも迷ってしまう。ファースト・クラスには入って行けないが4日や5日間ではツーリスト・クラスの施設を覚えるだけでも不可能なぐらいだ。以下説明するのはツーリスト・クラスだけの話だが、まあ聞いてくれたまえ。
スイミング・プールが二つあり、それも立派なもので屋根はガラス張りで海水の温水プールだ。飛び込み台もある。プールサイドにはバーもあるし、運動場もある。自転車も置いてある。又、船内の劇場は実に大きく毎日新しいロードショー劇場で見せるようなシネマスコープを上映している。フランス映画とアメリカものだがフランス語の勉強にいいので欠かさず全部見ている。その劇場の椅子が実に気持ち良いので、ややもすると眠ってしまいそうだ。その映画館では映画上映前にコマーシャルが入るのだがそのほとんどが船内の銀座通りに入っている一流店のものとパリの有名店のものだ。僕が銀座通りと呼んだのは船内にある丁度東京の地下鉄への地下道を思わせるような通りの事だ。そこには一流の店が並んでいる。レストラン、美容院、クリーニング店、床屋、洋服店、キャバレー、その他・・・でまるで銀座でも歩いているようなのさ。
又、この船では毎日新聞を発行している。世界のニュースから船内の催し物まで(勿論、TVガイド、映画ガイド等も)載っている。朝起きてみると船室のドアーの外にちゃんと置いてあるんだから恐れ入る。しかもただのガリ版なんかではないんだよ。又、TV放送局もあって陸地に近い間は陸地からのTV番組をキャッチして流すし、海上ではこの船で番組を作って放映している。ニュースの時間もあれば映画の時間もあり又、フランス語講座まである。それに病院まである。大きなもので怪我人をどんどん扱っている。(今日は海が荒れて怪我人が大分出たとの事、一人の船客は転んで椅子の足がおなかに突き刺さって大げがをしたとか)。 エレベーターもツーリストクラスだけで十箇所ぐらいはあると思う。エレベーターは七階まで上がってくれる。驚いたものだ。
この船では食べ物は無料な上いつでもボタン一つで何処へでもスチュワードが運んでくれる。又ワインも飲み放題で初めの二日間朝から飲み続けたら夜少々気分が悪くなって今日は中止、バーに飲みに出かけても何でも安いので実に嬉しい。 ビール二杯で25セント、又高級なスコッチ、ジンなども40セント程度だからね。今この手紙を書いている図書室には英語とフランス語の本がずらっと並んでいる。写真屋もある、ボーリング場も遊園地も音楽コンサートホールもある。大きなサロンでは毎日いろいろな催しが開かれている。昨夜は明け方の四時までダンス、そして今夜はいろいろなゲーム、勿論、一流のバンドが1~2組いるし、ラスベガスで歌っていたフランスの歌手が出て来たり、マジシャンの出演もあった。見回したところ東洋人は私のほかは見当たらない。6割ぐらいがアメリカ人、4割ぐらいがフランス人で年頃の美女達は2,3百人ぐらいか。でもあまりにも高級な社交場でみんな夜になるとドレスアップするのでこちらは隅っこで小さくなっているだけだ。
今日はフランス映画とアメリカ映画があったがアメリカものはシアトルで見た“黄色いロールスロイス”だったのでフランスものだけを見て来た。今日の映画はAdult Onlyのものだったが期待したほどのものではなかった。 今日ル・アーブルからパリ行きの切符を5ドル一寸で買った。 21日正午にle Havreを出てたった3時間で午後3時にはパリ到着する。汽車にしたのはセーヌ川を上ってゆく船は後々の楽しみに取って置きたかったからだ。
今日君に電報を打った。もうきっと届いていると思う。ワインに少々酔ったが船酔いはほとんど感じていない。腹も快調。船に乗っている間に美味いものを腹一杯食べておくつもりでいる。どうしたことか僕の船室のルームメートはキャンセルしたらしく終に姿を現さなかった。僕一人で部屋を占領していて最高な気分だ。 これならファーストクラスと同じようなもの。シャーワーもトイレも船室についているから最高だ。ルームクーラーが付いているので室内をいつでも自分の好きな温度に保つことが出来る。アメリカ人はフランス語を使わずに馬鹿にされて彼らにはあまりこの船の受けはよくないが僕は出来るだけフランス語を使うので係りのスチュワードは愛想がいい。少しチップを弾んでやるつもり。
(ここでガラスの割れた音が聞こえる)
今、海は荒れに荒れ狂っていてここまで書いたところで又大きく揺れてバーでバリバリバリとガラスの割れた大音がしたので見に行ってきた。みんなが苦しんでいるのに野次馬根性など出して申し訳なく思っている。この船でこんなに揺れるのだからBrown Bear(ワシントン大学海洋が宇研究所の観測船)だったら今頃は海底に沈んでいるところかもしれない。
兎に角、以上の説明はツーリストクラスの部分だけなのでもし、ファーストクラスの方に入ったらどんなものがあったか分かったもんじゃない。30年ぐらいして僕が退職した時にはこんな船で世界一周でもしたいと思っている。 
さて、午前3時になったのでそろそろ船室に戻ろうかと思う。 長いこと読みにくい字をフォローしてくれて有難う。これはアルコールと船の揺れのせいだ。(実は生まれつきさ)、シアトルの皆さんによろしく。」
と言った具合で毎日が船内の探検で時間が過ぎていった。ニューヨークを出て4日目にイギリスのサザンプトンに帰港したが霧が深く何も見えないまま出航してしまった。5日目ついに憧れの地フランスのル・アーブルに到着した。


2. 田園地帯を眺めながらパリへ
日本にいた頃にフランス語習得のため何度も何度も音読していたフランス語会話教材があった。この本の中に車窓から農村地帯を眺めながら会話をするシーンがありいつの間にか自分がそのシーンを体験することを夢見るようになっていた。ル・アーヴルからパリへ汽車旅を選んだのもその長年の夢を叶えるためと言うこともあったのだ。車窓から眺める農村風景は心和むものだった。
以前、東京でも東北方面は上野、、東海道は東京、山梨長野方面は新宿というように終着駅が分かれていたのと同様、パリも終着駅により北駅、東駅、リヨン駅、オーステルリッツ駅、モンパルナス駅、サンラザール駅と大きなターミナル駅が6もあった。 そしてル・アーヴルからの汽車はサンラザール駅に到着する。 日本でフランス語会話を一緒に学んでいた友人高柳君がパリに住んでいた。 奥さんのクラリセさんが駅に迎えに来てくれ暫く、パリ13区のイタリ―通りにある彼らのマンションに泊まらせてもらうことになった。  夕方高柳君が帰宅し、 4年ぶりの再会を祝してワインで乾杯。 高柳君はフランスで職に就くのに必要な労働許可書(Carte de Travail)がやっと取れ、病院で病人の世話等をやっているとのこと。 フランス人は若い時からワインをたくさん飲むので入院患者はみな胃がボロボロだという話を聞いたのを記憶している。 フランス語会話をブラッシュアップするため、何かアルバイトの口でもないかと相談すると労働許可書を持ってないと仕事にはつけないので学校に入った方がいいのではと言われたので数日は情報集めに徹することになった。

3. パリの憂鬱
フランスでの二日目はクラリセさんがパリを案内してくれることになり、まず、彼らの住まいの近くにある学生の街カルティエ・ラタンを訪れた。そこで学生達がたむろしているカフェに入ってパリの雰囲気を楽しんだ後、メトロ(地下鉄)に乗りモンマルトルのサクレクール寺院へ向かった。パリのメトロの駅のプラットフォームには使用積みの切符が秋の枯葉が庭に散らかるように点在していた。クラリセさんによると、プラットフォームに散らばった切符やゴミを掃除するのを職業としている労働者がいるので汚いままにしておいたほうが人助けになるということだった。モンマルトルの風景は写真や絵画で見ていたそのままで、多くの画家達が自分が描いた水彩画を売っていて、私も風景画を3枚ほど買った。モンマルトルからはレ・アール中央市場(1969年にランジスの町に移転し現在跡地はフォーラム・デ・アールと呼ばれる遊歩道を兼ねた広場となり、地下は商店街となっている)、オペラ座、ルーブル美術館等を通ってセーヌ河に出た。有名なノートルダム寺院を眺めながら河畔の遊歩道を散策すると、セーヌ河には行き交う遊覧船が見える。最後に訪れたシャンゼリゼ大通りは煌びやかでパリらしさを醸し出し魅力ある街だった。
 しかし私はその三日後にはシアトルのリッコには次のような手紙を出している。
「パリはミュージカルショーなどで見る様な素敵な所ではない。現実は夢をぶち壊す。どこを向いても汚くて古い。パリには高層建築は一つも見当たらない。きっと法律ででも規制されているのだろう。どのビルもナポレオン時代からのものの様で、たいていのビルは傾いている。勿論、パリの良いところもあるが現実の問題にぶつかった時にはそんなものを楽しんでいる余裕はない。パリの人達も愛想がなくてきりきりしているみたいだ。 先ほども街中のキオスクで一人のおばあさんが売り物を手に取って見ようとしていたら売り子の中年女性が触っちゃダメ、触っちゃダメと大声で怒鳴りつけていた。何といじわるなのだろう。パリには心にゆとりのない人達多いみたいだ。俺もパリの空気に慣れたら本来のペースが出てきて快調に物事を処理して行けるものと思うが得意のはずのフランス語にしても現在のところ生まれつきのはにかみ性が出て、親しい人に対してはペラペラ喋れるのに見知らぬ人に対しては一言も話せなくなってしまう。昨日もレストランに入ってものを注文するのが気恥ずかしくてとうとう夜11時になるまでパリの街をさ迷い歩き、フランス語を話すぐらいなら何も食べない方がいいと言う結論に達した。眠れないからバーにでも入って酒を飲もうかと思って何軒も覗いたが美しい女性がカウンターにいるのを見ただけで物怖じして逃げて来てしまうという始末。フランス語が全く喋れないならともかく全くだらしがない男性と自分ながら自分が恨めしくなってくる。 今日、街の公園に入って一人ベンチに腰を掛けていると沢山の鳩がやってきた。その中にどうした訳かちっちゃな雀が一羽混じっていた。 よく見ていると他人の中にいる一人ぼっちの自分のような気がして哀れをもよおしてきた。早いとここちらの生活に慣れないと痩せ衰えて死んでしまう。でも、一か月以内にきっと最高のペースに持って行くつもりだ。」

4. 岸恵子に手紙を書く
高柳君の家に置いてあった日本の週刊誌に岸恵子(女優)さんの話が載っていてなんとパリの住所が書いてあった。日本で親しくなっていたド・ジャーンという友人が 岸恵子さんの夫、イブ・シャンピ監督の助手をしていたのを思い出し、「ド・ジャーンに貰っていた住所を紛失して困っている、ド・ジャーンの居場所を教えてください」と大胆にも岸恵子さん宛に手紙を出してみた。パリでは高柳君に教えて貰ったAMEX(アメックスカード)の私書箱を使うことにしていた。これだと実際の居場所が変わっても影響を受けないですむ。こちらからパリの街中にあるAMEXオフィスに行き自分の私書箱に届いた郵便物を取ればいいのでとても便利だ。岸恵子さんに出した手紙も返信用宛先はAmexの私書箱にした。しかし残念ながら返事はもらえなかった。手紙が届かなかったのか多くのファンレターの一つと思われて無視されたのかはわからないが諦めるほかなかった。次に思い出したのがやはり日本でフランス語を習ったり一緒に旅行したりしたフィンランドの自称女流作家グン・ニーベリさんの事だった。彼女はフランスのソルボンヌ大学を出てフランス人と結婚したが離婚して日本に禅の研究に来ていた。その彼女から私が日本を発つ前に元夫がパリに住んでいるから訪ねてほしいと言って住所をもらっていたのを思いだした。今度は手紙ではなく実際にメトロを乗り継いで住所を訪ねたが不在だったので置手紙を残してきた。数日後パリのAmex私書箱に彼から手紙が届いた。それにはマドモアゼル・キヤマとなっていた。置手紙にはニーベリさんの友人と書いておいたので女性と思ったのだろう。私は結局男性であるという事は明かさないまま、「パリを発たなくてはならないので残念ながら、お会いすることはできません」という返事を書き送った。、それ以降彼とは連絡を取ることはなかった。

5. Baby Hotel
高柳君の勧めに従いパリの街に暫し滞在して学校を探すことにしたがいつまでも高柳君の所にお世話になるわけにもいかないのでまずは宿を探すことにした。何の当てもないまま、有名な市場Les Halles(レアール)のそばを歩いているとピサの斜塔のように目に見えて傾いている安宿が目に入った。名前はパリでありながら「Baby Hotel」と英語で書かれている。 以前観たジャック・レモンとシャリー・マックレーン主演の映画「Irma la Douce」の舞台となったあたりだから間違いなく連れ込み宿と思われる。ちっぽけなカウンターで小太りの女管理人から鍵を受け取り細い螺旋階段を4階の部屋まで上るのだが、急がないと階段の明かりはすぐ自動的に消えてしまう。フランスでは高級ホテル以外はどこでもこのように電灯は自動的に消えるよう出来ていた。部屋に入ると遊園地のビックリハウスに入ったように床の傾斜がすごいのにびっくりした。ベッドに横になると傾斜の為滑り落ちそうになるのだから少々の傾斜ではない。怖くなって管理人の所へ行って確かめると「100年以上も傾いたままだから大丈夫よ」とのたまったのには又、びっくりした。外に出て街路をみると両側のビルが傾きあって地上での間隔が上にいくに従って目に見えて狭くなっている。このままビルを高くしたら上の方でくっついてしまうに違いない。ちょっと怖かったが貧乏学生にはこんな宿にしか泊まれないと覚悟を決めた。

6. フランス語研修はツールで
高柳君のマンションを出てBaby Hotelに宿を移したその日、夕飯でも食べに出ようかなと部屋のドアを開いて廊下に出た時、隣の部屋のドアが開いて一人の男の人が出て来た。雰囲気がどうも日本人らしいなと思ていると「日本のかたですか?」と声をかけてきた。日本の大手商社の福本さんと言う方でフランス勤務のため語学研修を終えてきたところだという。たまたま私の高校時代の友人が同じ商社に勤めている筈なので訊いてみると同期入社なので良く知っているとのことだった。一気に話が弾んで親しくなったところで「これから小澤征爾のコンサートを聴きに行くのでご一緒しませんか」と誘われた。パリで小澤征爾の指揮する姿を観れるなんてまたとないチャンスと一つ返事で同行させてもらうことにしたのは言うまでもなかった。コンサートが素晴らしかったのはもちろんだが、その帰り道にパリの路上で遭遇した日本人の美女軍団にさらに感動した。なんと彼女らはパリを訪れていた宝塚歌劇団の一行だった。宝塚をみたことがなかった私はなんとしても観たくなり、一人翌日の宝塚公演に出かけた。タカラジェンヌの切れのいい動きに圧倒されっぱなしで、後にパリ滞在中に観たムーランルージュのフレンチカンカンより宝塚歌劇団のほうが魅力的だと思ったが、それは日本人の欲目だろうか。傍にいた中年フランス人のご婦人達が「マニフィック!マニフィック!」と連発していたので、宝塚歌劇団のレベルは申し分なく、パリの人々をも魅了していたのは間違いない。
福本さんとは2・3日Baby Hotelでご一緒したが私の方は早くフランス語研修の学校を決めないといけなかった。福本さんに相談すると「それならツールがいいでしょう」とツールを薦められた。フランスはドイツほど方言がないがツールでは特にきれいなフランス語が話されているという。真意のほどは判らないが福本氏はツールで3ヶ月フランス語を学んできたところと言うし、ツールの話をいろいろ聞かせてもらうとなかなか住み良さそうなので他に当てもなかった私はツールに行こうと決めたのだった。その翌日には福本さんに礼を言い早速汽車に乗り込みツールに向かった。

7. ツールの町
パリから南西約200kmほどのところにあるツールは、ローマ時代から繁栄を誇り、15世紀には宮廷が置かれていたため旧市街には古い木組みの家が並びロワール古城めぐりの拠点となっている。また、緑豊かな森とぶどう畑が広がり、「フランスの庭」と称えられるロワール川が流れていて、気候は良く10月なのに毎日ぽかぽか春の陽気、人々も皆親切で町もパリとは比べ物にならないほど清潔だった。その上物価も安く、食べ物もおいしくて、生活費はパリの半分以下でアメリカでいえば80セントもあればビーフステーキにフリッツ(フランス版フレンチフライ)とパン、それにビール一本又はワイン一本を飲めてしまう。(大学食堂でならそれより安くなんと50~60セントほどだった)
汽車がツール駅に着くと取りあえず駅のロッカーに旅行鞄を預けて、福本さんから貰っていた学校のパンフレッドを頼りに学校を訪ねてみることにした。私が入学することになるポアティエ大学の外国人向けフランス語コースは大学のキャンパスから0.5kmほど離れた古いお城のような建物で開講されていて、そのままフランス語で入学手続きをすることになった。事務の女性から中級の中のクラスに10月の新学期から入ってもいいと言われ、自分のフランス語を認めてもらえたようで安堵した。

8. 下宿探し
入学手続きが終了すると、次は下宿探し。学校から紹介された下宿の中にお城があり、まずはバスで、その城に向かうことにした。バスはかなり混んでいて前方が全く見えない状態だった。何という停留所で降りればいいのか分からず困っていると私の困惑した様子を察したのか横に立っていた女学生が私の手にしていたメモを覗き見て「三つ先の停留所で降りるといいわ」と教えてくれた。滞在初日から可愛い女の子に親切にされツールが好きになった。住所にあった家はあまり大きくはないが確かに小さな古城だった。部屋を見せてもらうと小さな窓から田園風景が見渡せたが何かぴったり来ない。部屋の雰囲気がフランス映画でよく見た牢獄のような感じなのだ。学校までバスで通うにも片道30分近くかかるしバス代もかかる。買い物に出るにも不便だ。車を持っていたら違う結論を出したかもしれないが私はお城に住む夢を捨てることにした。町に戻りレストランでサンドイッチを食べて一休みし、二番目の下宿へと向うことにした。今度の家はツール駅から学校方向とは逆に2・3分歩いたところにあった。 細い通りに似たような家が並んでいる中の一軒だった。表札には「Sarah」と出ている。ドアをたたくと背の高い細身の女性が顔を出した。頭はぼさぼさの白髪で銀プチメガネの奥で目が輝いていた。年のころ60歳代と見受けられる。学校からの紹介状を見せると待ち構えていたかのように笑顔で私を家の中へ導きいれた。「ここがあなたの部屋よ」と案内されたのは階段を上った中二階の部屋だった。ベッド脇の窓は表の通りに面していて雰囲気は悪くない。ご主人もフランス映画に出てくるような小太りの優しそうな人だ。ここなら学校まで歩いても10分そこそこだ。下宿先決定だ。私はここサラー(Sarah)さん宅に約3ヶ月お世話になることになる。

9.  新入生歓迎式典(ムッシュー大西との出会い
入学手続きを済ませた翌週には新入生歓迎式典に招待された。「Hotel de ville」で執り行われるとのことだった。フランス語を勉強していた私は「Hotel de ville」を単純に訳して「ああ、町のホテルだ」と思い込んでしまった。villeは村や町を表すので町や村を代表する一流ホテルに違いないと。ツールの駅からほど遠くないところにある大きな建物だった。メインストリートから幅の広い大理石の階段を上って建物に入って行く途中で日焼けした顔の小柄な男が親しげに近づいて来た。「日本の方ですか?」と話しかけてきたのだ。そうですと答えると「僕はベトナム人で大西と言います。」と自己紹介をした。ベトナムから来た留学生でポアティエ大学に在籍しているとのこと。母親はベトナム人で父親が大西と言う日本人だという。その父親の日本人は大事業家であるが会ったことがないと言うのだ。訳ありそうなのであまり深い話は聞かなかったがムッシュー大西はどうも私生児のようだ。日本語はほとんど話せずちょっと癖のあるフランス語で早口に喋るが言っていることは何とか分かった。このムッシュー大西とツール滞在中毎日のように付き合っていいろいろなことを教えて貰うことになる。さて、新入生歓迎式典の方は我々が建物の中に入るとそこは広いロビーとなっていて既に大勢の学生が集まっていた。ポアティエ大学関係の生徒達が招待されていたようだ。一人一人にシャンパンの注がれたグラスが渡された。ロビーは厳かな雰囲気だったがホテルの感じはしない。間もなく市長の歓迎挨拶が始まった。ざわめいていたので話はよく聞き取れなかったが勉学に励んでツール生活を楽しんでくださいとでも言ったのだろう。ここでやっとフランス語で「Hotel de ville」はホテルではなく「市役所」を意味することに気が付いたのだった。

10. フランス語学習

サラ夫妻は私のフランス語学習にとても協力的で、リビングで毎晩酒を酌み交わしながら私のフランス語の間違いを直し、熱心に練習に付き合ってくれた。学校は月~土毎日午前4時間、午後2時間半のintensiveコースで3ヶ月でdiplomeが取れる可能性があるという、少々きついものだったが、サラ夫妻の協力のお蔭で自分のペースがつかめてきたし、何よりパリで働くよりはツールでフランス語を勉強するほうが遥かに有意義だと感じられたのだった。
教材は東京の日仏学院で使われていた外国人向けフランス語教材と副読本としてサン・テグジュベリの「星の王子様」やフランスコント集、そして最後はまたサン・テクジュ
ベリの「夜間飛行」が使われていた。授業は教材の解説が一通り終わるとディクテーションが行われ生徒はそれを聞きながら紙に書いて教師に提出し、翌日スペルミスや文法的ミスの箇所が赤ペンで修正されて戻ってくるというものだった。授業ではいろいろな話題が出てとても楽しかったが中でもサービスに対するチップの有無に関しての議論は文化の違いを思い知らされるものであった。授業中「pourboire(チップ)」の話が出た時「日本ではチップの風習がない」と発言するとクラス全員が理解できなかったのだ。今ではフランスでもあまりチップを出さないでよいと聞くが1965年当時はどこもかしこもチップだらけで慣れるのに苦労したものだ。公園でボートに乗ってもチップを要求されるし、映画館では座席案内嬢に気に入らない席に案内されてもチップを渡さなければならない、トイレでも番人がいればチップを要求される始末だった。レストランのウエイター達はレストランの場所を借りてチップをもらうことを生活の糧としていると説明された。こんな状況だから日本では文化として、サービスとはおもてなしの心の現れであって、対価としてチップを要求しないのだと説明しても他国の留達学生はチップのない社会を知らない者ばかりでチップのない国があることを納得してもらえなかった。

11. 学生証の取得
入学して間もなく、大学食堂でお昼を食べているとムッシュー大西が食堂で安く上げるためには学生証を持ったほうがいいと教えてくれた。そして学生証にはここポアティエ大学の正規学生証とフランスの他の大学に在籍している学生に発行されるトランジェント学生証があり、ポアティエ大の正規学生証のほうがより割引があると教えてくれた。それで正規学生証をもらうためにワシントン大学での履修表を持ち、工学部の教授を訪ねてこちらの大学で学びたいと談判をしに行った。しげしげとワシントン大学での履修科目をチェックしていた教授はおもむろに顔を上げここのキャンパスには君の取れる科目はない、君はオーバーコリファイだという。ここの授業は君がアメリカで既に学んだものばかりでポアティエにある本校に行かないと君のレベルに見合った授業は取れないということだった。専門の物理を更に学習するためわざわざポアティエに移り住む気は起きなかった。正規の学生証をもらえなくても通っていたフランス語学院がポアティエ大学の関係校であったためトランジェントの学生証がもらえることがわかったのでそれで満足だった。しかも嬉しいことにワシントン大学と違ってツールでは大学の授業は出席を取らないので潜りでムッシュー大西が取っていた数学のクラスを聴講することができ大学生気分も味わえたのだった。

12.ヴェロモト(velomoteur)
ムッシュー大西はヴェロモトを愛用していた。ヴェロモトと言うのはフランス語でスクーターの事だ。タッタッタと可愛いエンジン音を立てて走るやつでムッシュー大西が近づいてくるとその音ですぐにわかる。私が自動車を買うまでは彼は私をヴェロモトの後部座席に乗せていろいろなところに連れて行ってくれた。安く飯にありつける大学食堂や市営図書館、そして卓球場などだ。大学食堂では毎日安くて栄養バランスの取れた食事が用意されていたので独身者の私には大助かりだった。又、市営図書館はロワール川の畔にある立派な建物でムッシュー大西の紹介ですぐに会員証を作って貰え毎日のように通った。勉強はほとんどこの落ち着いた雰囲気の図書館でしたのだ。フランス語に翻訳された川端康成や谷崎純一郎等の日本文学書もたくさん置いてあった。日本語では読んでいなかった川端康成の「雪国」をフランス語で読んだのもこの図書館だった。勉強に飽きるとムッシュー大西が卓球をしに行こうと誘ってくる。卓球場はたいてい空いていていつも待たずに遊べた。私はたいして上手くはないのだがいいボールを打ち返すとムッシュー大西は必ず「ビアンジュエ」と言って誉めてくれる。ビアンジュエとはフランス語で「上手、上手」と言う意味だ。このようにムッシュー大西のお蔭で私はツールの生活にすぐになじむことができた。

13. VWを購入
ツールの町を流れているロワール川の周りにはアンボワーズ城、シャンボール城、シノンソー城、アゼ・ル・リドー城等々是非訪れてみたい有名な古城が40以上も点在している。自動車を持っていれば学校の授業がない日には見て回れる。それにヨーロッパ滞在中車がなくては行動範囲が極端に狭まってしまう。そう思うと早く車を買うべきと考えた。サラー夫妻にどんな車を買ったらいいか相談をすることにした。フランスで買うのだから当然ルノーとかシトロエンと言ったフランスメーカーのものを推薦されるだろうと思っていたのだが意外にもサラーさんが推薦したのはドイツ車のVW(ビートル)だった。ビートルはヒットラーが優秀な自動車設計技術者ポルシェに作らせたフォルクスワーゲン社の大衆車で、空冷式リアーエンジンのビートル(カブトムシ)の格好をした丈夫で長持ちすると評判の車だが誇り高いフランス人が自国車を差し置いて購入を薦めたのには驚いた。私は、サラーさんの勧めるVWに決め、学校帰りに中古自動車販売店に立ち寄りおよそ800ドルで黒のVW(ビートル)車を購入した。いわゆるカブリオレというもので、屋根の前半半分が布地で出来ていてスライド式に開くタイプだった。ツールの町に来てからちょうど2ヶ月が経った頃のことで、こののちヨーロッパを離れるまでの6か月で約2万キロを走ることになるとは想像もしていなかった。

14.ブローチを届けに500kmの旅
車を購入したのでシアトルの先輩に頼まれていた用件をこなすことにした。シアトルでM先輩の家族と親しくしていたフランスからの留学生イボンヌが帰国してフランス北部のナンシーという町に住んでいた。フランスに行ったらの彼女に届けてほしいと先輩から瑪瑙の手作りブローチを預かってきていたのだ。
地図で調べるとツールからナンシーまでは500kmぐらいだが高速道路も出来ていなかった時代、日帰りでは無理そうなため、出発は12月の連休にした。当時のフランスの国道は大体が3レーンから出来ていて両脇のレーンはそれぞれ向かい合った方向へ車が走行し真ん中のレーンはどちら向きの方向に走ってもよいようになっていたので対向車がないところでは真ん中のレーンでスピードを上げて飛ばすことができた。私は自動車で旅をする時には好きなところで宿を探すため宿は決めずにでかける。ナンシーに向かった時も夕方まで走り続けたところで割と綺麗な宿屋を見つけて1泊することになった。食事はまあまあだったと記憶しているが、夜中蚤の襲来を受けたのは全く予想外だった。翌日散々な思いで寝不足のままハンドルを握っていると、道端でヒッチハイクをしている若い女の子を発見。街道筋ではよくヒックハイカーに遭遇するが、先を急ぐので大抵は無視。ところが今回は若い可愛らしい女の子だったため、車を停めて載せてあげることにした。彼女の行き先がナンシーだったのも好都合で、良き話し相手が出来てそこからナンシーまでは大変楽しいドライブとなった。さて、ナンシーの町の入り口で彼女を降しイボンヌの家につくと、すぐにイボンヌが現れた。初めて会うイボンヌは中肉中背で丸顔の女性だった。シアトルの先輩から託されたブローチを渡すとお礼がしたいからと近くのレストランへ案内され、好き嫌いはないかと訊かれた。なんでも平気だと言うと出てきたのはなんと山盛りのゴルゴンゾラ(青かびのチーズ)料理だった。ゴルゴンゾラを見るのも食べるのも初めてで躊躇したけれども、何でも大丈夫といった手前食べないわけにはいかず飲み込むようにしてなんとか平らげた。今では大好物となっているが当時は青かびが気になった上、口に入れた途端舌にしみるような刺激を感じ美味しいとは思えず苦い思い出だけが残っている。

15. 引っ越し
秋も終わりに近づいた頃、リッコからワシントン大学での研究課題を頑張って年末までに終わらせて1月にはフランスに来るという手紙が届いた。サラー家には二人は住めないので少し大きめの家に移ることにした。タイミングはサラご夫妻が次の下宿人を探しやすいように語学学校の学期の切れ目となる12月中旬ということになった。12月に入ると早速学校帰りに街中の不動産屋に寄っては候補となる物件を探した。最初に見に行った家は町の中心地にあって買い物には便利そうだったがちょっと狭く敬遠することにした。車を買った後だったので少し中心地から離れてももう少し広い住処がほしかったのだ。
幸運なことに2軒目に見た家が気に入りすぐに契約した。その家は鉄道の線路際だったが袋小路の奥にある家で広さも十分なうえ、大家のおばさんがとても優しかったのが決め手となった。一階には屋根が半分着いたガレージがあり、外階段で二階に上がるとまずトイレがあった。なんとそのトイレは10畳ほどもある部屋の真ん中に便器が設置されていた。落ち着かないが狭いよりはいいと自分を納得させた。このトイレの先が屋根のない屋上というかベランダというか広い空間でその先に住まいの入り口のドアがあった。つまり簡単に言えばトイレと住まいは離れていたのである。
ドアを開けるとまずキッチンがありその先には簡易シャワーボックスがあった。サラー家にいた時は家のシャワーが使えなかったので、たとえ公衆電話ボックス程の移動式シャワーでも好きな時間にシャワーを浴びられると思うと夢のようだった。そしてそのシャワーボックスの先には広い寝室があった。これならリッコが来ても十分暮らすことができそうだ。すると欲が出てくるものでテレビが欲しくなり、街の電気屋でテレビをレンタルすることにした。テレビを入れてからはフランス語の勉強にと面白そうな番組をチェックし、フランス語の習得に励むことができた。この新居で一つだけ問題だったのはすぐ脇を通っている貨物列車専用線の騒音だった。夜寝ていると初めゴトゴトと遠くのほうで聞こえる音が、やがて大きくなりしまいにはゴーゴーと騒音となり家ごとガタガタ揺れてしまうのだ。今でも線路から伝わってくる列車の音を聞くと郷愁の思いにふけるのはそのためだろう。

16. 蚤に悩まされたフランス生活
日本にいた時でさえ蚤など遠い昔の思い出になっていたので、フランスで再び蚤の被害に遭ったのは予想外だった。高級ホテルではそうでなかったのだろうが、私のような貧乏学生が泊まる宿には必ずと言っていいほど蚤がいて熟睡などできなかったし、映画館のシートにも蚤がいて、ゆっくり映画鑑賞などできなかった。中でも一番ひどかったのが、ツールでリッコと一緒に住むために借りた件の借家だった。移り住んで暫くしたある晩シーツ上で攻め込んでくる蚤を退治し始めたところ、1時間ほどで25匹にもなった。リッコが来るまでに何とかしなければと思い翌日25匹の死骸を紙に包んで蚤退治の殺虫剤を送ってくれと手紙と共に東京の母に送った。 2週間ほどして届いた母の手紙には薬局に行ってみたが日本ではもう蚤退治の殺虫剤など売っていませんでしたと書いてあった。日本ではもう普通の場所には蚤などいなくなっていたのだ。仕方なく、借家の室内のどこから湧くように蚤が現れるのかよく調べてみるとベッドの下に敷いてあったカーペットから出てくることが分かった。早速そのカーペットを窓から外に突き出して棒きれで叩くと無数の蚤が空中に飛び上がった。完全に蚤をたたき出し一日太陽の陽に当てて日干しにした。それからは何とか蚤に悩まされずに寝られるようになったのだが文明国フランスでこんな目に合うとは思ってもいなかった。 最もパリには蚤の市(marche aux puces)と呼ばれる有名なガラクタ市があるぐらいだから蚤もフランス文化の一翼を担っているのかもしれない。

17. 1965年のクリスマスと大晦日
クリスマスにムッシュー大西から高校生のパーティーに誘われた。ムッシュー大西のクラスメイトのイケメンカンボジア留学生のお供らしかった。フランスの高校生のパーティーなどそうそう潜入できるものではないから喜んでついていくことにした。私たちが着いた時には既に狭い室内は若者たちでごった返していて皆ソフトドリンクを飲みながら、音楽が鳴り響く中で身を寄せ合ってステップを踏んだり、会話を楽しんでいる様子だった。可愛い女の子も沢山いて我々東洋の留学生を歓迎してくれたので私もダンスのステップはかなり怪しいながらも一緒に踊ってくれる女の子とおしゃべりをして楽しい思いをした。その子はとても優しく、パーティーが終わった後、私の下宿への帰り道である長い陸橋まで道案内してくれた。そして別れ際に、このような陸橋をフランス語でパスレーユ(passerelle)と言うのよと教えてくれた。年下でありながら、自分より幾分大人びた高校生の彼女から教わった「パスレーユ」という言葉の響きは今でも心に残っている。
そしてその年の大晦日、またムッシュー大西に誘われ、イケメンカンボジア人の家にお邪魔した。彼らはまるで兄弟のように仲が良く両国からの留学生を交えてしばしばパーティーをしていたが、その日もたくさんの仲間たちが集まっていた。珍しいベトナム料理、カンボジア料理を堪能し、珍しいお酒をふんだんに飲んで楽しい大晦日だった、と言いたいところだが、残念ながら記憶がすっかり飛んでしまっている。翌朝気がついた時には自分のベットの中だった。外を見ると私のVWは車庫に入っていた。パーティーには自分の車で行ったのだ。自分で運転して帰って来たのに違いない。よく事故を起こさず無事に戻ったものだと今思い出しても身の毛がよだつ大晦日だった。

18. リッコの来仏
1966年1月13日いよいよリッコがパリに到着する日が来た。私は午後3時の到着に合わせ早朝にツールを出発し、オルリー空港に向かった。 ところが途中から雪が降り出しチェインを付けていない車では怖くてスピードが出せない。やっとの思いでオルリー空港に着いたのは午後3時だった。空港内に入るとリッコの乗って来た飛行機は既に到着していて入国手続きの最中だった。なんとか間に合ったと慣れない空港内をうろうろしていると突然誰かに肩を叩かれた。振り向くとそこにはリッコが立っていた。危なっかしかったが無事再会を果たして早速ツールの家に向かうことにした。しかし雪はどんどん激しくなりとてもツールまでは戻れそうになかった。ツルツル滑りながらもなんとか運転してパリ市内に入り pont neuf(フランス語で新橋の意味)まで来るともう先には進めなくなってしまった。 已むおえず橋の袂にある小さなホテルに泊まることにした。このpont neufは、セーヌ川に架かる橋で、シテ島の先端を横切る短い橋でパリに現存する最古の橋である。泊まった宿は上級ホテルではなかったが、とても気持ちの良い応対で新婚旅行ででも泊まりたいような穴場のホテルといった感じだった。朝はクルワッサンとホットチョコレートが部屋に運ばれて来るのだが、これがまた絶品だった。翌朝橋の横に止めてあったわがVW車はすっぽり雪に埋もれてしまっていたため、結局雪が融けるまで3日間もこのホテルに滞在することになった。昼間はホテル脇のメトロの駅から地下鉄に乗り先輩気取りでパリの見どころを案内し、小さな中華料理店でチャーハンをご馳走したり、メトロの入り口でマロン(焼き栗)売りから焼き栗を買い熱い熱いと言いながらホクホクの甘い栗を2人して頬張ったのは楽しい思い出である。雪で閉じ込められたお蔭でいろいろ経験できたのだ。3日目にやっと車を動かすことができるようになりノロノロ運転しながらツールに戻った。

19. サラー家の思いで(死人のベッドに3ヶ月)
サラー家では、ただの下宿人だったにもかかわらず家族同様に扱ってくれたのでフランス人家庭を垣間見ることが出来た。午後3時頃になると近所の奥様達が集まって来るのが日常だった。日本で言えば主婦たちの井戸端会議といった感じだが、違うのはお茶ではなくワインを飲んでいることだった。話の内容はたわいないよもやま話のようだったが早口でしゃべりまくるので殆ど理解できない。親族が集まるような日には私も呼んでもらえることがあった。たいていフランスの家庭料理を奥さんが作っていたが、これがまた一流のレストランにも引けをとらないような美味なものだった。そしてそれにあわせて地下室のワインセラーの中から選ばれたワインが振る舞われた。ツールの町があるロワール地方はフランスの有名なワイン産地のひとつで、この日サラーさんが選んだのはスパークリングワインだった。ただでさえおいしいワインと家庭料理だと思うが、貧乏学生の自分には永遠に心に残る味であったのは間違いない。

サラ家には下宿人と大家という関係以上のもてなしを受けたので、新しい住まいに移った後、暫くしてリッコと二人でサラ夫妻をすき焼きでもてなすことを思いついた。安い肉を圧力鍋で柔らかくしたり、少し高いワインを奮発して準備したりした。サラ夫妻は喜んで食べてくれたがサラ家でご馳走になった料理と比べるとそれらはなんともお粗末だったことだろう。そんなこちらの心配をよそに、サラ夫妻は機嫌よくとても打ち解けた雰囲気になった。 ところが話が弾んだところでとんでもない裏話を聞かされることとなった。それは私がサラ家に世話になる前に下宿していたモロッコの留学生が私の3ヶ月使っていたベッドで変死していたという話だった。何となく寝苦しいベッドだなとは感じていたがそれがまさか死人のベッドだったとは想像だにもしていなかった。何も知らない私は人が変死したベットに3か月もの間寝ていたのだ。

20. ツールで気が付いたこと
食べ物はおいしくて安いというのがツールの印象だ。学校の行き帰りには街のスタンドでポムフリッツ(ポテトフライのこと)をおつまみにしてプレッシオン(生ビール)を飲み、普段は夕食を大学の学生食堂で食べていたのだが、これも申し訳ないほど安上がりだった。新鮮な野菜サラダとスープに日替わりのメインディッシュと焼きたてのフランスパン。大学の学生食堂が使えない日は何ヶ所かあったself-serviceと看板を掲げているキャフテリアに入り好きな食べ物を選んで支払いをする。ここはチップがいらないので気楽に食事ができるのだが、あまり旨くはない。ステーキもよく食べたが藁草履のように薄くそのうえとても固い代物だった。ワインも安くフラスコ1ビンが日本円で50円ほどで飲めたが味はよくない。アルコールのおかげでそれなりにいい気分にはなれるものの、飲んだ後ワインかすで口の中がざらざらになる代物だった。自宅で食事を作るときは美味しいフランスパンとカマンベール、そして安かったムール貝を蒸して食べることが多かった。ツールの町で見たもので驚いたのは、フランスパンの扱い方だった。朝、焼き立てのパンをパン屋が配達するのだが、棒状のフランスパンはよく家の外のドア脇に裸のまま立てかけられていた。配達される際も、パンはトラックの荷台に裸のまま荷台の床にごろごろ転がされている。日本人では外の床等に転がっているものを平気で口にすることはないので、ちょっとしたカルチャーショックを受けた。
また食べ物から話はそれるが、非常に驚いたのは、フランス人の駐車の仕方である。フランスの人はバンパーを前後の車にぶつけながら狭い隙間に車をおしこめるのだ。日本で同じことをしたら、警察を呼ぶ事態になるところだ。そして、駐車した車から降りるときには各自が持っている紙製の駐車時刻表示盤なるものをダッシュボードの外から見える場所に置いて出る。この硬い紙製の表示板には回転式時計がついていて、運転手は駐車のスタート時間を自分で針を合わせておくのだ。駐車見回り人が外からそれを見て駐車し始めた時間がわかり駐車制限時間を過ぎているかどうかが判断できる。路上に駐車用メーターを設置する必要もなく路上ごとの駐車制限時間を示す表示板だけを設置すれば済むので効率的かつ安上がりな仕組みだと思うが、私の知る限り他の国では見たことがない。現代のフランスでもいまだにそれが使われているのだろうか?もし、またフランスに行く機会があれば見てみたいと思う。
もう一つツールで感心したのは日本でも、特に地方では開かれているが、週一度出現する朝市だった。公園のちょっとした空き地に野菜や、魚やその他さまざまなお店が出現して大勢の人々で賑わうのだが、昼を過ぎると一瞬のうちに綺麗に取り崩され綺麗にそうじされ何事もなかったかのように元の公園の姿に戻るのだ。

21. リッコのフランス語
リッコは6月から日本の大学の研究室に戻ることになっていたがフランスにいる間にフランス語を学びたいと言い出した。私がシアトルを出た後大学のフランス語初級コースを受講して勉強してきたという。結局リッコはポアティエ大学付属のフランス語学院の初級のクラスに入学し私は中級の一番上のクラスへと進んで新学期を迎えた。一ヶ月ほどしたある日、私が帰宅すると先に戻っていたリッコが「ヤッタ!」と興奮していた。一人で買い物に行ってフランスパンとチーズにムル貝を買ってきたのだと言う。確かに英語の通じない店ばっかりだったのでフランス語を使っても思ったものを買えたのがよほどうれしかったのだろう。毎晩テレビでニュースやドラマを一生懸命見て勉強してきたのが役に立ったようだ。可愛い少女バレリーナのドラマが分かりやすくて我々のお好みの番組だったが、ニュースでは盛んにモロッコ王ハッサン2世の体制に反対していたモロッコの社会主義者メヒディ・ベンバルカが訪問先のパリで行方不明となったいわゆるベンバルカ失踪事件や.フランス初の人工衛星ディアマンの打ち上げ成功、そして1965年12月左派統一候補として立候補したミッテラン氏が現職大統領のド・ゴールと対決した大統領選挙などが大変な話題となって放映されていた。リッコもテレビに釘付けとなって勉強したかいあってか3月に入って間もなくリッコの作文がクラスで優秀賞をとった。私を題材にした作文だったがいつの間にそんなに上達したのか1頁一杯に書かれた仏文は赤ペンで直されている箇所もほとんどなくユーモアたっぷりで私を唸らせる名文だった。

22. スペイン旅行の準備
私とリッコは週末ムッシュー大西を誘ってロワール河周辺の古城を訪ね歩く以外は勉強に専念して5月にはそれぞれのコースで無事ディプロマ(修業証書)を獲得できた。そこでツールを離れる前に新婚旅行のつもりで、ジブラルタルまでの2週間のスペインドライブ旅行を計画した。後にそれが昭和の初頭に白洲次郎が親友の7世ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビングとサザンプトンからヨーロッパ大陸12日間の旅をしたルートと細部にわたって一致していたのを知った。昭和初期には道路も整備されていなかったと思われるが1965年当時も道こそあったものの、高速道路はほとんどなく、私たちは前もって周到な準備をする必要があった。何しろ全行程約4,000kmの中での宿泊地の選定とそれぞれの地域での見どころを調べ、ガソリンの給油地も決めていた。ただしいつものように宿は予約せず、各地で安宿を見つけることにした。そのため基本的なスペイン語習得のために日本から取り寄せた講談社現代新書の「スペイン語のすすめ」で勉強して基本的会話はマスターしたのだが、文法がフランス語と似ている上、発音は日本語読みでもなんとかなりそうだと思ったからできたのだろう。

23. スペイン旅行(1)
初日はツールからボルドーを通って国境を越えスペインのサン・セバスチャンまで550kmほどの長旅となった。サン・セバスチャンの町に入るとフランスとは雰囲気が全く異なっていた。落ち着いた並木街に黒塗りの客馬車が行き交う様子は、まるで中世の町だった。宿は2軒目に入ったところで交渉の末安くしてもらうことができたのですぐに決まった。
スペイン語が通じたので何とかなりそうだと幸先の良いスタートを切ったのである。
二日目はブルゴスを通ってマドリッドまで500kmのドライブだった。ブルゴスではサンタ・マリーア大聖堂(ブルゴス大聖堂)を見てその大きさに感激した。もっとゆっくり観光したい気持ちもあったが先が長いので、長居せずにそのままマドリッドに向かうことにした。途中の平野地帯ではところどころに大きな真黒な闘牛(torosトロス)の看板が立っていて、やはり闘牛の国だと思わせる。マドリッドではプラド美術館近くのホテルにいい宿を見つけ、やはり交渉の結果、安く泊まることが出来た。夕方交渉すると大体安く泊まることが出来るのは今も昔も変わらないのである。マドリッドでは闘牛を見ようと思っていたのだが、暫く闘牛の予定がないことがわかり早々と次の目的地に行くことにした。プラド美術館にも入らなかったのは今考えても勿体なかったかもしれない。ただ、マドリッドでは、一つ面白いというか苦い思い出がある。
美術館の横の公園で公衆トイレに入った私たちは、そこが有料という事も知らず、用を足すとそのまま歩き出したのだが、大声で叫びながら誰かが追いかけてきたのだ。ひょっとして有料だったかと思ったものの、あいにく小銭を持ち合わせていなかった私たちは逃げるが勝ちとばかり走りだした。しばらくすると、トイレの番人のおばさんは追いかけるのをあきらめたようで引き返して行って一件落着。ほっとしたの半分、後ろめたさ半分の気持ちが残ったマドリッドでの出来事である。
マドリッドからは一時間ほどドライブで古都トレドに到着した。有名な画家エル・グレコの家を見た後、刀剣類、陶器、鋳鉄工芸、木工品の土産店や特産品店を見て回りその晩はトレドで一泊することにした。翌日400km車を走らせコルドバへ。 目の前にそびえたつ立派な城壁にまず圧倒される。城壁内の古い街並みに入り車を止めて細い路地を歩きだすといつの間にか十人ほどの子供たちがぞろぞろと我々の後に続き口々にチーノ、チーノと言っている。チーノとは支那人のことだと分かったので急いで持参していた日本の小旗(白いハンカチの真ん中にリッコの口紅で丸を描いたお手製のもの)を出して振り上げると子供たちは笑顔で近寄って来た。そして今度は自分たちの目を指さして、「メ」、鼻を指して「ハナ」そして飛び上がりながら靴を指して「クツ」と言って親しみの目を向けてきたのだ。日本人が住んでいるのか聞いてみると以前サイトウという日本人がいて、日本の言葉をいろいろ教えたらしいことが分かった。遠い異国で現地の子供たちに親しまれていたサイトウさんとはどんな方だったのだろうか。そんなことを考えながら、コルドバからセヴィリアを通過して一気にジブラルタル海峡の町アルへシラスまでドライブした。途中立ち寄ったセヴィリアでは街の中をで美しい孔雀が数羽闊歩している姿が感動的だった。その日はアルヘシラスで泊まり翌日車を置いてフェリーに乗りジブラルタル海峡を渡り対岸のモロッコの町タンジェに出かけた。天気の良い日で2時間程の船旅は快適そのもの。タンジェの街はスペインの街とは雰囲気が違っていて白装束の人が多く、路上では蛇使いに遭遇したりするしなんとなく落ち着かない。喫茶店に入って一服したらすぐにでもスペインサイドに戻りたいと思った。パリでモロッコ人の悪い噂を聞いていたのでそのように感じたのかもしれない。長居は無用とばかり直ぐ戻りのフェリーに乗ってスペインサイドに戻ることにした。

24.スペイン旅行(2)
アルヘシラスに戻るとすぐにコスタ・デル・ソル(太陽海岸)に向かった。コスタ・デル・ソルの町マラガでは海岸脇の小奇麗なホテルに宿をとり、水着に着かえ海水浴を楽しんだ。宿に戻ると、主人が翌日マラガの闘牛場で闘牛があると教えてくれた。マラガはピカソの出生地でピカソ美術館を見学する予定だったが、ここでのチャンスを逃したら闘牛はもう見られないと思い闘牛見物を優先することにした。
スペインと言えば「フラメンコ」と「闘牛」。フラメンコは次に訪れるグラナダで見ることが出来るとして、ここでは絶対闘牛を観たいという思いで闘牛場に行くと既に入場口が閉じられていた。覚えたてのスペイン語で切符売り場の人間に「日本から来たのだからなんとかしてくれ」と直接談判をしてやっと入場出来た。闘牛が始まるとファンファーレと共に、マタドール、ピカドール、バンデリーリョの順に入場してくる。彼らが退場すると誰もいなくなったアレーナ(闘技場)に牛が登場し助手たちがカポーテ(表がピンク、裏が黄色の襟付きマント)を振り、牛を誘う。次にピカドール(槍方)が馬に乗って登場。ピカドールに槍を刺された牛は血だらけになり馬に突進し、馬を横転させ、なお馬を突き上げようとする姿は、牛、馬ともに痛々しい姿だった。牛がかなり弱ったところでマタドール(闘牛士)が登場する。約15分後に牛を仕留めるまで、ムレータ(赤色の杖布)と剣を使って演技をし牛の肩甲骨の間わずか5㎝の急所に剣を突き刺すのだ。血だらけとなり、息も相当あがっていて闘争心を失った牛に、止めの刃を立てるのは何とも残忍な行為に見える。最後に息絶えた闘牛は3頭の馬に引きずられて闘牛場から姿を消していった。ここで素晴らしかったマタドールは観客から賞賛を浴びるのだ。闘牛は歴史あるスペインの文化と言えるがやはり最後に死体となった闘牛が馬に引きずられて退場してゆく姿は残酷な感じがする。最近では動物愛護団体によって闘牛が非難されることもあるそうだ。

25. スペイン旅行(3)
グラナダはジプシーのフラメンコやギターの名曲で有名なアルハンブラ宮殿が有名でとても楽しみにしていた。大きなホテルにとても安く泊まることができたのだがその理由が夜になってわかることになる。修学旅行の中学生たちが大勢泊まっていたのだ。一晩中お祭り騒ぎでゆっくり身体を休めることはできなかったが修学旅行の生徒たちの騒ぎはどこの国でも同じだなとあきらめた。寝不足のまま、翌朝は真っ先にアルハンブラ宮殿を訪れた。スペインに入ってからいろいろな建造物を見たもののやはり一番感銘を受けたのはこのアルハンブラ宮殿だった。中庭の噴水を始め回廊から眺める景色はとても素晴らしく、中、高校時代に英語で読んだ「リップ・ヴァン・ウインクル」や「アルハンブラ物語」の著者ワシントン・アーヴィングの碑を見つけて懐かしい思いもしたものだ。夜にはホテルのフロントで教えてもらったジブシーの洞窟にフラメンコを見に出かけた。年配の踊り子が多かったが若い綺麗な踊り子が素敵なフラメンコを披露してくれて大満足だった。グラナダを後にしてからの数日はアリカンテ、ヴァレンシア、タラゴナ、バルセロナへと進んだ。スペインはユネスコ世界文化遺産に指定されている地域が多く我々が通過した殆どの場所が歴史的に由緒ある建造物をたくさん持っていたがあまりにもその数が多く、また素人から見ると同じように見えてかえって記憶に残らなくなってしまったのが惜しまれる。バルセロナはさすがマドリッドに次ぐスペイン第二の大都市だがただそれだけの記憶しか残っていないのはなぜだろうか。バルセロナまでは海岸に近いルートを走ってきたがここからは北上して山岳地帯に向かうことになる。途中で温泉施設を見つけたので立ち寄ってみたが、温泉と言っても湯船はなくただ温泉のシャワーだけということが分かりがっかりした。それでも折角なので試してみようとシャワー室に入ったのだがあまり暑くないお湯が天井に張っているパイプから噴き出してくるだけの簡単なシャワー室だった。スペインには浴槽のある温泉場がある筈だが我々の事前調査が不十分だったため場所が見つけらなかったのは残念だった。温泉地を抜けるとアンドラ公国に入る。この国はガソリンが無税で安いと聞いていたのでさっそく給油することした。ピレネー山中にあるこの小さなアンドラ公国では驚きの発見があった。お土産店で日本酒「酔心」をみつけたのである。「酔心」は私が好きなお酒だった。パリに日本のレストランもなかった時代にこんな山奥の小さな国にどうして「酔心」が出ているのか不思議だった。当時は未だ日本酒には等級があって1級酒、2級酒とランク付けがあり「酔心」は1級酒しか出していない上等なお酒だった。アンドラ公国が良い日本酒を選んだのは間違いないが、他にも良い日本酒がある中なぜ「酔心」を選んだのかはなぞのままである。アンドラを抜けるとフランス側のピレネー山脈は未だ雪道だった。雪景色を見ながら麓まで下り谷川沿いの小さなホテルに長旅の最後の宿を取った。 そこで夕食に出された鱒のソテー料理は絶品だった。翌日はツルーズを経由してツールまで戻り14日間に亘ったスペイン旅行も無事終了した。

26. パリで泥棒に遭う
1966年5月17日いよいよツールにお別れする日が来た。充実した8ヶ月間のツール生活だった。日本でサラリ-マンとなっていたなら記憶に残ることもないような単調な生活だったろうと思うと実に有意義な時間を過ごせたと思う。リッコが5月25日にドイツのフランクフルト発の飛行機で日本に戻ることになったのでリッコを見送ってからドイツで勉強しようと考えていた。そこでまず高柳君夫妻に別れを告げるためパリに向かった。高柳君は以前お世話になったイタリー広場のマンションからクリニャンクールのマンションに住まいを移していた。クリニャンクールは蚤の市があるところでモロッコからの移民が多く治安の悪い地域だった。高柳君の住居は4階でエレベータもなかったので重い荷物は車に残し、手荷物だけをもってお邪魔したのだがこれが間違いのもとだった。翌日下に降りてみると車の布製の屋根が鋭い刃物で切り裂かれていて車中に置いてあった大きいスーツケースが無くなっていたのだ。貴重品は部屋に持って行っていたので無事だったものの大損失には違いない。一番残念だったのはスペイン旅行で撮った数十枚のカラースライド写真。スペイン旅行は新婚旅行の意味もあったのでこれはお金を払ってでも取り返したいものだった。又、日本への土産として買った高価なフランス人形、そして高柳夫妻に日本では手に入らないからぜひ買っておきなさいと言われて購入した春画本。日本の春画は一流の絵師が描いているから絵画作品としてのレベルが高くフランスでは歌麿や北斎の浮世絵と同じように珍重がられ立派な春画集が出版されていたのだった。当時の日本ではまだ出版など出来ない内容だが購入した本は装幀が実に立派でまさに芸術品の風格を有していたのだ。とにかく泣きたくなる程のショックだった。早速警察に届けたものの「それは取られるほうが悪い」といわんばかりの応対。車の外から見えるところに物を置いておくのは罪(sin)であるとアメリカで教わったことを思い出した。性悪説の社会では犯罪を誘発するような行為は悪い行為なのだ。幸いだったのは車に保険をかけていたためすぐパリで車の修理に出せたことだがパリに数日滞在しなければならない羽目となった。

27. パリの日本大使館に婚姻届を提出
リッコがフランスに来るまでにはお互いの親にはフランスで結婚することになるだろうと知らせてあったので何処でいつ結婚しようかと二人で話し合っていたのだが5月になるまで実行できないままでいた。フランスで正式に結婚するにはパリの日本大使館に婚姻届けを提出しなければならない。ツールにいる間に書類だけは大使館から送ってもらっていたが婚姻届けには立会人の署名が必要だった。ツールでは立会人になってくれる日本人が見つからなかったのでパリにいた高柳君に頼むことにした。自動車の修理でパリに長居することになったのは勿怪の幸いだったのだ。5月20日高柳君に同行してもらい日本大使館に出向いた。木山健、法村律子の署名の横に立会人高柳君の署名をもらい婚姻届を無事提出し晴れて夫婦となった。その日エッフェルターワーに登り二人だけの記念写真を撮った。これが我々の結婚式となったのである。スペイン旅行の写真を全部消失してしまったので木山家に残る新婚の記念となる写真はこの一枚のみとなっている。数日後修理の終わった愛車VWが戻って来た。 旅の遅れを取り戻すべく高柳夫妻に世話になった礼を述べ直ちにパリを後にした。パリからはディジョンを通り一気にシャモニーまでドライブ。霧が深かったのでゴンドラで山に登るのは諦め一度通ってみたかったモンブラントンネルを通ってイタリア側のアオスタ迄行ってみた。カフェに入り一服して又フランスサイドに戻りシャモニでフランス最後の宿を取った。翌日はいよいよドイツに向け出発することになる。


III ドイツ編
1. フランクフルトへの道

フランスのシャモニーからスイスのジュネーブに抜けアルプス山脈を楽しみながらドイツへ向かうことになった。 まずユングフラウ登山鉄道で海抜300mを超えるところまで行ってみたかったのだが我々のスケジュールに合う列車のチケットが買えず諦めるほかなかった。しかしドライブしながら眺めるユングフラウもなかなかのものだった。その後リヒテンシュタイン公国を通過してオーストリアに入りアルプス山脈を一望できる素敵な山小屋に宿泊ることになった。其の翌日も晴天に恵まれアルプスを眺めながらドライブを続けインスブルックに到着し、ここでもまたも山小屋風の小屋に泊まることが出来てチロル地方の音楽とカラフルな民族衣装を着た男女の踊りを満喫することが出来たのは幸運だった。3日目はいよいよドイツに入ることになる。ドイツ国内に入って暫く行くと突然眼前に素晴らしい古城が現れた。ドイツの城といえばこの城だと言われるノイシュヴァンシュタイン城だった。 おとぎの国に出てくるようなとてもスタイリッシュな風貌である。この城の写真は日本に帰国した後でも何度もお目にかかった。 そこからミュンヘンまでは大した距離ではない。 ミュンヘンで泊まることにし夜有名なビアホール、ホッホブロイハウス(Hofbrauhaus)に行ってみた。このビアホールは当時世界一大きいとも言われていて、かつてヒットラーがナチの旗上げをしたということでも有名だった。 中に入ると楽団の音楽ががんがんと響き渡り大ジョッキーを手に大声を出しながら話をする者、歌を歌う者等で大変なにぎやかさである。 丸々と太ったウエイトレスがビールがなみなみと入った大ジョッキーをいとも簡単に何本か一度に大きな腹の上に抱えるようにして運んで来るのだ。 ここではほとんどの客が大ジョッキーのビールを何杯もお代わりして飲んでいる。 不思議なもので水であればそんなに飲めないのがビールだと大ジョッキーで4・5杯は飲めてしまう。 ここでは知らない人もすぐ仲良くなってしまうようで知らない客同士が立ち上がり肩を組んで横並びになり輪を組み身体を左右に振りながら大声で歌うのだ。 我々も輪に加わって大いに歌って楽しんでいた。 我々のテーブルの上にも何本もの飲み干したジョッキーが並んだ頃だった。 私のすぐそばにどこかで見た顔の人がいるのに気が付いた。 面長な赤ら顔、ハリウッドの映画俳優アンソニークイーン(Anthony Quinn)だった。彼は「欲望という名の電車」、「革命児サパタ」、「炎の人ゴッホ」等に出演していたので顔を覚えていた。 後には評判になった映画「アラビアのロレンス」にも出演している。 私が気が付いた時は彼も可なりアルコールが回っていたせいか話しかけると気さくに応じてくれた。 何を話したかは覚えていないが別れ際に外人に上げるために持参していた日本の扇子を渡すと「Thank you」と言って受け取ってくれた。 今考えるとハリウッドのスターがそんなもの貰ったって珍しくもないだろうし邪魔になるだけだろうと思うと気恥ずかしくなるのだが酔っていたから出来たことだった。 翌日帰国するリッコの送別会のつもりで大呑をしてしまった結果である。

2. ギュンターの実家を訪ねる
1966年5月25日、いよいよ日本へ帰るリッコをフランクフルト空港で見送る日となった。飛行機は午後の便で時間が十分あったのでミュンヘンからフランクフルトへ向かう途中でマインツからコブレンツまでのライン下りをすることにした。船のデッキに出てワインを口にしながら心地よいそよ風を受けながらローレライ伝説で有名なローレライ(水面から130mほど突き出た岩山)や河畔の古城を楽しみながらの船旅だった。
夕刻飛行場に着くとリッコが記念にと言ってロンソンのライターを買ってくれた。リッコを見送った後、フランクフルトから土砂降りの中デュッセルドルフに向かった。助手席に助手がいなくなって地図を自分で調べながらの運転はしんどいが慣れれば何とかなるものである。デュッセルドルフは想像以上に美しく、幸運なことに安くて感じのいいホテルを見つけることが出来た。3階建ての小さいホテルだがエレベータ付きで市の中心にもかかわらず静かで窓からは森を眺めることができた。部屋は清潔かつ上品でさまざまな備品が備え付けられているだけでなく、サービスも申し分なかった。 その日はゆっくり休むことにした。翌日ホテルをチェックアウトし、さてこれからどうしようと考えた。ドイツ語を学ぶ目的で一人居残りを決めたのだがハッキリした当てがあったわけではない。どうにかなるさと気楽に構えていただけである。 そうだワシントン大学で親しくしていたドイツからの留学生ギュンター・クルメ(Gunter Krumme)の家を訪ねてみよう。そう思うがいなや車をドルトムントに向かって走らせていた。ドルトムントの町はヂュッセルドルフに近かった。ギュンターの実家はドルトムントの郊外にあった。ギュンターから教えてもらっていた住所を頼りに車を走らせること数分で郊外の住宅街に出た。フランス、ツールの街と同じように道路に面して入り口のドアがある個人住宅が横に繋がっていた。ギュンターの家はその中の一つですぐに見つけることが出来た。ドア脇の呼び鈴を押すと二階の窓が開き恰幅の良い中年女性が顔を出し私に向かって何か叫んだ。よく聞き取れなかったが見知らぬ東洋人を見て怪訝に思ったのだろう。英国のサッチャー元首相のような髪型で大柄に見えたので威圧感があった。私はちょっと怯だが一息入れて「ワシントン大学でギュンターと親しくしていたものです。」と言った。それを聞くと女性の顔が急ににこやかになり間もなく目の前のドアが開き私は中に招き入れられたのだった。

3. クルメ家に世話になる
ギュンターのお母さんに招き入れられ家に入ると中は立派な家具調度品がそろっていた。南側には周りを木々に囲まれた広い芝生の庭がある。「どうぞこの部屋を使ってね」と言われて案内されたのは二階の寝室だった。20畳程もある広い部屋だ。部屋の片方には矩形型をした低い洗面台のような物がある。真ん中には放水栓のようなものが付いていた。生まれて初めて見るビデだった。アメリカでもフランスでも見る機会はなかったのでビデを見るのはこれが初めてだった。今でこそ日本で普及しているウォッシュレットにビデの機能が付いているので驚かないだろうが当時はビデ(bidet)と言う言葉すらあまり日本では知られていなかったのだ。暫く使わせて貰う事となった部屋でビデを見つけた時は何となく気恥ずかしい気がしたものだ。

私がクルメ家に着いたのは未だ昼前だった。あてがわれた二階の部屋で一休みしていると昼飯にするから下に降りていらっしゃいと声がかかった。食卓には豪華なドイツ料理が並んでいた。
いやあこれは大変だな、夕食になってもっとご馳走が出たら食べられるのかなと心配になってきた。ところが夕食になってびっくり。食パン2切れとバター・ジャムとハムが2切れに紅茶だけなのだ。初めは夕食時間が割と早い時間だったのでこれは間食かなと思ったのだ。ところがそれが夕食だった。 後になってドイツでは朝食と夕食を簡単なもので済ませ、そのぶん昼食は時間をかけたっぷりと食べることが多いということを知った。学校や職場に行く時間が早いので、午前10時前後にコーヒーブレイク、俗に「第2の朝食」を摂る習慣があるとも聞く。夜ギュンターの父親が帰宅するとギュンターの友達がはるばる訪ねて来てくれたと言って喜んでくれ、暫く泊まっていきなさいと言ってくれた。

4. ワンダーフォーゲルとクロッケー
ドルトムントはかつての工業地帯として知られるルール地方の代表的な都市だが同時に周りは丘や湖、森林の多いザウアーランドと呼ばれる地域だ。正にワンダーフォーゲルに適していて休日ともなると多くの家族ずれがピクニックに出かける。クルメ家も例にもれず簡単なサンドイッチを持ってよく野山を歩いた。私も誘ってもらい楽しいワンゲルを満喫させてもらった。又、私が世話になっていた期間ギュンターは未だアメリカから戻ってきてはいなかったが弟のハンスと妹のアーベルが学校の休暇中で家に戻ってきていた。皆とても仲のいい家族で芝生の庭に出てはクロッケー(Croquet日本におけるゲートボールの原型である英国発祥の球技)をして遊んだ。私もルールを教わってやってみるとなかなか面白くて夢中になってしまった。そうこうしているうちにギュンターのお母さんがもし本格的にドイツ語を学びたいのならドルトムントから30kmほどのところにあるイザローン(Iserlohn)の町にあるゲーテ学院(Goethe Institut)の新学期が翌週から始まるから行ってみなさいと教えてくれた。ドイツ政府が設立した公的な国際文化交流機関であるゲーテ学院は、外国人にドイツ語教育を推進し、国際的な文化交流・文化協力をする非営利団体である。本部はミュンヘンにあるがドイツ国内には多くの都市に分校があり、その一つがイザローンにあったのだ。ゲーテ学院は世界の数十か国に存在し、日本では東京・大阪・京都にあった。私が希望していたドイツ語学習所がこんなにタイムリーに見つかるとは嬉しい限りだった。こんなわけで私はクルム家をお暇し、イザローンに向かうことになったのだ。

5. イザローンでの生活はじまる
イザローンはドルトムントに比べるとこじんまりとした感じだが室内外プールはあるし美しい森林に囲まれトロリーバスも走っている都会的な町だった。街中で道を尋ねると皆とても親切に道案内をしてくれる。町の中心部に入るとゲーテ学院はすぐ見つかった。ゲーテ学院の建物はツールで通ったフランス語学院の建物程大きくはないが以前は別荘だったらしく美しい庭のある、落ち着いた大きな邸宅だった。 丁度6月からの新学期コース受講者の受付をしているところだった。受講手続きを終えるとその場で下宿先を紹介され、下宿先が決まったら町役場に行って住民登録を済ませてくるよう言われた。紹介された下宿先はヒルトさんと言う家族のお宅でトロリーバスに10分程乗って行ったところにあった。バスを降りると左手に小高い丘があり新興住宅地のように同じような家が沢山並んでいた。ヒルト家は丘の中腹にあった。ゲーテ学院の紹介状を見せると待ってましたと歓迎され直ぐに賃貸契約にサインとなった。その足ですぐ町役場に行き住民登録を済ませゲーテ学院に報告に行った。このヒルト家は以前にも何度か日本人を泊めたことがあり大の親日家で3人の子供達(全部男で4才から9才迄)ともすぐ仲良くなれそうだった。ヒルト夫妻は大のオペラ狂で音楽の話ばかりしてくれその内オペラ鑑賞に連れて行かれそうな雰囲気だった。 ヒルト夫人は私が入居するや否やいろいろのアルバムを見せてくれ私のためにピアノを数曲弾いてくれた。その時出してくれた自家製リキュールのうまさは格別だった。このように親日家の家に下宿先が決まってイザローンでの生活が始まった。

6. ヒルト家での生活

ヒルト家にはもう一人ゲーテ学院の生徒が下宿することになった。香港から来たライ君(多分来君と書くのだろう)だ。ツールで親しかった大西君と同じようにとても人が良いが大西君程忙しい男ではない。反対にヌーボーとした感じで見るからに人の良さそうな大男だ。会った初日から彼は子分みたいに私にくっついて歩いている。(おそらく私が車を持っていたせいだと思うが)彼はもう2年もドイツに暮らしているので話す方は可なり出来るが正式にドイツ語を習ったことがないのでゲーテ学院に通うことにしたそうだ。ヒルト家の2階には部屋が二つありそこが私とライ君にあてがわれていた。ライ君の親族はドルトムントで中華料理店を営んでいたのでライ君は早く確りしたドイツ語を覚える必要があるとのことだった。初めのうちは彼の片言のドイツ語が理解できず苦労が多かった。 話している最中彼は頻繁に「ドー、ドー」と言うのだが何のことか分からない。後になってそれはドイツ語の「Doch,Doch」の事だとわかったのだが、このDochは否定疑問文に対して「いやそんなことないよ」と言うような時に使うもので、簡単にいえば反対意見を述べる合図のようなもの。彼の口癖となっていたので、私は彼に「ドー、ドー君」と言うあだ名をつけた。彼にまつわる話は又後ほど話すことにしてひとまずヒルト家の話に戻ることにしよう。ヒルト家の主人はエンジニアをしていたが、仕事が忙しいためかあまり会うことはなかった。少し小太りな奥さんはおしゃべり好きなオペラ狂だった。昔、母が高い声を張り上げてはオペラの歌曲を歌っていたのを友達に冷やかされて以来オペラが嫌いになっていた私には耐え難かったが、さすがにやめてくれとは言えなかった。そして小学校に通う双子の男の兄弟とはトランプ遊びが好きだったヒルト夫人に誘われページワンとか大富豪のトランプゲームを楽しんだ。ライ君は昼間あまり姿を見せないので一度もヒルト家のトランプ遊びには参加したことがなかった。後になってライ君が時々姿をくらましていた原因が分かったのだがその話は又にしよう。

7. 異なった流儀と習慣の数々
米、仏、独の三国で学生生活を送って気が付いたことがいくつかある。それぞれのお国柄が知れる興味深いものだと思うが、庶民レベルの話ということを予め断わっておく。
まずは床屋事情。アメリカのワシントン大学近辺にある床屋では小さな紙製のエプロンを首に巻くだけで散髪を始める。そして髭剃り時には石鹸水をほんの少量つけて髭を剃ってゆくのだ。日本だと蒸しタオルで髭の周りを蒸してから髭そり用のブラシでシェイビングソープを髭の周りに塗って初めて髭剃りに入るところなのでこれにはびっくりした。しかしフランスではもっとひどい。アメリカとほとんど変わらないサービスなうえ、石鹸など使わず水で顔を濡らし髭を剃る。最初は驚き、もしかして人種差別かとも思ったほどだが、ドイツに行くとさらにひどかった。石鹸はおろか、水もつけずに髭を剃り始めたのだ。たまたま入った床屋がおかしいのではないかと思い、それぞれの国で何か所か試してみたのだから間違いない。なんでも、西洋の方が進んでいると思いがちだか、サービスにおいては何十年も前から日本のほうがよっぽど顧客思いだったのかもしれない。
また、風呂に関していえば、アメリカではたいていどこの家にもバスタブ付の洗面室があり中には洗面室が複数ある家も多かったので日本と比べて随分贅沢だと思ったものだ。それに比べて、フランスではアパートや学生が借りる下宿部屋などには浴室はおろかシャワー室も付いていないのが普通だった。フランス人はあまり風呂に入らないので香水が発達したとよく言われるのがよく分かった。では体を洗いたいときはどうするのか。シャワー室に行くのだ。ツールでは例えば公園の近くにあった。日本でいえば工事現場やイベント会場などに臨時に設置される簡易便所のようなものだった。 公衆電話ボックス程の広さのシャワーボックスが5・6室並んでいてお金を払って中に入るとシャワーが使えるのだが出てくるお湯の量が決まっているのであまり長居はできない。体の不自由な人やお年寄りには不便だったに違いない。実際友人に誘われて老人ホームを何度か慰問したが、何日も身体を洗っていないのか強烈な臭いが漂っていたのには閉口した。ドイツではやはり部屋に風呂はなかったが町には銭湯があった。銭湯と言っても日本のようないわゆる共同浴場ではなく、かなり広い浴槽付の浴室を一人で使うものである。フランスでの物足らないシャワーから個室の浴槽にグレードアップできたのは喜ばしいことであったが、浴槽の蛇口が全て封をされているのには驚いた。ドイツは鍵の多い国とは聞いていたが蛇口まで封をされているとは。入浴料を払うとその封を外すキーをくれるのだが、何とも重苦しい入浴である。
風呂の話題が出たついでに、トイレについても記しておきたい。アメリカとドイツはすべて完璧な水洗トイレだった。日本ではまだ非常に珍しい水洗トイレが当たり前のようにどこにもあることにまず驚いた。しばしば戦後アメリカに渡り水洗トイレを目にした日本人が「こんなにも進んだ国と戦争して勝てるはずがないと実感した」と聞くが、まさにその通りだった。フランスも水洗便所だったが少し変わったつくりだった。便器の底の弁が重さで開きその瞬間に少量の水が流れ出るしくみだ。新幹線の中や飛行機の中のトイレに似ている。そして公園などの公衆便所は和式トイレのようにしゃがんで用を足すような仕組みで、一定の間隔で水が流れていた。なんとなく、小川で用を足しているような気分だった。
各国の違いと言えば、学生の飲み会の様子はそれぞれ特徴があった。まだカラオケなどなかった日本では車座になって「お次の番だよ」と言って順々に歌を歌うことが多かったが、フランスでは歌ではなく、色っぽく落ちがある小話を披露する。それも順番ではなく、それぞれが手をあげるのだが、私の参加したフランス人学生達の飲み会では奪い合いのように手を上げる姿が印象的であった。そしてドイツの学生達は皆立って横に肩を組んで輪を作り左右に身体を揺り動かして大声でみんなで合唱するのが常だった。そして前述のとおりビアホールで盛り上がってくると、知り合い同士でなくてもみんなで大合唱になるのはドイツの特徴だろうか。

8. ドイツ語習得レベル判定テスト
イザローンに来て三日後、ゲーテ学院でコース分けの学力テストがおこなわれた。どんな問題が出るか予想もつかなかったので多少ドキドキしたがなるようにしかならないと覚悟を決めて試験に臨んだ。入学試験は最初ある物語を教師がドイツ語で読んで生徒がそれを覚えている範囲で自分のドイツ語でそれを再生して書くもので、次は単語の試験(単語が並んでいてその反対語を書くもの)と文法の試験だった。まあ7,8割は出来たかなと言う感じだったがゲーテ学院が私に下した結果は中級コース編入だった。上級コースは可なり難しいと聞いていたので中級コースに入れて良かったと思った。中級コースは生徒数11名で会話学習には適当な大きさだ。日本人は私一人でアメリカ人2名、フランス人2名、トルコ人、ヨルダン人等中東の国から1名づつと言った具合だ。これらクラスメートの中で非常に親しくなったのがヨルダンの首都アンマンから来ていたベダウイーとクラスの中で紅一点のフランス女性フランスワーズだった。フランスワーズはフランスは登山やスキーのメッカ、シャモニーの山小屋の娘さんだったが頭がよく美人でとてもチャーミングな女性だった。彼女とはひょんなことから50年以上経ってから文通が再開し別れ際に私のあげた日本の「こけし」を今でも山小屋の窓辺に飾っていると聞き感激したと言う後日談がある。
このゲーテ学院は半分寮制のような感じでいろいろ可なり厳しい規則に縛られて行動しなければならなかった。毎朝7時半に学校で全員一緒に朝食を食べることになっていた。そのためには遅くとも7時には起床しなければならない。出される朝食は簡単なものだったが必ずチョコレートが付いてくる。そのチョコレートは日によって種類が異なり毎日どんなチョコレートが出てくるかが楽しみだった。昼と夜は各クラスの担任教師と少人数に分かれてこの町のレストランを次から次へと食べ歩く。昼と夜は何時もレストランという訳だ。よく食べたのはシュニツェル(メンチカツのようなもの)、日本でもおなじみのサウアークラウト(酸味のかかった柔らかいキャベツ料理)そしてオクセン・シュバンツ・ズッペ(牛のしっぽのスープ)等だ。又、街角でビールを飲みながらよく食べたのがブラート・ブルスト(ドイツ特有の太めのソーセージをあぶり焼きしたもの)だ。シャワーは学校で決められた時間に浴びることが出来るし、コインランドリーは近くにあり不便はなかった。入試の時見た範囲では日本人は私の他に男性が二人いた。外国語会話の学習には日本語を喋るのはマイナスになると思い長いことこの二人には私が日本人であることを隠すことにした。因みに下宿の同居人ライ君は初級コース編入した。学院に送られてくる生徒宛ての手紙は一時間目の授業が終った時に教室で教師から生徒へ手渡されることになっていた。学校で私のところに手紙が来ると私が内容を読む前に切手をもぎとられてしまう程日本の切手は人気があった。

9. ライ君の秘密
ある土曜日の事、ライ君と私の車でドルトムント迄買い物に出かけた折、ライ君に誘われ彼の親族が経営している中華料理店に立ち寄った。賑やかな通りに面した立派な中華料理店で、何種類もの中国の新聞が置いてある店の奥の部屋に通された。ライ君と暫く雑談をしているとやがて部屋の奥から可愛い女の子が顔を出した。あまりに可愛いらしかったのでドイツ語で「お幾つですか?」、「お名前は?」と聞くとライ君が代わりに「この子は僕の姪で5才、名前は麗珍(レイチン)だよ」と教えてくれた。珍しいほどに麗しいとはまさにこのことだと感心しきりだった。後に麗珍は中国に戻って女優として活躍したと知ったのはずっと後になってからのことだった。ライ君はこの麗珍の家族とドルトムントに来たのだという。当時は未だ米ソの東西冷戦時代が続いていたので東側連盟から抜けたと言っても社会主義国の中国の人たちが簡単に西側の西ドイツに移住できるのかとライ君に訊ねてみた。するとライ君は得意げに華僑は世界中に連絡網を張り巡らせていて何でも出来るんだよと言ったのだ。米国留学時代に中国系留学生の情報網のお蔭でいろいろ安い下宿の情報をもらい大いに助かっていた私は改めて中国人社会の連携の深さに感心させられた。

さて、イザローンに帰る時間になるとライ君は来た道と違う道で帰ろうと言い出した。まあそれも面白そうだなと思い彼の指示に従うことにした。30分程走ったところだった。「ちょっとここで待っててくれる?」と言い車を降りたライ君は横の路地に消えて行ってしまった。 何か用事があって知り合いの家にでも行ったのかなと思たのだが暫くして大変なことに気が付いた。何とそこはエッセンと言う街の公認遊郭だったのだ。これでゲーテ学院から下宿に戻る途中ライ君が時々姿をくらます理由が分かった。ライ君が晴れ晴れとした顔で車に戻って来るのにはそんなに長い時間はかからなかった。

10. クラスメートのベダウイー  
ベダウイーはヨルダン国の首都アンマンから来た留学生だった。シルヴェスター・スタローン似のイカス男でクラスの中で一番流暢にドイツ語を話していた。ところがディクテーションと文法がめっぽう弱かったのでドイツ語の総合点ではクラスの中ぐらいのところにいた。無口な私の仲良しはどう言う訳かフランスでのムッシュウ・オーニシにしろこのベダウイーにしろ大変なおしゃべりだ。おしゃべりな人は概して外国語の会話上達が早いようだ。彼も可なり流暢にドイツ語を話すのだが同じ文法ミスを繰り返すのでクラスでは毎回のように担任のヨーツ先生に指摘されていた。 それは複文節での動詞の語順だった。英語やフランス語と違って正しいドイツ語では複文節では動詞は文節の最後におかれるのだが英語の語順に慣れている者に取っては英語の語順の方がむしろドイツ語で話されても理解しやすい。しかしクラスで毎時間ヨーツ先生の指摘を耳にたこが出来るほど聞かされるとドイツ語特有の副文節中の語順、即ち動詞は最後に置く文がスラスラと出てくるようになるのだった。即ちベダウイー君は他の生徒の学力向上に寄与したことになる。
そのベダウイー君の下宿に遊びに行ったことがあった。小高い丘の上に立つ大きな三階建ての二階の彼の部屋からは青々としたザウアーランドの丘や林が見下ろせた。ベダウイーはドイツで大学へ進学するための資格試験であるアビトゥール(Abitur)を受ける為の勉強をしていたので算数のドリルを見せてもらうと、冪(累)乗計算の問題が40題ほど並んでいた。使われている冪の数が7乗とか8乗とかが大きくて一見複雑そうに見えたのだが注意して見ると累乗する元の式は要領よく通分したり、約分してしまえば簡単な数字となり答えは暗算で出せるものばかりだった。私はささっとそのページにあった問題の答えを書いたのだが、ベダウイーは解答欄を見てそれが全部正解だと分かると目を丸くして「君は天才だ!」といいだした。このぐらい日本の数学の得意な高校生なら誰でも出来るよと言うとさらに驚いて私の株が相当上がったようだった。ベダウイーの勉強の話が終わった頃、彼の下宿の女主人がクッキーを持って部屋にやって来た。ドイツの中年女性に多い小太りの女性だったが、亭主との仲が冷え切っていて、夜な夜な彼のところにきて情事を交わしていると後で彼がこっそり教えてくれた。

11. ゲーテ学院の授業
イザローンにきて1か月を過ぎたころ、先に帰国したリッコから連絡がないがどうしたのかとの手紙が届いた。カバンの中に以前書いて出したと思っていた手紙を発見し慌てて投函した。その頃は毎日宿題に追われていただけではなく9月にマルセーユから船で帰国することに決めたので日本へ持ち帰る荷物の件、自動車をどう処分するか等、準備に追われる日々が始まっていたのだ。さて、ゲーテ学院のコースの作文、文法等では努力が実を結びはじめていた。この学校は毎週末正式な試験があって毎回その結果が10点法で戻ってくる。非常に難しい試験で生徒の大半は4点から6点位をもらうのだが私は続けて二度9点を獲得しライバルを抜いてトップの成績になったのだ。しかし依然として話す方は無口が災いしてクラス最低、残された1ヶ月は全力を挙げて話す方に力を入れようと思った。その頃、授業で裁判所の法廷を見学に行った。裁判を見学し、それを新聞記者になったつもりで裁判官、弁護人、被告、証人等の間に取り交わされたやり取りをドイツ語でまとめて先生に提出するものだ。生まれて初めての法廷で興味があったが残念ながら理解できたのは空き巣に入った嫌疑を受けている被告人(太った中年女性)に関する裁判であるということだけで裁判のポイントがさっぱりつかめず全くのお手上げだった。やはり聞く方は短期間ではマスター出来ぬものか。数日前ひょんなことから私が日本人であることが初級コースの二人の日本人にばれてしまいやむを得ず日本語を使いだしたのがドイツ語会話習得にどう影響するか気になりだしたところだった。そこでドイツ語になれるためラジオを買うことにした。

12. ゲーテ学院の親睦
ゲーテ学院では親睦のため卓球大会が開かれていたが、様々な国の生徒が参加していたので国際親善試合の雰囲気だった。私以外の2人の日本人は可成りの所まで勝ち進んだのだが優勝はライ君だった。現在中国が大の卓球王国なのは有名だが、昔から中国では卓球が盛んだったのだろうか。普段と異なるライ君の一面を見た思いがした。私のゲーテ学院在学中に卓球大会以外には親睦のための遠足が二回あった。一回目は近くの鍾乳洞見学で小遠足だったが二回目はバス旅行だった。バスはイザローンを後にするとすぐアウトバーン(高速道路)に入りどんどん南下した。しばらくすると引率係りの事務長ホフマン先生はマイクを手にして旅程の説明を始めた。一通り説明が終わると一番前に座っていた生徒にマイクを渡した。それから歌が始まり次々と歌を歌いたい生徒にマイクが渡ってポピュラーな曲になると多くの生徒の合唱となった。 私は歌が苦手なのでマイクが近づいてくるとハラハラしていたが日本を代表しでT君が「You are my sunshine」を歌ってくれたので助かった。世界的に良く知られている歌を歌える人はこんな時楽しいのだろうなとしみじみ感じた一瞬だった。そうこうしている内にバスは首都ボンに到着し国会議事堂見学となった。ここでの代議士へのインタビューをレポートするのが宿題だったのだが、手違いでインタビュー自体がキャンセルになり皆で大喜びした。ライ君の案内で中華料理店に行って食事した後ホフマン先生が私にボン大学の日本語科の授業を聴講できるよう許可を貰ったから授業に出て来なさいと言った。私はドイツの大学の授業を聴講出来るよいチャンスと思い授業を聴講させてもらうことにした。しかし講義内容がどうもよくわからない。初めは私の苦手な古文をやっているのかなと思ったのだがやがてそこは日本語のクラスではなくインドネシア語のクラスなのがわかった。オッチョコチョイのホフマン先生のミスか大学側のミスかは分からないが私はドイツの大学の授業を聴講出来たことで満足した。バス旅行の一日は他のクラスの生徒達とも仲良くなれてとても有意義なものだった。

13. ドイツ人気質
バーのカウンターに座ると注文もしていないのに生ビールがスーと目の前に出される。横を見ると赤ら顔のドイツ人が「ヤパーナーだろ、俺のおごりだ飲め、日本は強かった、ドイツが降伏した後も戦ったのだからな、今度はイタ公を除いてやろうぜ!」こんな調子で話しかけられることが何度かあった。日本人贔屓(びいき)は嬉しいが、一般的にドイツ人の好き嫌いははっきりしていて、驚かされることが度々あった。町の射撃祭(Schützenfest)に行って、胸にたくさんの勲章をぶら下げた煌びやかな服を着た軍楽隊行進を見物したおり、ヤパーン(日本)は好きだがアメリカは嫌いだと口々に言うのを耳にした。戦争中「鬼畜米英」と叫んでいたのに戦争が終わると途端にアメリカさん、アメリカさんと米国に靡いてしまった日本とは大違いだ。するとこの時一緒にいたトルコ人の友人が「君は日本人だからいいが僕たちトルコ人にはすごい人種差別があるんだよ」と言った。そして彼の友人はドイツで交通事故に合った際、トルコ人というだけで何軒もの病院に治療を拒否されたという話をした。その時はひどい話だと驚きはしたが、その後私自身も身をもってドイツ人のトルコ人に対する差別を実感することになった。それは、下宿のヒルト夫人から私と私の友人達をディナーに招待したいと申し出があった時の話だ。早速ゲーテ学院の日本人二人と仲良しの黒髪の美少女を招待した。ところが招待日が差し迫ったある日どこで伝え聞いたかヒルト夫人が「あなたが招待した友人の中に一人日本人でない人がいるわね。あの人は入れてはいけません。あの人を外して下さい」と言われた。その美少女はトルコ系ドイツ人だったのだ。私は招待がヒルト家の都合で取りやめになったと彼女に告げ、私と他の二人の日本人はご招待を辞退したのだが、普段優しいドイツ人の恐ろしい一面を見た気がした。

14. 両親の欧州旅行
ドイツのゴールデンウイークで金、土、日と3連休となった。 相変わらず沢山の宿題が出たがさっさと終わらせ土曜日にはクラスメート4人とイザローンの町から約25km離れた所にある湖に行った。連日30度前後の暑さが続いていたのにこの日に限って気温が下がり肌寒く終に私は泳がずじまいだった。本当は3日連休に北欧の旅をクラスメートに誘われていたが断っていた。私の車を当てにしていた友人達は少々おかんむりだったが私の知ったことではない。宿題に追われて2週間程どこへも手紙が出せなかったので三連休は手紙を書いたりしてゆっくりと修業試験へ向けエネルギーを蓄える絶好の機会だったのだ。連休が終わってゲーテ学院に行くとリッコから私の両親がヨーロッパ旅行ツアーに参加し私に会いに来ると言う趣旨の手紙が来ていた。両親は私がゲーテ学院を修業するタイミングに合わせるのでツアーの終わりに一緒に旅行したいと言うことだった。早速リッコに返事を書いた。
「今学校の昼休み、教室で手紙をかいている。大部分の生徒は昼寝しに下宿に戻ってしまい今この教室には4人きり、僕以外の3人は机に顔をつけて寝ている。天気がよく小鳥のさえずりが窓の外に聞こえている。庭の桜の木に赤い大きなさくらんぼが沢山なっている。愛車VWはイザローンに着くまでは良く走ってくれ昨日走行距離33333kmを記録したが年には勝てずエンジンがお釈迦となって新品のエンジンに入れ替えなければならなくなった。新品のエンジンに取り換えればあと5年は楽に走り続けられる筈なので1・2週間の旅行のみのために大金をはたくのは少々癪だがこれも親孝行のためと思って修理に出すことにした。親父とお袋がこちらに来たらこの車で一緒に北欧旅行でもしようと考えているので伝えといてくれ。でまた」と。連休中にクラスメートに誘われた北欧旅行を断っておいてよかったなと思った。

15. ゲーテ学院卒業試験
ゲーテ学院の卒業試験が7月25,26日の両日に行われると発表された日、学校から戻るとギュンターとウーゼルが私の下宿まで訪ねて来ていた。1週間ほど前にシアトルから戻ったばかりとのことで約3年ぶりの再会に話の花を咲かせた。別れ際に終業式を終えたら是非訪ねて来てくれと彼の家に招かれた。気が付いたらリッコが帰国してから丁度2ヶ月目だった。蒸し暑い東京とは違ってイザローンは6月の初め1週間程夏らしい日が続いただけでその後涼しい日が続き毎日スキーセーターを着て学校に通っていた。そんな気候に恵まれて勉強は捗っていたが上から2番目の難しいクラスに入っていた私は卒業試験にパスするため確り準備をしないといけなかった。その為毎日が忙しく両親との旅行プランを立てる暇などなく旅行プランは8月に入ってから考えることにした。卒業試験は毎週の試験と違って2ヶ月間の総ざらいで、その間にこなした事全部を勉強しておかなければならないので(2ヶ月と言っても1日でこなす量がものすごい上、1週6日制なので全部ではものすごい量になる)大変だ。それにこの卒業証書は権威あるものと思われ、私が全力を掛けて手に入れたいと思っていたものだ。とにかくこれが私の生涯最後の学生生活であり又最後の試験になるかもしれない。試験は3種類に分けられ、初日はNacherzӓhlung(これはヒアリングと文法とを一つにしたようなもので先生の話す物語を聞き取りその内容をドイツ語でかくもの)二日目は午前文法で午後が口頭試験、そこでは自分が選んだテーマで教師連の前で話を語るもの。私の選んだテーマは”Eine Autoreise nach Spanien”「スペイン自動車旅行」である。数日かけて原文を書き上げ下宿のおばさんに少々訂正してもらい夕食後頭に詰め込んでしまったのでもうあまり不安ではない。初日の今日はほとんど快心の出来で悪くても9点(10点満点)は取れたと思う。この調子が二日目も続けば念願のゲーテ学院卒業証書は間違いないのだがただ全力をそそぐのみ。今になって考えてみるとこの2ヶ月あっという間に過ぎてしまったがいろいろの友達と知り合い又驚くほどのものを勉強した。明日が学校の最終日と考えると胸にぐっとくるものがある。トルコのアプシン、ユーゴスラビアのド-レンツ、アメリカのエド、ヨルダンのベダウイ、それに紅一点のフランスのフランソワーズも皆クラスでは良い友であった。私の学生生活の最後をかざるコースとしては最高のものだった。

16. 週末を利用してロンドンに飛ぶ
何としてもヨーロッパにいる間にロンドンを訪れてみたいと思っていた。ゲーテ学院の修了試験も終わり翌週の終業式を待つだけとなったウイークエンドを利用しロンドンに行ってくることを思いついた。ビザは必要なかったが英国の入国許可を取るにはポリオワクチンの接種証明書が必要だった。幸いなことにゲーテ学院の向かいに内科クリニックがあり、苦労せずワクチンの接種を受けることが出来た。さてイザローンからロンドンまでどのような経路で行こうか思い悩んでいると親友のベダウイーがアムステルダムまで車で行き飛行機でロンドンまで飛べばいいとアドバイスをしてくれた。彼がアムステルダム飛行場まで送ってくれ、私がロンドンから戻って来る時に空港まで迎えに来てくれるという。その間ベダウイーは私の車を使ってアムステルダムの周辺を探索するのでお互いにとっていい話ではないかと言うのだった。言われてみれば私も満足、ベダウイーもハッピーだ。金曜日の朝二人はイザローンを後にしてアムステルダムに向かうアウトバーンを走り出した。ところが1時間ほど走ったところで急に車が止まってしまった。アウトバーンの真ん中でするするすると力なく止まるといくらアクセルを踏み込んでもエンジンはうんともすんとも言わない。何とガス欠だったのだ。ベダウイーと一緒に車を押して路肩に止めたのだが近くにガソリンスタンドは見当たらない。ベダウイーと二人で途方に暮れて車の横に立っているしかなかった。しばらくするとどこで聞きつけたか白バイに乗った警察官がやってきた。ガス欠だと告げるとホルクスワーゲンのビートル車にはこんな時のために5リッターの隠しタンクがついているからそれを使えと教えてくれた。アクセルの右奥に10cmほどの鉄棒があるからそれを倒してみろというのだ。それまで1年近くも乗っていて気が付いていなかったが確かに棒が見つかった。その棒を倒すと確かに予備燃料が出てきたらしくエンジンがかかったのだ。ヒットラーが飛行機の滑走路にも使えるようにと作らせたアウトバーンに感心していたがヒットラーが作らせたという大衆車にもこんな工夫が施されていたのには驚きだった。おかげで無事にアムステルダムに着けたのだ。その日はベダウイーと一緒に綺麗な花々に囲まれたおとぎ話に出てくるようなカラフルなペンションに泊まり翌朝ベダウイーに飛行場まで送ってもらいロンドンに飛んだのだった。ロンドン市内でB&B(宿泊+朝食の民宿)に泊まった。短期滞在なので乗ってみたかった赤い二階建てバスで市内観光をしたり地下鉄を使ってハイドパークやピカデリーサーカスを訪れた。地下鉄はかまぼこ型をしたちょっと小さ目な車両だった。二日目は一人でピカデリー通りと映画で有名となったウォーターローブリッジ迄行ってきた。ビビアンリーとロバートテーラーが出たあの映画に出てきた橋はもうなくなり近代的な橋になっていて少々がっかりした。夜はピカデリーサーカスのそばのピザハウスに入ったのだが当時イギリスでは1ポンド=20シリング=240ペンスでというように12進法のようなお金の数え方をしていた。支払いの時コインの数え方がよくわからずまごついていると可愛いウエイトレスが親切に計算法を教えてくれた。計算上混乱するため、1971年2月13日に1ポンド=100ペンスに切り替えられたので今では支払いで苦労する旅行者もいなくなったようだ。イギリスとアイルランドで通貨補助単位の変更を行ったこの日を「デシマル・デー」(Decimal Day, 十進法の日)と呼んでいるそうだ。そんな苦労のあったロンドン一人旅も今では懐かしい思い出となっている。

17. ギュンター家に別れを告げT君のいるムルナウへ
ゲーテ学院の卒業試験の結果が出た。何と読み,書き、話す全てで最高ランクを獲得した。一番心配していた「話す」はスペイン自動車旅行を5分間でよどみなく話せたのでこんな結果がもらえたと思う。高い評価の修業証書のお蔭で帰国後東京の会話学校で暫くドイツ語の初級会話の講座を担当するアルバイトが出来た。今では辞書なしではドイツ語の新聞Heuteも読めなくなってしまったのは残念である。イザローンを出て招待されていたギュンターの家に寄せてもらった。ギュンターとギュンター夫人となったウーゼルは共に米国ワシントン大学留学中からの友人である。ギュンターは地学で博士号を取り9月からハワイ大学で教鞭をとることになったという。お邪魔した日の夜、ギュンター家では私のゲーテ学院無事卒業を家族全員で祝ってくれた。
翌日はいよいよお別れである。私は愛車を譲ることになっていたムルナオのT君のところまで長いドライブだ。初級コースにいたT君は学期の変わり目でイザローンのゲーテ学院からムルナウ(ミュンヘンとインスブルックの間にある町)のゲーテ学院に転校していたのだ。ギュンターとウーゼルはベンツに乗って私の車がオートバーンに入るまでついてきてくれた。お互いに車の中から手を振って別れの挨拶をした光景は今でも目に焼き付いている。このギュンター夫妻とは50年ほど音信不通になっていたがインターネットで偶然連絡が取れ最近50年ぶりに感激の再会を果たした。
ミュンヘンとインスブルックの間に位置するムルナウには昼頃に着いた。ムルナウは保養地として知られている温暖な土地であるが8月ともなると暑かった。T君はイザローンでの学期を終えてこちらのゲーテ学院に転校していた。ムルナウのゲーテ学院はすぐに見つかった。T君を呼び出してもらってしばし歓談。午後の授業が終わるまで待ってて欲しいと言われしばしムルナウのゲーテ学院を見学する。真夏になっていたせいか、または南部の土地柄のせいか生徒たちはカラフルな夏服を着ていて眩しく見えた。校舎も何となく山小屋風の感じで開放的な感じである。校舎の中にコンドームの自動販売機が置いてあったのには目を疑った。授業を終えて出てきたT君の案内で町のレストランに行き車の譲渡の打ち合わせをした。結局日本円の5万円で譲ることになった。譲るタイミングは私が両親との北欧自動車旅行を済ませた後ということで落ち着いた。

18. 両親とのヨーロッパ旅行
いよいよ両親のヨーロッパツアー旅行がスタートした。結構融通の利くツアーだったので私が8月10日ミュンヘンから飛行機でローマに飛びツアーに一部特別参加という形で合流させてもらうことになった。ムルナウから飛行場まではT君が私の車で送ってくれた。車は私が戻って来るまでT君に預かってもらうことになる。ローマでツアー一行が泊まっていたホテルはすぐに見つかった。疲れがたまっていたので積もる話もそこそこにして早めにベッドに入った。早速翌日はバスでの日帰りナポリ観光旅行だった。ナポリはローマ、ミラノに次ぐイタリア第三の都市で、ナポリ湾の風光明媚な景観から「ナポリを見てから死ね」と言われ、温暖な気候から観光都市としても知られている。その日はさんさんと太陽の輝く晴天の日でキラキラと輝く美しいナポリ湾を観光したのちポンペイの遺跡見学となった。
ナポリ近郊にあるポンペイ遺跡は、古代ローマの都市と人々の生活ぶりをほぼ完全な姿で今に伝える貴重な遺跡だ。西暦79年8月24日、ナポリ湾を見下ろすベスビオ火山が大噴火してポンペイの町は火山灰に埋もれてしまった。その後、およそ1700年の時を経て始まった本格的な発掘によって、古代都市の様子がまるで時が止まったかのように出現した貴重な遺跡である。ツアーガイドに案内されて遺跡に入ると町は整然と区画され、住居はもちろん、劇場や公衆浴場、下水道まで完備しているのには驚かされた。壁画やモザイク画、市民が記した落書きなどが当時のまま残され、ローマ帝国の市民たちの贅沢で、享楽的な暮らしぶりを鮮やかに物語っているのだ。死の瞬間の姿を浮かび上がらせる身を寄せ合う家族、最後まで子どもに寄り添う母親、互いをかばい合うように抱き合う恋人などの姿が石膏として残されていた。石膏の人型は、一瞬にして平和な日々を奪われたポンペイ市民の悲劇を伝えはかない人間の宿命を物語る世界遺産でもあると思う。
夕方ローマに戻りツアーがアレンジしていたレストランでスパゲッティーを食べさせられたのだが大味で美味しくないのでがっかりした。多分ツアー客用の安いレストランだったのだろうがイタリアの本場スパゲッティーを楽しみにしていたので残念だった。 その夜は疲れたから休みたいという両親をホテルに残して夜のローマを探索するべく一人街に出た。大変な事態に遭遇するとはつゆ知らずに。

19. イタリアローマの暴力バー
一人で町の探索に出かけた私はローマのターミナル駅近辺を歩いていた。ああ、あれが有名な終着駅かと近づいてきた駅舎を眺めていると一人の青年紳士が近づいて来た。パリッとブルーの背広を着こなし、頭は黒髪を七・三に綺麗に分けている。「日本の方ですね?」と訊かれて頷くと「私には日本人の友達が沢山います。」と言って話しかけてきた。物腰はすこぶる丁重である。面白半分にフランス語やドイツ語に変えて会話をしてもちゃんと綺麗なフランス語、ドイツ語が返ってくる。可なり学がありそうである。日本語も結構いろいろな単語を知っていて可なりの日本通だ。その内に「日本ではどちらの大学を出られましたか?」と聞かれ「早稲田です。」と答えると「ああ、早稲田ですか。この間のローマオリンピックの時来た水泳の山中毅選手もやはり早稲田でしたね。私は山中選手を案内したので良く覚えていますよ。」と言う。その内に慶応大学出の人も大勢知っていますと言うやポケットから慶応のバッジを取り出した。見ると紛れもない本物の慶応義塾のバッジである。10分も話しながら歩いたろうか「友達になった記念に一杯やりましょう。僕がいいところを知っているので着いて来てください。」と言ってすたすた歩き出した。てっきり日本贔屓のイタリア人がおごってくれるに違いない。こんなチャンスはめったにない。大通りからちょっと横道にそれたところに地下に下りてゆく階段があった。壁には「American Club」と表示されている。階段を下りて行くとそこにはバーのようなキャバレーのようなコージーなサロンがあった。ソファーに座ると若い女性が横に座ってくる。客は他にはいなかった。件の青年紳士はニコニコして向かいの席に座り女性達に「友達を連れてきた」と説明している。先ずビールで乾杯が始まった。その内シャンパンのボトルが出てきた。女の子がポンポンと栓を抜く。美味しいシャンペンだった。ずいぶん歓待してくれるんだなと感激し良い気分に浸っていると横に座っていた若い女性がダンスしようと誘ってきた。ダンスは苦手だがボックスぐらいなら何とか踊れる。ナポリから来たと言う女の子と何とか一曲か二曲踊った頃その子が耳元で囁いた。「I can go to bed with you tonight」と。これはなんか怪しい。すぐ席に戻ると私を連れてきた青年紳士は前の席でタバコを吸っている。落ち着くため私もタバコを吸うことにしライターを取り出すと横に座った女性がこのライター貰ってもいいかと言う。取られたら大変である。このロンソンのライターはリッコからフランクフルト飛行場で別れ際に贈られた大切な品だ。どんなことがあってもこれは死守しなければならない。これはあげられないと言うと渋々納得してくれた。暫くすると件の青年紳士はタバコをきらせたらしくイタリアのタバコを一箱注文した。女の子がタバコを渡すと彼はタバコ代と言って紙幣を渡す。エッ!驚くような金額である。イタリアに入って日が浅いとはいえタバコ一箱に日本円換算で2千円ほどはどう考えても高すぎることが分かった。もしこの店がこの調子で飲み物の値段を付けていれば割り勘にしたって払いきれるものではない。友人と思っていた件の青年紳士に直ぐ勘定をしてもらってくれと頼むと勘定書きを貰ってくれた。見ると案の定高い。プライスリストを見せてくれと言うと直ぐメニューを持ってきた。確かにメニューには飲食物それぞれ高い値段がつけてある。文句のつけようがない。自分の意思でこの店に入って来たのなら注文する前に必ず値段を確認したであろうに迂闊にもおごってもらえるものと思っていたのが間違いの元であった。「金がないから払えない」と言った瞬間、どやどやと階上からプロレスラーのような大男が5・6人降りてきて私の周りを囲んだ。「いくら持ってるんだ?」「米ドルで5ドルだ。」「ローマで5ドルで何が出来ると思ってんだ」と言い合いが続く。気が付くと青年紳士の姿はもうそこにはいない。完全にグルであった。怖かった。地下室である。殺されたら迷宮入りだ。「支払いたいから泊まっているホテルまで来てくれ」と言ってみる。ボスのような細身の男が前に出てきて「これからホテルまで一緒について行く」と言う。ああこれで命だけは助かりそうだと思うと落ち着いてきた。細身の男はガレージから真っ赤な小型車を出してきて乗れと言う。「これに乗ったら車代と言って又金を取られるのはいやだから歩いてゆきたい」と言うと男は車代は取らないから乗れと言う。
近かったのでホテルへは直ぐ着いた。頭にきたのでまけさせる手はないかと考えてみたのだが請求された勘定はプライスリスト通りに計算されていて警察に訴えても勝ち目がない。ホテルの部屋に戻りトラベラーズチェックを持ってくる。その日の為替レートに合わせてドルに換算チェックを切ろうとすると店から着いてきた男がレートが違うと言い出した。ここはホテル内で怖いことはない。「よしそれではホテルのフロントで為替レートを確認してくる」と言うと男は「分かった分かったそのレートでいいよ」と言い出した。チェックにサインして渡すと男は右手をさっと出し握手を求めてきた。渋々握手に応じた。完敗である。この話被害にあったのは私だけではなかった。後にフランスのマルセーユから船で日本に戻ったのであるが船中この話をすると「俺もやられた」「俺もやられた」となんとエコノミークラスの乗客だけで6人も出てきたのであった。手口は殆どみな同じであった。日本に戻ってから本屋で「ローマでやられる」と言う本が出ていてこの手口が詳細に書かれていたのには驚いた。イタリアには詐欺の学校があり特に日本人選科なるものが存在するに違いないと考えるのは私だけであろうか。この執念にも似たイタリア人に対する恨みは年を取ってイタリアにスキーに行き信頼出来る善良なイタリア人に出会う迄数十年続もいたのである。只、この話には後日談がある。息子が大学卒業旅行でヨーロッパに行くことになった時「父さんはローマでこういう苦い経験をしたのでくれぐれも注意するように」と言って送ったのであったが息子が戻ってきて「父さん、僕もやられたよ」と言ったのである。クレジットカードで支払ってきたと言うので調べると5万円ほど引かれていた。まあ、孫にはこの経験はさせたくない。

20. ムルナウに戻る
ローマから先のツアーにも更に便乗させてもらう予定だったのだが飛行機が満席で実行不可能となり止む無く両親を連れてムルナウに愛車VWを取りに戻った。すると有ろう事かT君に預けてあった私の愛車はちょっとした事故にあってガレージ入りしていた。悪いことに丁度ドイツの連休にぶつかって自動車が元通りになるまで5日もかかると言うしホテルはどこも満室で(部屋が見つかっても一晩のみしか泊まれないことが多く)毎朝駅のホテル予約所へ行ってその日のホテルを探すという具合で他に何もできずに日が経ってしまう。そんな訳で北欧の旅行も果たして出来るかどうか予想もつかない状態になってしまった。ところがこの話を伝え聞いたT君のクラスメートが2・3日車を使う予定がないから使ってくれと申し出てきたのである。渡りに船とはこのことかと有難くこの日本びいきの友人の厚意に甘えることにした。こんな訳で車が修理されている間に西ベルリンまで行ってこようということになったのだ。

21. 西ベルリン、ストリップ劇場の舞台に立つ
未だベルリンの壁が崩壊する前のことである。西ベルリンは東ドイツの中に存在していた陸の孤島である。車で行くには東ドイツの中を走ってかなければならない。東ドイツとの国境に近づくと延々と車が並んでいる。東ドイツ側の検閲を受ける行列であった。検閲の様子を見ていると時間のかかるのが頷ける。一台一台車内を調べ、トランクルームを調べ、ガソリンタンクまで調べるのだ。もっと驚いたのは先端にミラーの付いている検査棒で車の下から隈なく覗いているのだ。長いこと待たされたが無事検閲が終わると後はベルリンに通じる一本道を走るのだ。道はアウトバーンで走りやすかったが一歩たりとも脇へ逸れてはならない。西ベルリンに着くとそこは自由社会の町で派手なネオンに溢れていた。ヒルトンホテルに泊まり、翌日は東ベルリンの観光バスツアーに参加して東側の街を見学した。東側のガイドが歴史的遺跡に案内してくれたが、やはり東側は西側に比べると暗い感じがする。ホテルに戻り夕食をとった後両親は疲れが出たのでホテルで休むと言う。西ベルリンの夜の街も探索したいと思いホテルのフロントに訊くと夜の観光ツアーの席がひとつ空いていると言う。かなり疲れてはいたのだが又ベルリンに来れる保証はない。思い切って夜の観光ツアーに参加することにした。いろいろ繁華街を案内された後最後に訪れたのはストリップ劇場だった。日本人の一行がいたので一緒に最前列の席にすわった。
いわゆるカブリツキである。ストリップはどこの国も同じだなあと暫く踊りを観賞しているうちに眠気が来てうとうととした時である。突然日本人一行の数人が私を舞台に押し上げようとしたのだ。どうもうとうとしている間に舞台上のMC(司会者)が国別対抗の遊びをするので日本代表も出せと言ったらしい。日本人ツアーの一行はどうも仲間らしく一人単独参加していた私を生贄にしようとしたらしい。とんでもない事だと必死に抵抗したが多勢に無勢、気が付くと舞台の上に乗せられていた。そこには既に西部劇に出てくる様なカーボーイ姿の中年のアメリカ人も一人立たされていた。私と違って彼の方はうれしそうにニコニコしているではないか。もうこうなってはお国のために頑張るしかない。覚悟を決めて客席のほうを見るとまぶしくて何も見えない。客席の後方から青とピンクと白色の三本のスポットライトが舞台上の人物を一人一人照らしている。光源から円錐形に広がって来るひとつのスポットライトの中に立たされているのが分かった。何をやらされるのか暫く緊張が続く。なにをやらされてもカーボーイ姿のアメリカ人には勝てそうにない。MCがおもむろに二本の釣竿を取り出し一本づつアメリカ人と私に手渡した。釣り糸の先にはやや大きめの釣り針がついている。アメリカ代表選手(?)と日本代表選手(?)が替わりばんこに釣竿を操って釣り針で舞台上のストリッパーの服を引っ掛け脱がせて行く競技であった。勿論ストリッパーは着ているものはすべてすぐ取れるように固くは止めてはいない。アメリカ代表は落ち着いているように見える。こちらは手が震えて止まらない。ところが何が幸いするのか分からないもので私の手の震えがちょうど衣類を剥がすのに合っていたようでアメリカ代表がもたもたしている間に私の方はどんどんうまく脱がせることが出来て大差で勝ってしまった。日本人一行は人の苦労も分からず大喜びとなった。勝ったご褒美は何だったか。読者のご想像におまかせすることとしよう。ホテルに戻ってこの武勇伝を話すと親父は「俺も行きたかったな」とぼやく事しきりであった。

22 .駆け足ドライブ北欧旅行
西ベルリンから戻って来るとムルナウでは丁度私の愛車の修理が終わっていた。両親の帰国の飛行機が発つ日まで一週間ある。そこで行きたいと思っていた北欧迄行くことにした。
ムルナウから出て北欧の国々を回ってくると有に3000kmを超える。一週間ですべてを回るのは可成りの強行軍なので行ける所まで行ってみようという事でムルナウを出発した。
初日は500kmほど走りオランダに入って風車小屋の見える花畑の美しい田園地帯にある小さな民宿に泊まった。両親が日本から持ってきていたたこけし人形を民宿の女主人にあげると大変に喜ばれ楽しい交流が出来た。二日目はオランダの有名な大堤防を見学しデンマークのコペンハーゲン迄進めた。旅行シーズンだったのか観光案内所で調べてもらっても空き室のあるホテルは一軒も見つからなかった。落胆する両親を待たせて私は自分で一軒一軒訪ねていった。3軒めでやっと狭いが空き室のある安宿が見つかった。宿の予約などしたことのなかった私もこの時ばかりはちょっと冷や汗をかいた。この経験を生かして三日目はデンマークのヒァツハルスからノルウエーのクリスチャンサンド迄フェリーで渡ることを思いついた。これだとフェリーのベッドルームで寝て行けるので宿の心配もしなくてよい。コペンハーゲンの旅行案内所で調べてもらうと当日の夜行便フェリーの3人用の寝室が取れるという。ラッキーだった。ちょうど運転疲れが出ていたところだったのでこれで一息つける。フェリーは新しい船でとても清潔で船員達もきびきびしていて気持ちがよかった。
クリスチャンサンドからノルウエーの首都オスロまでの道は森林の中の坂の多い道ですれ違う車の多くが木材をしこたま積んだトラックだった。やはり林業の盛んな国だなと思われた。オスロの町に入ると「人形の家」の著者として有名なノルウエーの劇作家イプセンの像が目についた。広場の傍のカフェで一休みして観光名所のヴァイキング船博物館を訪れた後、来る途中で目に入ったスキージャンプ台を見学に行ってみた。ジャンプ台の最上部に登ったのは初めてであったが下を見下ろすとあまりもの高さで身震いしてしまう。こんな高いところから滑り降りるスキージャンパーには改めて畏敬の念をいだいた。午後遅くなってきたのでそれ以上の観光は諦めてホテル探しに入った。スキージャンプ台からほど遠くないところにお城のような可愛いホテルが見つかった。受付の女の子が実に愛らしく即このホテルに泊まることにした。翌日はスエーデンの首都ストックホルム迄のドライブとなった。スエーデンの人は英語がうまいと聞いていたのだがストックホルムの街中では英語で話しかけても通じる人があまりいなかったので戸惑いを感じた。直ぐ本屋に入って辞書を買ったのだがあまり役に立たなかった。と言うのもスケジュール的にあまり長居は出来ない状態だった。結局フィンランドに寄ることは諦め、ストックホルムから帰路に向かうことになった。 途中デンマークで一泊し最後の日は880km走り続けてフランクフルトまで戻ったのだった。 50年以上自動車を使っているがこの880kmは一日の走行距離としては最長の距離である。正に駆け足北欧自動車旅だった。

23. 慌ただしいヨーロッパ最後の数日間(ドイツ)
1965年8月28日両親をフランクフルト空港で見送りムルナオまでヨーロッパ最後のドライブを楽しむことになった。 フランクフルトから一度通ってみたいと思っていたシュヴァルトヴァルト(黒い森)を通り抜けて温泉保養地として有名なバーデンバーデンに出ることにした。 「シュヴァルツヴァルト」とは、ドイツ語で「黒い森」を意味する。森の多くは植林されたドイツトウヒの木であり、「黒い森(シュヴァルツヴァルト)」という名称も、密集して生えるトウヒの木によって、暗く(黒く)見えることがその由来だという。南北で約160キロに広がり一番高い箇所は海抜1493メートルだ。又、バーデンバーデンはヨーロッパ有数の温泉地として広く知られている。ドイツ語で、バーデン(Baden)という単語は「入浴(する)」の意味でそこからバーデンという地名がついたということだった。 数時間のドライブでシュヴァルトヴァルトを抜けバーデンバーデンに着いたのは午後の3時頃だった。 ぜひ一泊したかったが、予算的にも時間的にも難しかったので、そのままシュツットガルトまで行き安宿に泊まることにした。 夜、街に出て立ち食いコーナーで大好きなブラートブルスト(大きな焼きソーセージ)とビールを注文しくつろいでいると一人の貧相な中年男が千鳥足で近寄ってきた。 何か話しかけてきたのだが初めは何を言っているのか分からなかった。 その内に手を差し出してきた。 タバコをくれというのだ。 タバコは持っていないと言うとタバコを買う金を恵んでくれと言いだした。それまでドイツではビールを飲んでいるとヤパーナー(日本人)だろうと言って何度かおごってもらったことはあってもたかられたことは一度もなかった。 結局恵んであげるお金もなかったので断るとすごすごと立ち去っていった。 どこの国にも風来坊はいるものだなと思った次第である。 翌日はミュンヘンでムルナオから出てきたT君と合流しのんびりとミュンヘンの町を観光しT君との最後の夜を楽しんだ。 翌日ムルナオでT君に車を渡し汽車にてフランスのパリへ向かうことになった。


IV. 帰路航海編
1. マルセーユへ向かう

フランクフルトで両親を送った後の1週間というもの、やらねばならぬことが多すぎた上そのどれもこれもがはかどらず一度は船での帰国を断念しなければならないかと思われるほどだった。ドイツからの汽車がパリに着くころには疲労のためグロッキー気味であまり食欲もない状態となっていた。こんな時にパリでは腹立たしいことが続いて起こった。 汽車がパリに到着し、入国手続きの荷物の検査の際黒人の検査官がひどく乱暴で、のんこ(荷物を引掛ける爪型の工具)で私のアルミ製のトランクを引っ張りまわしトランクに大きな穴をあけてしまった。 又、中に入っていたキャノンのカメラも取り上げられそうになったのだ。 当時のフランスでは誰もがチップを要求してきた。 5ドルほど金を掴ませてなんとかその場は切り抜けられたが全く腹立たしい限りだ。 一つには時間がなかったこともあるが以前パリで泥棒にあった時警察に届けると取られる方が悪いと言った態度を取られていたので泣き寝入りするしかなかった。 ドイツから戻って来るとパリのいやな所ばかり目立ってパリに住むフランス人の不人情さが物凄く身に染みるのだった。 日本の女性雑誌などにパリのお巡りさんがさも親切そうに写真入りで紹介されていたのは何だったのだろう。 船会社の従業員しかり、汽車の駅員しかり、ホテルの人間又店員の態度の悪さと言い田舎町ツールで人情味あふれる人々との交わりを経験していなかったならフランスは実に4等国か5等国のように思われる。こんな嫌なパリに長居は無用だ。パリ在住の高柳君のところも2・3時間寄って話をしただけですぐマルセーユに向かうことにした。 パリからマルセーユまでは憧れの豪華特急列車ミストラル(Mistral)に乗ることにした。このミストラルは1964年当時、下り列車はパリ・ディジョン間315kmで表定時速132.1kmを記録し、ギネスブックに停車駅間における営業列車の速度としては世界最高と認定されていた。これは東海道新幹線開業前のレコードホルダーだったが後にフランスの高速列車TGVと引き替えに引退した。
マルセーユに着くと街の汚さ(不潔さ)といい人々の態度の悪さと言いパリ又はそれ以上で翌日からの船旅が実におもいやられた。しかしフランス最後の日を無駄に過ごすのはもったいないので友人が薦めてくれていた海鮮料理のレストランで最後の晩餐をとることにした。 安宿に泊まったせいかもしれないがホテルから海岸縁のレストランまでの狭い路地には昼間からそれと分かる商売女たちがフェールラムール、フェールラムールと声をかけてきたが、可愛い女の子達ならともかく皆結構な阿婆擦れ女たちで誘いに乗る気にもならない。 レストランでは奮発してカニ料理とワインをを注文し、フランス最後の夜に一人感慨深げに乾杯した。

2. マルセーユ出航
1966年9月7日いよいよマルセーユ出航の日が来た。船はフランス郵船のラオス号だ。ラオス号は約15,000トンだったので私がアメリカからフランスへ渡った時の豪華客船フランスよりは大分小さいが日本からアメリカへ渡った時の日令丸よりは相当大きい船だ。エコノミークラスはインド人と日本人が多くボンベイでインド人達が下船してしまうと3分の2以上が日本人と言った状態になりそうだった。日本人はほとんどが大学生で夏休みを利用しての海外旅行の連中だった。当時日本の若者たちに人気があったのが日本から船でウラジオストックまで行きシベリア鉄道を使ってモスクワ経由でワルシャワに出てヨーロッパに入りリックひとつでヒッチハイクや自転車でヨーロッパ諸国を旅することだった。当時のソ連邦は鉄のカーテンの向こう側でいつも誰かに監視されている怖い国という感じだったので私が日本を発った1962年頃には一人でソ連邦経由でヨーロッパに渡る勇気ある若者はいなかったように思うが、わずか数年で日本の若者たちも随分頼もしくなったものだ。マルセーユから乗船した学生達の中には東大生、一ツ橋生、明大生等がいた。そんなわけで私は飛びぬけて年寄りの部類に属してしまいどうも彼らと話が合わない。全く年の経つのは早いもの、もう若者では通らなくなってしまった自分を発見し浦島太郎になってしまった様な気がした。私のキャビンは11人部屋でその内6人までが日本人だった。大学生以外では新婚の杉山ご夫妻、そしてヨーロッパでの学会に出席した帰りという大阪の歯科大学の塩崎と名乗る若い准教授とそれを取り巻く三人のインターンの弟子達だった。このグループは何となく親分と子分達といった雰囲気で長い航海中いろいろと楽しませてくれた。面白かったのはこのグループは私と同じようにローマで暴力バーで金銭をひったくられて逃げ出したということだった。マルセーユを出港して同室の人達と自己紹介をしているうちに日が暮れだし皆で看板に出て美しい地中海の夜空を眺めた。杉山氏は星座に詳しくいろいろと皆に星座について解説をしてくれた。その日は地中海の海はとても穏やかで遠くの陸地に見える明かりを眺めながらの静かな航海となった。

3. エジプトとスエズ運河
エコノミークラスはあまり綺麗ではないが毎日腹一杯食べられるし、シャワーも何時でも自由に取れるし、各室冷房完備なのでまずまずだった。又、毎晩映画上映もありそれもいい映画ばかりなので何とか日本まで持ちこたえられそうな気がした。映画のない晩はダンスパーティーがあるのだが相手がいないのでいつも一人で先に寝てしまうことになる。船はマルセーユを出て3日目あたりにスエズ運河に到着、船が1日がかりでスエズ運河を通過する間、希望者のためにエジプトカイロ市とピラミッド・スフインクス等をめぐるバス観光旅行が用意された。船に乗ったままスエズ運河航行も経験したかったのだがピラミッドの魅力には勝てずこの観光旅行に参加することにした。まずカイロ市内の立派なホテルでエジプトの代表的な鳩料理を食べた。その後考古博物館を見学してピラミッドに移動した。やはり立派だった。ガイドの案内でピラミッド内部にも入った。狭い急勾配のトンネルを歩いて登り、奥の間まで行った。訪れた者は誰でも巨大な石がどうやって積み上げられたのか不思議に思うことだろう。それに引き換えピラミッドのすぐそばにあるスフインクスは小さく見え感激が起こらない。ラクダにも乗ってみたが乗っている間中太陽に照り付けられ暑くて大変だった。夕方はスエズ運河紅海出口近辺のホテルで夕食を取りながらベリーダンスを鑑賞した後スエズ運河の紅海出口に停泊していたラオス号に戻った。

4. ファーストクラスに忍び込む
紅海を航海中は毎日晴天でデッキに出てプールで泳ぎ長旅に備えるべく身体を鍛えた。この調子だと日本に到着する頃は真っ黒になっているだろうと思われるほどだった。そのエコノミークラスのプールはあまり大きくはなかったがファーストクラスのプールはもっと立派だということだった。客船ではエコノミークラスとファーストクラスでは待遇が全然違う。エコノミークラスの船室は船底の方にありファーストクラスの船室は上部にあり船室の窓からは海が見渡せる。又、食堂やプールなどもはっきりと区別されておりファーストクラスのエリアにはエコノミークラスの船客は立ち入れないようになっている。従って映画やダンスパーティーが催されるホールも別になっているのだ。支払った船賃が違うのだから差別は已むを得ないとは思ってもエコノミークラスの人間はファーストクラスを覗いてみたくなる。最初の一週間ほどは我慢していたのだが二週目に入ったある日のこと大阪の歯科大学の塩崎親分からファーストクラスのダンスパーティーに侵入してみませんかと誘われた。「でも我々は入れないでしょう」と言うと、「いや秘密の通路を見つけたのでそこから入り込めますよ」というのだ。大勢で押しかけると目立つので一人で乗船していたS嬢を誘って塩崎親分と私の3人で出かけることになった。一応持っていた一番いい服に着替えて出かけた。親分の案内で細い通路を曲がりくねりしなっがら行くと人に咎められることもなくファーストクラスのエリアに潜入できた。我々はダンスホールの一番端のテーブルに座って雰囲気を楽しむことにした。確かにエコノミークラスのパーティーより煌びやかだ。暫くするとウエーターが飲み物の注文を取りにやってきた。私は同伴してくれたS嬢に「何を飲まれますか?」と尋ねた。S嬢はもじもじして黙っている。すると親分が言ったのだ。「女性の扱いをご存じないのですね、初めての女性を誘うときは女性の好きそうなものを考えてコレコレでいいですか?と尋ねなければ女性は遠慮して何も言えないものですよ」とアドバイスをしてくれたのだ。なるほどそういうものかと女性との付き合い方を学んだのだった。そこで女性の好きそうなカクテルを注文するとS嬢は喜んくれた。親分は私と同い年ということだったが世慣れていてS嬢とワルツを優雅に踊ったかと思えばチャチャチャやジルバなどのラテンものも陽気に踊ってみせた。一方私は何度かダンス教室に通ったことがあったのに一向にものにできずここでも指をくわえて眺めているだけだった。やはり社交ダンスぐらいは出来るようにならなければいけないなと痛感した。華やかなパーティーを楽しみ船底のエコノミークラスに戻ったのは深夜近くになっていた。

5. アーデンとボンベイ
その後船は紅海を航行し紅海出口でアーデンに帰港したのだが政情不安定の為上陸には危険が伴いますとの船内アナウンスがあった。若い連中は最悪の時は船まで泳いで帰って来る覚悟で上陸したのだが年寄り組の私はもしもの事を考えて船に残ることにした。船のデッキから陸地に向かう若者たちを見ていると若者たちを迎えに来たボートから代りにアーデンの行商人たちが乗船してきて船のデッキでいろいろな品物を並べて商売を始めた。並べられた品物の中に一寸洒落たデザインの皮製のクッションカバーを見つけた。10ドルの値札が付いていたので値切ってやろうと思って「5ドル」と言うと売り手は即座に「よし売った」と手を打ったのだ。こちらが付けた値なので後に引けずに買ってしまった。2ドルぐらいに言っとけばよかったと思ったが後の祭りだった。そのクッションは長いこと日本の自宅に飾られていたが見るたびに買った時のことが思い出された。アーデンは即日出港しインド西部のボンベイ(現在のムンバイ)に9月18日入港した。明るいうちに小舟で海辺にある洞窟を巡ったりした後、湾を見渡せる丘に登り女王の首飾りと言われる美しい湾の夜景をみたのだがラオス号が停泊している桟橋近くの街は汚く、臭いこと、もう言葉では言い表せない程だった。街を歩くとまず脳震とう起こしそうな悪臭に悩まされまる。小便と大便とその他諸々の病気の臭いが至る所に漂い、歩道には生きた人間が死人の如く裸でゴロゴロと転がっている。道の両側には薄暗い部屋から鉄格子越しに汚らしい女性達が手を差し伸べてくるのだ。勿論現代のムンバイにはこんな場所はなくなっていると思うがその強烈な印象は以後数日脳裏に焼き付いて離れなかった。船に戻ってから着ていった衣類を全部洗濯したのだが当分何かの病原菌が体内に入り込んでしまったのではないかと心配だった。其の上ボンベイに停泊中泥棒君にやられてしまった。損害は少なかったがもうインドはこりごりと思った。ところがボンベイから乗り込んできた日本人青年Y君から全く別の話を聞くことになったのだ。Y 君は長身の好青年でインドの大学に3年間留学していたということだった。数学を専攻していたそうだがインドにはとてつもない天才がいるのだそうだ。昔からインドには著名な数学者がいるし学校教育でも数学は非常に進んでいるとは聞いていたが実際を見てきた人の話を聞くのは初めてだった。後に国際機関で一緒に仕事をしたインド人の家系からはノーベル賞をもらった人が二人も出ていると聞いたことがあるがやはり頭のいい人は多いようだ。又、Y君がインド滞在中のホストファミリーの家は北部の大変な大金持ちで広大な敷地内には湖もあり建物は大理石をふんだんに使ったアラビアンナイトに出てくるお城のようであったというのだ。インドにはカースト制が根強く残っているとは聞いていたがボンベイで見てきた貧民窟とのギャップの大きさに戸惑うばかりだった。

6. キャンディ (スリランカ)
1965年9月20日ラオス号はセイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ港に投錨した。ここでラオス号は2日間停泊した。早速研究熱心な杉本さん夫婦の提案で、東大生の長山君、明治大学生の二人その他数名で高原観光地として名高いキャンディに行ってみる話がまとまった。タイミングよくキャンディ行きのバスあり、乗って小一時間も走った頃、気が付くとバスは木の生い茂った急な山道を登っていた。暫くすると左手がジャングルのような植物園だった。キャンディは緑が生い茂る高地の中にある街で、スリランカの文化的、精神的な首都と言える。偉大なキャンディ王達の最後の砦として、ここには多くの歴史があり、多くの古代の習慣、芸術、工芸と毎日の儀式がまだ精力的に行われている。キャンディの町に昼ごろ到着した私達一行はまずブッダの歯が納められているという仏歯寺院を見学することから始めた。仏陀の歯がおさめられているというだけあって大勢の信者や観光客で溢れていた。こんなところに仏陀の歯が運ばれてきているのかと思うとなんとなく不思議な気がする。仏歯寺院見学の後は土産品を探しながら街を散策し湖畔のレストランに入って早めの夕食を取ることにした。その晩はキャンディにあるユースホステルで一泊することになっていたのだが、混む前にチェクインし少しでも良い場所を確保したかったのだ。私は激辛のカレーを食べてみたくなり「Please serve me the hottest curry」と注文した。出てきたカレーライスは真っ赤な色をしていたが辛いものが大好きな私は出されたカレーをスプーン一杯一気に口に含んだ。その途端一気に火が口の中で燃え広がった。そんな感じがしたのだ。辛いというより痛いのだ。口の中全体がひりひり痛み出した。すぐ水を飲んで痛みを抑えようとしたのだが効果はなかった。その痛みは2・3日消えなかった。食事が終わってユースホステルに着いてみると驚いた。あずまやのような貧相な小屋の土間に平らな板のベッドが並んでいるだけなのだ。板の上には薄汚れた布切れが置かれていたがクッションの様なものはなく板の間に寝るようなものなのだ。しかもベッドは長さはあっても横幅が肩幅と同じぐらいで寝返りを打てば間違いなく転げ落ちそうだった。前日から風邪気味で熱があった上に激辛のカレーのお蔭でフラフラになっていた私にはとても寝れそうになかった。
仲間に事情を話して私一人だけ近くのホテルに泊まることにした。留学中いろいろな体験をしてきた私はこんなことで弱音を出すのは悔しかったのだが身体を壊しては元も子もないと自分を納得させた。ホテルは南国風の作りで寝室のベッドは大きくて真っ白いシーツが気持ちよくてゆっくり休めた。英国風の朝食もおいしく大分元気を取り戻すことが出来た。しかし一つだけこのホテルで未だに首をかしげていることがある。 用を足しにトイレに入ると水洗ではないのはいいのだがどこを見回してもトイレットペーパーがないのだ。その代りに天井から割と太い縄が垂れ下がっている。以前にアジアでは用便の後縄でお尻を拭く風習のある国があると聞いたことがあったのを思い出した。あれだなと思ったのだが垂れ下がってきている縄をどう使うのか皆目見当がつかなかった。その場は持っていたちり紙で何とか用を足したが未だに天井から垂れ下がっていた縄の使い方が分からないままでいる。コロンボの町に戻ってからはセイロンの有名な宝石店を覗き見したが色々な宝石の価値が分からないので何も買わずに船に戻った。結構お買い得な宝石があった筈で何も買わなかったのは今思うとちょっともったいなかった。

7. 船火事発見功労者
インド洋に出ると船はひたすら東に向かって進むことになる。すると毎日朝食時間に遅れてしまうのだった。朝食は9時から10時までだった。9時までに食堂に行くのだが食事は既に引き下げられている毎日が続いたのだ。それは東に向かう航海で一日でちょうど経度が約15度づつずれて時間が1時間先に進んでしまうのだ。だから自分の時計で9時でも船上の時刻は既に10時になっていて朝食時間が終わっていたというわけだ。暫くはこの仕組みに気が付かなかったのでおいしいフランスパンを何度も食べそこなってしまったのである。この食堂は夜になると映画館になったり、またはダンスホールに早変わりする仕組みだった。インド洋を航海中のある夜私は夕食後食堂に残って手紙を書いていた。 気が付いてみると他の船客は皆船室に戻ってしまい私一人になっていた。船の職員もその時に限って持ち場を離れていて誰もいない状態になっていた。手紙を書きあげてふと映画上映の時にスクリーンの代わりとなる奥の白いカーテンを見あげた時、左の上部がほわっと橙色に色づき、間もなく煙が出てきた。 火事だ!とすぐにパーサーを呼んだ。火が出ていたが発見が早かったので何とか大事に至らずに消化することができた。 出火の原因はカーテンの裏にあったスピーカーが何かのはずみでショートを起こしたとのことだった。 私は船旅中の火災発見功労者として船長に感謝されたが正に肝を冷やした出来事だった。 それまで飛行機事故が怖くて飛行機を避けていたが船でも大海の真っただ中で火災を起こせば飛行機事故のように瞬時には死に至らなくとも命を落とすことになるのは間違いないだろう。私の船旅安全神話が崩れた出来事だった。

8. シンガポール
シンガポールは素朴な南洋の国と言う感じで1966年当時は未だ高層ビルの立ち並ぶ近代都市の様相を呈していなかった。ラオス号が停泊した桟橋から街中までは歩いてもたいした距離ではなかった。港近くの公園で記念碑のようなものが目に入り、現地の人に何の記念碑かと尋ねると「これは日本が占領時代に残虐な行為をしたことを後世に伝えるための記念碑である」とのこと。何か不吉な予感がしないでもなかったが街の散策を続けることにした。暫く行くと鮨屋らしき店があり日本食に飢えていた一行が喜んだのは言うまでもない。すし職人はどうやら中国系の人のようだがマグロとかかっぱ巻きとか日本語で注文しても通じて味も値段もまあまあで満足だった。鮨屋を出て商店街をいろいろと冷やかしながら見て歩いた。宝石商あり、布地店あり、小物店ありと賑やかだ。どの店でも我々を日本人と見ると片言の日本語で売り込んでくる。仲間の中には根負けして買ってしまう者も出て来たが私は一切無駄なものは買わないぞと心に決めていた。ところが「ワニ皮を日本に持って行けば高く売れるよ」という言葉でついその気になって2つも買ってしまった。私の背丈ほどもあるワニの姿そのもののワニ皮は珍しかったのだ。買ったワニ革の一つは帰国後鞄屋に頼んで立派なハンドバックにしてもらい母に贈ったのだが残りの一つは長いこと書斎の壁にかけていた。引っ越すことになりそのワニ革を売ろうと思ったとき、ワシントン条約が締結されていた上売買証明書も紛失していたのでどこの皮屋も買いとってくれない。やむなく友人に引き取ってもらうことになった。ワニ革のほかにはタイガーバームガーデンで当時お土産品として日本で人気のあったタイガーバームを購入した。当時シンガポールは軟膏薬タイガーバーム販売の拠点であり、この庭園は中国文化の紹介と共にタイガーバームの広告をも兼ねていたのだ。
さて夕方になると街の広場に展開される食い物屋の屋台の群れが活気付く。海鮮物の炒め物が美味しそうだが何となく衛生面が心配で庭園風レストランに入った。ラオス号で親しくなった大学生達5人と一緒だった。シシカバブを食べようと言うことになり30串注文した。待つこと暫くして注文を受けたウエイターが大きな皿に山盛りのシシカバブを運んできた。どう見ても30本以上ある。「こんなに頼んだ覚えがない」と言うと「いや確かに3千本注文した。どんどん運んでくる」と言い張るのだった。こちらは間違いなく30本と念を押した記憶があるしもし3千本と聞こえたなら念を押すのが普通だから「レストランの責任者を呼んで来い」と言うと間もなく責任者がやって来た。責任者は我々の言い分を聞くと3千本などと言う突拍子もない数量を注文するはずがないと担当給仕の手違いをあっさり認め引き下がった。その時の給仕の我々をにらみつける様な顔はとても恐ろしいものだった。日本人に対する嫌がらせとしか思えなかった。それほど日本に対する恨みが強いのかと思い知らされた出来事だった。
さて、レストランを出ると有名なブギ・ストリートに行ってみようということになった。チャイナタウンに近い路地裏にはいろいろな国から美人(?)の「おかま」達が集まっていた(現在はシンガポール政府によって取り潰されてしまい存在しない)。当時日本の「おかま」はどう見ても男だなと言う感じだがここの「おかま」達はレベルが高く、どう見ても女性にしか見えなかった。男性気が全く見られないのだ。顔自慢、プロポーション自慢のオカマ達が集まっていて、皆ファションモデルのように歩き方もしなやかで優雅なのだ。ここでゆっくり目の保養をして船に戻ったのは深夜に近い時間だった。

9. 女郎屋と化した客船ラオス号
タイのバンコックに入港する日の朝だった。またもや時間調整を忘れて食堂に入った時には朝食の片付けが始まっていた。やはり今日も朝食をミスしてしまったかとあきらめて船底の自分コンパートメントに戻ろうとした時、食堂の出入り口にあるカウンターで乗客係の船員が数人の客から何かの注文を受けてしきりとノートに記入しているのが目に入った。私は何の注文を取っているのか多少気になったのだがそのまま船室に戻って横になった。暫くすると上の方でザワメキガ聞こえてきた。甲版に上がってみると陸地からカヌーのような細長い小舟が数艘それぞれそれらしき服装の数名の女性を乗せてラオス号に向かって来るところだった。女性達はラオス号に乗り込んでくると予約していた男達に順番にあてがわれ、予約していなかったものは船室から退室するよう言われた。暫く言われたとおりに甲板に退避してから地下の廊下に降りてゆくとあちらこちらから女たちの「よがり声」が漏れ聞こえてきたのだ。まさに船底客室は女郎屋に変貌したのだった。航海中に知り合いになった学生達も何名かは参加したようだった。中にはその時初めて男になったと噂された有名国立大生も入っていた。病気でもうつされたらどうするのだろうかと他人事ながら心配したがそれも人生経験なのであろうかと納得するしかなかった。

10. バンコクでの出来事
船がバンコックに近づいて航行速度を落とし始めたころ先方から白い客船が近づいて来た。ラオス号によく似ている。それは横浜からマルセーユに向かうフランス郵船の姉妹船のカンボジア号だった。 すれ違いざまお互いのデッキに集まった船客同士が互いに手を振り合いエールを交換した。横浜、マルセーユ間の中間ぐらいまで来たのかなと思うと勇気づけられた。 バンコックに上陸すると観光ツアーに参加した。まずは有名な水上マーケットで買い物だ。かつて「東洋の水の都」と呼ばれていた歴史を持つバンコクには豊かな運河があり小船に積まれたフルーツや魚などが売り買いされる水上マーケットはとても興味深いものだった。 外人観光客目当てと思われる宝石商の小舟もありスリランカで買い損なったキャッツアイの指輪をリッコと母への土産として購入した。 その後市内の金色に輝く寺院等を見学しレストランではきらびやかな衣装を着てしなやかに腕や手首をくねらせながら踊る優雅なタイ独特の踊りを見物しながらタイ料理を満喫した。レストランを出て船に戻ろうとした時だった。医学生の長山君がタクシーの運転手が面白いところへ案内すると言っているので皆で行かないかという。 未だ船に戻るには早い時間だし行ってみるかということになって有志5人がタクシーに乗り込んだ。 タクシーはバンコックの住宅街の裏道をくねくね回りながら進んで行く。 どこか秘密の隠れ家にでも連れて行くようだ。 暫くするととある別荘風の家の前で止まった。 タクシーの運転士から連絡を受けていたのか若い男が出てきて門を開けて我々を家の中へ招き入れた。 長い廊下を通り奥の部屋に行くとなんとそこでは若い男女がシロクロショー(男女の絡みを見せるショー)をやっていた。 シロシロとかシロクロとかいう言葉は知っていたが本物を見るのは初めてで息を飲んだが流石に医学生の長山君は平然としていて演技している男女に近づきつぶさに絡み具合を観察し始めた。 当時日本では医学博士謝国権氏の著した医学啓蒙書でハウツー本の「性生活の知恵」が出版されてミリオンセラーとなっていた。 長山君は彼なりの本を出して二番煎じを狙っているのかなと思ったがその後彼がその種の本を出したという話は聞いていない。

11. マニラ
マニラでも第二次世界大戦の終戦間際に日本軍が残虐な行為を行ったという碑が市内の公園で見られた。今では対日感情はそれほど悪くはないと思われるが1966年当時は未だ日本人を恨んでいるフィリピン人が多く、それを実感する出来事に出くわした。私は外国の町を訪れると裏町を一人で探索して歩くのが好きだ。ラオス号から降りて港近くの人気の少ない裏道を一人で歩いていると突然目の前に一人の男が飛び出してきた。「お前は日本人か?」と訊かれた。「日本人なら?」と訊くと「うちの親族は日本人にひどい目にあった。 ただではおかない」と凄まれたのだ。一瞬身の危険を感じた。こんなところで半殺しにでもあったら大変だ。その時とっさに頭に浮かんだのが日本人でなければいいのだということだった。英語が喋れたのが幸いした。「俺はアメリカのネイビーのもので今しがた下船してきたところだ」と言うと「それならいい」とあっけないほど簡単に道を開けてくれたのだ。私はわき目も振らずその場から遠ざかった。船に戻ってこの話をすると私と同じく一人でマニラ市内をぶらついたHさんがやはりひどい目にあったという。市内の公園を散歩していると一人のフィリピン人が親しげに話しかけて来たそうだ。日本人なら是非ご馳走したいからと言われ誘われるままその男について行った。家につくと家族みんなに歓迎されいろいろご馳走になったところでお風呂に入って汗を流したらと言われたそうだ。すすめられるまま浴室で身体を洗いいい気分いなって出てくると衣類がない。迂闊にも罠にかかったと気が付いても後の祭り、結局は大金を取られて汚い服を着せられ追い出されたというのだ。まあ命を取られなくてよかったと皆に慰められたがこれも対日感情の悪さを表していたのだろうか。ここまで悪い話ばかり書いたが医学生長山君が企画したマニラから約95km離れているピナツボ山(Mt. Pinatubo)へのハイヤーを利用してのドライブは楽しいひと時だった。

12. 香港
1966年10月6日ラオス号は最後の寄港地である香港に着きビクトリアハーバーの九龍半島側に停泊した。対岸の香港島を眺めると「東芝」や「味の素」、「ソニー」といったなじみ深い日本企業の看板が並んで見えて何となく日本に近づいたような気分になる。早速、仲良しグループの船友達とフェリーで香港島に渡ることにした。街にはロンドンで見たのと同じ赤い2階建てのバスがあちらこちらと走っている。狭い路地を歩き回っていると変なおっさんが近づいてきた。手に隠し持った写真をチラッ、チラッと見せて買え、買えと言うのだ。どうもポルノ写真を観光客にしつこく買わせようと付いてくるのだ。一緒にいた学生の一人が数枚買うとやっと我々から離れていった。そこからは杉山夫妻の提案で軟膏薬タイガーバームで有名だったタイガーバームガーデンに行ってみることになった。タイガーバームガーデンは、軟膏薬タイガーバームの売り上げで巨富を得た香港の富豪胡文虎(Aw Boon Haw)により私的別荘として1935年に建設されたhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3_(%E9%A6%99%E6%B8%AF)#cite_note-1ものが1950年代に一般に公開されたところである。 庭園の中心に7層構造のパゴダがあり、その周囲に中国仏教、儒教、また様々な故事や説話を題材としたジオラマが多数配置されている。所狭しと配置された地獄や極楽のジオラマを構成する人物・動物・怪物等の人形は極彩色に彩られ園全体に非常にキッチュな印象を与え、開放当時には観光施設として高い人気を集めたそうである。シンガポールのタイガーバームガーデンは香港のものより2年後に造られたということだった。
タイガーバームガーデンを出てしばらく歩くと人がたむろしている屋台の並んだ場所に出た。ゲテモノのような食い物がいろいろと売られていたが中でも一番驚いたのは大蛇をさばいていた屋台だ。空腹だったが何を食わされるかわからない気がしてとても屋台では食う気にはなれなかったので中華料理店に入った。高級な店ではなかったせいかもしれないがウエイトレスが乱暴で注文した料理をテーブルにポン、ポンと投げつけるようにおいてゆくのには閉口した。又、店員同士が話しているのも喧嘩をしているようで落ち着いて食べられたものではなかった。それまで聞きなれていた穏やかに響く中国語とは違い香港の人達が話す広東語はどうも響きがきつく怖い感じがしてしまう。食後はケーブル電車に乗ってビクトリアピークに登ったがそこから眺めた香港の夜景は実に素晴らしいものだった。 明日はいよいよ日本に向けて最後の航海だと思うと胸がいっぱいになった。

13. 初めてのホームシック
ラオス号が沖縄近辺の海域に差し掛かった頃突然ポータブルラジオに日本語の放送が飛び込んで来た。シアトルでも日本語放送はあったが、それは間違いなく母国日本の放送局のものだった。 4年前横浜から船でアメリカに向かってからそれまでホームシックにかかったことはなかったのになぜかこの時初めて胸が熱くなるのを感じた。ラオス号はまず神戸港に寄りそれから横浜まで行くことになっていた。私は居ても立ってもいられない気持ちになり神戸で下船して留学中に出来た名神高速道路をバスで名古屋まで行き、名古屋から新幹線を使って東京まで行くことに決めたのだった。トランクの荷物はラオス号に残し2・3日遅れて横浜に着いた時ラオス号に取りに行けばよいことが分かったからだ。1966年10月8日ラオス号は神戸湾に近づいた。船のデッキに出て神戸の町影を眺めて感慨にふけっていた時、海面に無数にぷかぷか浮いているものが見えた。よく見るとそれは紛れもなく大量の家庭ごみが浮遊しているのだった。どんな経緯で海に流れ出たものかは分からないが旅の終わりに見る光景としては望ましいものではない。4年前にカナダのバンクーバー湾入港時に見た朝焼けに輝く美しい小舟の群れとは何という違いだろう。見たもの、経験したものをありのまま書こうと思っていたのでいたしかたないがこのまま紀行文を終わらせるのは忍びない。
神戸で下船したのち叔父のいる名古屋まで名神高速バスに乗った。東京に戻る前に私の留学を陰で応援してくれていた叔父に土産品を届けるためだった。バスに乗ると女性バスガイドが「本日は名神高速バスをご利用いただきまことに有難うございます」と語り始めた。私はこの言葉を聞いた途端胸にジーンとくるものがあり目頭が熱くなった。 今でこそ外国でも「ご搭乗いただき有難うございます」というアナウンスがあたりまえになっているが、私が留学した当時はそのような温かい言葉はほとんど聞いたことがなかったのだ。やはり日本は素晴らしい国だと思った。これで私の4年に亘った留学体験記は終了となる。