1.<グッジーの青春放浪記>まえがき

インドに「6人の盲人と象」という寓話があります。6人の盲人があるとき象を触ったときの話です。象の鼻に触った盲人は「象はへびのようだ」といい、耳に触った盲人は「ウチワのようだ」といい、足に触った盲人は「木の幹のようだ」といい、胴に触った盲人は「壁のようだ」といい、尻尾に触った盲人は「ロープのようだ」といい、牙に触った盲人は「槍のようだ」といってお互いに自説を譲らなかったということです。

 

私は青春時代にアメリカ、フランス、ドイツに遊学(?)して自分自身が体験したことを基に書くつもりです。しかし、私も一人の盲人に過ぎなかったのではないかと考えています。ですからこの国はこうだとか何国人はこんなものだとか決め付ける気持ちは毛頭ありません。唯こんな一面を見たぞというだけではありますがその一面が自分の思っていたものとまったく違っていたものも多かったのです。私のお話は1962年に始まり1966年までつづきます。その間アメリカではミズリー州立大の黒人学生問題、キューバ危機、そしてケネディー暗殺が起こりました。フランスではベンバルカ事件、フランス人工衛星ディアマンの打ち上げ成功、そしてドゴールとミッテランの大統領決戦投票があり、ドイツは未だ東西分裂が続いていました。アジアのインドネシアではスカルノ大統領がクーデターにより失脚、日本では東京オリンピックが開催されそれに伴って高速道路や新幹線が作られました。

 

私はフランスより船で戻ってきたのですが横浜まで待ちきれずに神戸で下船し名神高速バスで名古屋に出て名古屋からは東海道新幹線で東京に戻ったものでした。街の道路標識がインターナショナルのものに置き換わっていましたし、日本を出る時には街に見られなかったコンビニがあちこちに出来ていたのに驚かされました。では横浜出航のところから話を始めましょう。いや、その前にちょっと留学にいたる経緯をお話しますのでもう少々お付き合い下さい。

 

2. 留学への準備(1)

試練の準備期間-留学への歩み(少々堅い話なので読み飛ばしていただいて結構です)

 

ここでどうしてシアトルのワシントン大学に留学することになったかについてちょっと触れておきたいと思います。

ハイゼンベルクの不確定性原理(Uncertainty Principle)は私の人生観、そして進路に大なる影響を与えた原理です。 アインシュタインが亡くなったとき高校の数学の教師が不確定性原理の話をしたのです(何故相対性理論の話ではなく不確定性原理の話になったのかは未だによく分かりません)。 それまで機械論的な宇宙観に偏っていた私は目が覚める思いがしたのです。 アインシュタインは「神はサイコロを振り給わず」と主張し続けたと言われていますが量子論には「シュレーディンガーの猫」や「多世界解釈」とかSFのような話題が多く面白いですね。 日本では早稲田大学の理工学部機械科に入ったのですが機械科の勉強もそこそこに量子学を勉強すべく大学の図書館で理論物理の本ばかりを読んでいて授業にはほとんど出ませんでした。 4年でなんとか機械科を卒業出来たのですが実際のところ授業に出たのは2学年目と卒論を真面目にやった4学年目ぐらいです。 3学年の時には13科目の専門科目全部「不可」という素晴らしい(?)成績でした。そんな頃久しぶりにクラスに出ると隣に座った同級生から「途中から編入した方は大変ですね」と言われました。 編入生でない私の顔を3年間教室でほとんど見たことがなかったからでしょう。

量子論を勉強したいと言う願望と同時に、私には幼い頃からアメリカに行ってみたいと言う夢がありました。そんなわけで量子力学を勉強しにアメリカの大学に留学しようという考えが固まってきたのでした。

 

ところが留学の準備を進めるうちに大変なことがわかってきました。まず、留学の費用をどうするかです。当時の為替レートは1ドル360円で大学卒の初任給が123千円の時代です。親父の月給も6万円弱だったと記憶しています。最初の半年分ぐらいの学費は親にせびれても長期間は無理です。そこでスポンサー探しから始めました。まず、YWCAで英文タイプを習い中古のRemingtonポータブルタイプライターを1万2千円で購入し、アメリカでスポンサーになってくれるかもしれないと思われる諸々の研究所とか協会に手紙を出しまくったのです。滞在費だけでも出してくれるところがあれば助かると思ったのでした。アメリカと言う国はすごいと思いました。出した手紙にはすべて丁重な返事が来たのです。但し、招待してあげようと言うものはひとつもなくすべての返事は「貴君の熱意には敬意を表するが同じ研究は日本のどこそこの研究所(又は大学)でやっているのでそこを紹介しよう」というものでした。研究テーマそのものを学びたかったのではなくて渡航費を出してくれるところを探したかったのでこれではまったく目的にかないません。フルブライト奨学金などは成績優秀でないとだめだし、こうなると私費留学を考えなければなりません。

 

3. 留学への準備(2

そうこうしているうちに早稲田を卒業する同じ年の秋からの留学はタイミング的に難しいことがわかりました。「俺も一緒に留学するよ」と言っていた学友達も就職試験が一段落した頃気がつくと皆一流企業に就職が決まっていました。結局どこの会社も受けなかったのは私一人だったのです。他人を当てにしてはだめだ、よし、何がなんでも一人で留学して見せるぞと心に決めたのはこの時でした。留学を一年間先に延ばしてその間出来るだけの準備をしておこうと思いました。英会話をしっかり勉強しておかねばなりません。英語はどちらかと言えば得意科目でしたのでボキャブラリーには可なり自信があったのですが無口がわずらいして会話が苦手でした。そこで複数の英会話学校を掛け持ちしたり、ジャパンタイムズで英会話教えますとの広告を出していたいろいろな外人に教えを請いに行きました。ワシントンハイツの米軍将校夫人とか、フィリピン大使館の領事の奥さんとかイギリスから来た風来坊の青年とか米国の牧師さんとか手当たり次第に習いに行ったり親しくなって一緒に旅行したりして会話力をつけてゆきました。又、ユースホステルの23の英語クラブにも参加しました。そこで知り合った友人が新しい英会話のクラブを設立する時にも協力し外人ハントの会なども催しました。

 

私費留学のためにはまず科学技術庁の試験にパスしなければなりませんでした。その試験は心配したほど難しくなくパス出来たのですが問題は留学先の大学を決めなくてはなりません。自分としては理論物理の分野で有名だったプリンストン大学、パーデュー大学、コロンビア大学とかいったところに行きたかったのですが入学要綱を取り寄せてみるとほとんどの大学が私費留学の場合米国内に保証人が居ることを受け入れの条件としていることが分かりました。日本では顔の広かった親父もアメリカには一人の知り合いもいませんでした。十数校手紙を出しておいたのですが保証人なしで受け入れてくれる大学はシアトルのワシントン大学1校でした。これで留学先の大学は決まりです。次なる問題は入学許可を取ることです。要求されたものは早稲田の成績表、担任教授の推薦状、信頼できる機関による英語力認定書、そして日本の保証人である父親の1,400ドル以上の銀行口座残高証明書でした。英文の残高証明書は銀行が用意してくれましたし、英語力認定書は会話学校の米国人教師が快く作ってくれました。問題は大学の成績証明書と教授の推薦状でした。

 

4. 留学への準備(3

先にお話したように私は機械科の専門科目で13もの「不可」をもらっていました。幸いなことに早稲田の場合は取り直して「優」とか「良」を取れば「不可」は記録に残りません。

3年の時は留学に成績表の提出が必要だなんてことはまったく頭になかったものですからクラスにも出ず、教材も読まず試験を受けたのです。 「不可」となるのはあたりまえだったのです。見かねたクラスメートが試験中模範解答を回してきて写せ写せといってきたのですがカンニングは一切しない主義でしたので他人の模範解答を利用したことは一度もありませんでした。結局追試、追試で「不可」を消して行ったのですが一夜漬けではなかなかよい点は取れません。何科目かは追試の追試を受けました。それでも合格点がとれない科目が一つ残りました。担当のO教授のところに行き留学したいので何とかしてほしいと掛け合ったところ「よし、分かった。ここに座って俺の解説をよく聞け。そして解説が終わったところで俺がわかったかと聞くから、分かりましたと答えてくれ」と言われたのです。解説が終わり教授が「解ったか?」といったので私は「はい解りました」と答え、合格点をいただいたのでした。

 

さて、最後の難問が担任教授の推薦状です。あたって砕けろです。卒論でご指導いただいたT教授に英会話学校の先生に協力してもらって作成した英語の推薦状を持って行きサインしてほしいと拝みこみました。 T教授はその推薦状をしげしげと見つめ「君、Excellentという言葉の意味を知っているか?」と言われました。 確かに推薦状には私がExcellentな学生で入学以来クラスをリードしてきたと書いてあります。「はい、知っています」と答えると教授は「この推薦状、俺は許すが早稲田が許さないぞ」と言われたのです。これにはぐうの音も出ませんでしたがここで挫けたらそれまでの努力が水の泡です。T教授には私の留学に対する長年の思いを切々と訴えました。そして終に自分で作成した推薦状に教授のサインをいただく事が出来たのでした。

 

5. 留学への準備(4

ワシントン大学から入学許可の書類が届いたのはそれから間も無くの事でした。最後に解決しなければならなかったのは渡航費です。飛行機代は当時の金で30万円以上していましたからとても工面できる額ではありません。いろいろ悩んでいる時叔父が貨物船で行ったらどうだと言いました。仕事の関係で知っている船舶会社に頼んでアメリカ行きの貨客船(貨物船だが少人数の客も乗せられる船)に乗船できるよう頼んでやろうと言うのです。これで決まりです。船賃の9万円は大学時代家庭教師でためたお金で買っていたポンコツ車が5万円で売れましたので差額を親に出してもらうことで解決です。但し渡航手続きは旅行会社に頼むとお金がかかるので親友の先輩が勤めていた旅行会社に出向き自分で書類を作りたいと言うとその先輩は「こんなの自分で作る人などいないぞ」と言いながらも私の熱意に押されて丁寧に書類作成を手伝ってくれたのでした。

 

留学を一年先延ばしにしたおかげで大分時間に余裕が出来ました。英会話だけではもったいないので早稲田大学に入る前から手がけていたフランス語とドイツ語の会話にも力を入れ毎日フランス語とドイツ語で日記をつけ将来に備えました。私はアメリカで勉強した後はフランスとドイツに渡りそれぞれの言葉を勉強したいと思っていたのです。高校時代に英語の恩師からEtymology(語源学)の面白さを教わり毎日のようにWilliam SkeatEtymological English Dictionaryで学校で習った英単語の語源を調べるのに時を忘れるほど熱中していたので自然と多くの言語に興味を持つようになっていたのです。大学受験でも理科系に進むか外語大にするかずいぶんと迷ったものです。ここで一見アメリカ留学に関係ないように思われる第二外国語の話をしたのはこれらの外国語がアメリカに渡ってから思わぬところで大変役に立ったからです。

 

話は変わりますが当時留学を考えるのに参考になった書籍が3冊ありました。 犬養道子の「お嬢さん放浪記」(1958)、ミッキー安川の「ふうらい坊留学記」(1960)、そして小田実の「なんでも見てやろう」(1961)です。中でもミッキー安川の「ふうらい坊留学記」には大変勇気付けられました。なぜなら私と同じように一人の知り合いもいないアメリカに単身乗り込みいろいろなアルバイトをして頑張った話だったからです。アメリカに渡ったのもこんな背景があったのですが最終的には挫折し理論物理の勉強を諦め数値解析を学び帰国後はコンピューター分野に身を投ずることになったのでした。それでも若いころの夢は忘れがたく今でも事あるごとに物理の解説書を読みあさっています。 留学した当時はクォークが話題の時代でしたが最近では超ひも理論(Super String Theory)の時代になっています。 超ひも理論で大統一理論が完成に近づきつつあるようで興味津々ですが10次元の話なので私の頭では理解するのが難しいようです。 こういった現実離れした話に没頭していると膨張を続ける大宇宙そして150億年もの時空の中にあって我々の存在は小さな小さな点にもならないような気がしてきます。 この小さな小さな人生を如何に悔いなく全うするかを考える今日この頃です。

さて、長ったらしい前置きはこの辺にしていよいよ横浜港から青春の船出をするところからお話を始めましょう。

 

6. 196295日ついに横浜港から船出

日産汽船の貨物船「日令丸」は当初の予定を3日遅らせて95日ようやく横浜第三桟橋を後にしました。12人まで船客を取ることの出来る貨客船だったのですが船客はたったの2人、私とジョンズ・ホプキンス病院に研修に出かける看護婦のR嬢だけでした。船が桟橋を離れだんだんと見送りの人々の影が小さくなり見えなくなった時、時計の針は午前730分を指していました。何とも言えぬ寂しさがこみ上げて来ます。 我々2人の船客の心持を察してか穏やかな風格のパーサー(事務長)が寄ってきてやさしくいろいろな話を聞かせてくれること約1時間、船もようやく横浜から遠のいた模様です。まだ対岸の見える2階デッキからひとまず船室に戻りました。なんとなく浮ついた心境です。別れ際にガールフレンドから手渡された手紙を取り出し読み進んで行くうちに胸がジーンとしてきて目頭までが熱くなってきました。畜生、バッキャロウ、誰かに怒鳴りつけたいようなおかしな感じです。

 

簡単に朝食をすませ3階デッキに出てデッキチェアーに横になりました。かかりつけの眼医者が言っていた通り洋上の太陽の反射はすさまじいものです。サングラスを持ってきてよかったと思いました。広大なる海を眺めていると大変なことをやらかしてしまった、シマッタと言う気持ちが断続的に襲ってくるのです。もう永久に愛すべき人々に会えないのではと言う錯覚に陥ります。渡米したい一心でことをここまで進めてきたのにアメリカには知人は一人もいないのです。先は全く読めていません。しょうがない、眠るしかないとデッキチェアーに横になったまま覚悟を決めて目を瞑りました。どのぐらいうとうととしていたでしょうか、突然目の前が真っ赤になって体ごと溶鉱炉に投げ込まれるような気がして目が覚めました。目の前に無限に拡がる海、海。薄情な海は何一つ慰めの言葉を投げかけてくれません。ただ目の前に拡がっているだけです。焼け付くような太陽に照らされた海面がギラギラと輝いて孤独感を煽り立てます。太陽の熱で体中が燃えてくるようです。

 

豪勢な昼食の後再び3階デッキに出てデッキチェアーに横になりました。満腹のせいか睡魔に襲われ眠りに落ちました。時間がどれぐらい経った頃だったろう突然、階段を駆け下りてくる音で目を開けると「鯨だ、鯨だ」と言う船員の声が聞こえます。慌てて「何処ですか?」と探してみたがもう見当たりません。残念しごく。その後船内の探索に出かけました。「日令丸」は7千トン弱(正確には6,648トン)でそれほど大きい船ではありませんがやはり外国に行くだけあってそれなりの装備が施されていました。4階には幹部船員である船長、機関長、通信長、事務長の船室と並んで客室があります。最上甲板(デッキ)には輪投げセットやゴルフセット(プラスティックのゴルフボールがひもでつながれている)等があり適当な運動はここで出来ます。下の階に行くとかなり広い浴場があります。一般船員の船室も下の階にありました。あとは貨客船なので貨物用のコンパートメントが船のだいぶぶんをしめています。

 

午前中、持ってきたポータブルテープレコーダーで筝曲を聴きました。午後の昼寝中何処からともなく「さくら、さくら」の音色が聞こえてきました。まさかと思ったがやはり筝曲の「さくら」の曲のようにしか聞こえません。音源を求めて船内をうろうろしてみたのですが結局わからずじまいでした。耳のせいかもしれません。夜は事務長(パーサー)、R嬢と3人してサロンにて巨人・阪神戦を聞きながら話し合いました。話しているうちにパーサーが大学の先輩であることが分かりなんとなく心強くなりました。この夜巨人の王が小山投手から3連続ホームランを放ちました。

 

7. 航海中の日々

波の穏やかな日はデッキで昼寝をしたり、ゴルフボールを打ったりして時間をつぶしました。私の船室と同じ階には通信室がありました。 通信長の江本さんは外部との通信をモールス信号でツートン、ツートンと叩いています。 紙切れに電文を書いて持って行くと快く電報を打ってくれました。 四六時中通信をしている訳ではないので時間を見計らっては江本さんを訪ねるのが我々の日課のようになっていました。話のうまい江本さんの諸外国での経験談には夢をかりたてられたものです。通信長はギターが上手でいろいろなジャンルの曲を奏でては我々を楽しませてくれました。部屋にはいろいろな音楽テープが置いてありました。 最初の日に耳にしたあの琴の音もそのうちの一つだったようです。 

 

デッキに出て海を眺めていると目の前をビュンビュン横切って飛んでゆく魚があります。トビウオでした。優に5060メートルは空中を飛んで行きます。 何十匹という数のトビウオが早さを競うように船首に向かって飛んで行くのは見ごたえがありました。食事は船長や上級船員と一緒であったせいか結構豪華でした。ビフテキや豚カツ、天ぷら等々で毎日違う料理が出て来てグルメではない私には十分満足のいくものでした。

 

8. 太平洋ど真ん中

日令丸は横浜から米国西海岸のシアトルに向かうのですが途中カナダのバンクーバーに寄航します。 横浜からバンクーバーまでは8日間の船旅です。長いようでもありますが楽しかったせいか思ったより短く感じられました。 懸念していた船酔いにかからなかったからでしょう。中学の時、伊豆大島に行き帰路大シケで胃が空になるほど吐き続けたことがあります。また、波静かな瀬戸内海の小豆島に向かう船でさえも船酔いに悩まされていました。 バンクーバーまでの航海は比較的穏やかでしたがベッドに横になるとグググと海底に引き込まれてゆくような揺れは毎日ありました。 

 

航海の半ばごろ遭遇した大シケはひどいものでした。 食卓の食器類はボクシングリングのロープの様に食卓の周りに張られていたロープにひっかかり転げまわります。 風呂場に行けば浴槽が遊園地のビックリハウスの床や壁のように大きく傾きお湯はほとんど流れ出ていて風呂の体をなしません。 そんな大しけの中、私はマストの中ごろまで登り持っていった8ミリ映写機で大シケを撮影しました。その時はピッチング(船のたて揺れ)がものすごくジェットコースターに乗ったように急上昇、急降下を繰り返していました。少しは気持ち悪くなるのでしたが吐くところまではいきません。 一方もう一人の船客R嬢は船酔いで完全にグロッキーになり船室に籠ったまま出て来ません。東京の自宅に「太平洋ど真ん中、看護婦酔った俺元気!」という電報を打ったのはその時です。

 

実に不思議です。あんなに船揺れに弱かったこの私が何故平気だったのか。一つだけ思い当たることがあります。 船でアメリカへ渡らなければならないと決まった時、船酔い対策として自分で考えた方法でした。 後楽園遊園地には大きな円形壁に背をあてて立つと円形壁の回転が始まりそれと同時に床板が下がってゆくのに遠心力のおかげで体は壁に押し当てられたまま宙に浮く装置がありました。 渡航前この遠心力浮遊機に何回も乗って回転に体を慣らしていたのでした。 それが効いたとしか思えませんがとにかくそれ以来私は何度船に乗っても船酔いにかからなくなったのです。 

 

9. 素晴らしきかな新世界!とカルチャーショック

横浜を出て8日目の早朝ざわめく物音にベッドから飛び起きました。デッキに駆け上がります。未だ薄暗い中地平線上にうっすらと黒い影が見えました。「陸地だ!」と誰かが叫んでいます。じっと目を凝らして地平線を見続けていました。その内、東の空に浮かぶ雲が少しずつピンク色に染まり始めます。陸地がはっきりした姿を現すのにはそんなに時間がかかりませんでした。気がつくと周りには数多くの小船が朝焼けで眩しいほどの海面に揺れています。目に入る光景がすべてピンク色に染まり眩しかった。素晴らしい朝焼けのバンクーバー湾でした。「ついに見た素晴らしきかな新世界!」と日本の両親に電報を打ちました。思い出深い外地への第一歩でした。

 

港には日令丸の親会社駐在員が出迎えにでていました。幹部船員と我々二人の船客はダウンタウンの中華街に夕食の招待を受けました。しこたま紹興酒をご馳走になっていい気分になったところで名所に案内すると言われました。暗闇の中我々を乗せた車は港を見下ろす小高い丘の上に出ました。周りを見てごらんと言われ暗闇に目を向けると数え切れないほどの車が駐車しています。見る限りどの車内でも人目をはばからず男女抱き合っている姿がシルエットとして映し出されています。いろいろな形での愛の営みが繰り広げられているようです。ほとんど人前でのキスシーンなどには出くわした事のなかった者にとっては強烈なカルチャーショックの始まりでした。

 

同じ夜、もう一つのショックを受けることになりました。案内役の駐在員兼運転手の運転振りです。かなり酔っ払っていたらしいのですが千鳥足もいいところで身体が腑抜けになり真っ直ぐに歩けないばかりか運転席に座ってもエンジンキーがどうしてもキー穴に入られない状態です。人の助けを借りてやっとエンジンをスタートさせますが酩酊状態でした。蛇行運転で乗せられている者は生きた心地がしません。人生の先輩である上級船員たちも停泊中の船まで送ってもらうので何も言わず黙って同乗したままです。しばらくして環状フリーウエーに入り込みました。そこでとんでもないことに気が付きました。真正面から皓々とヘッドライトをこちらに向けて何台もの車が突進してくるではありませんか。どんなによく見ても正面から来る車は我々の車の走っているのと同じレーン上を走って来ているのです。我々の車はハイウエーを逆走していたのでした。何とか港の日令丸に戻ったときは皆ぐったりしていました。

 

10. いよいよシアトルへ

バンクーバー停泊中の日令丸は積荷の関係で数日は出航できないことが分かりました。シアトルまでは<グレイハウンド>バスを使えば数時間で行き着ける距離です。はやる気持ちで荷物は船がシアトルに着いた時点で港まで取りに行くことにし陸路シアトルに向かうことにしました。シアトルまで日令丸で行くことになったR嬢や親しくなった船員たちに別れを告げシアトル行きのバスに乗り込みました。 <グレイハウンド>バスは冬季雪の上でもチェインを着けずに走るような重量のあるバスでそのエンジン音はかなりけたたましいものです。かなり英語のヒヤリングには自信を持っていたのですが早口でしゃべる運転手の声はエンジン音と走行音にかき消され何を喋っているのか理解出来ません。バンクーバーを発ってしばらくするとカナダと米国の国境となります。そこでバスの運転手が外国人乗客に対して何か注意事項を述べたのですが聞き取れません。ままよ、なるようになれとばかり無視することにしました。実はこれが後になっていろいろな法的手続きをしなければならなくなるとは思っても見なかったのでした。

 

数時間後バスはシアトルのダウンタウンにあるバスターミナルに無事到着しました。さあ、これから一仕事、ワシントン大学の留学生担当事務所に電話をしなければなりません。バスターミナルの公衆電話から外国での初めての電話です。緊張の瞬間でしたが以外にも受話器の向こうから聞こえてきたのはやさしい女性の声でした。流石に留学生担当だけあってゆっくり丁寧に話してくれたのでよく理解出来ました。名前を告げるとすぐ書類を調べたらしく「あなたのホストファミリーのミセス・デイビッドソンが迎えに行くから動かないでそこで待っていなさい」言います。

 

1時間も待ったでしょうか、すらっとした黄色いワンピースを着た年のころ35・6才の金髪女性が声をかけてきました。でした。

彼女の乗ってきたのはハリウッド映画に出てくるような黄色のコンヴァーティブル車(フードが開くオープンカー)でした。私を助手席に座らせると勢いよく走り出した車はダウンタンを過ぎ間もなくフリーウエイに入りました。未だ日本には100キロ以上のスピードで走る事の出来る高速道路などがなかった時代でしたのでフリーウエーですれ違う車の耳を劈く様なヒューン、ヒューンという音には圧倒されっぱなしでした。快晴だったせいかミセス・デイビッドソンの金色のネッカチーフが風になびいて眩しかったので「シアトルは何時もこんな天気なのですか?」と聞くと「こんな天気はめったにないわ。きっとセイジン、あなたを歓迎してのことだわ」と言われました。デイビッドソン宅はワシントン湖の対岸ベルビューにありましたがフローティングブリッジ(浮き橋)を渡って30分ほどで到着です。

 

11. ホストファミリーデイビッドソン家

留学生活最初の10日間ほど世話になることになったデイビッドソン夫妻の家は現在マイクロソフトのビル・ゲーツ氏の豪邸が建っている場所からほど遠くないワシントン湖の畔にありました。平屋でしたが家の半分ほどは盛り上がった土地に沿って高くなっていて中二階のようになっていました。家に到着するとその中二階にある一室に案内され「ここがあなたの部屋よ」と言われました。部屋は小奇麗に整頓されていて洋服ダンスの引き出しはすべて空になっていました。明るい部屋で何か一番よい部屋を空けておいてくれたようで感激です。デイビッドソン夫妻には子供がいませんでしたが、もしかすると子供のために作ってあった部屋なのかもしれません。次にバスルームに案内されました。新しい洗面道具一式が私のために用意されていました。今では日本でも一般的になっているバスルームとトイレットが一緒になっています。当時日本では未だ一般家庭では水洗トイレなど普及していなかった時代ですから便所は不浄なところという感じがあり、それが体を洗うきれいな浴室と一緒になっているのは違和感があり慣れるまで落ち着きませんでした。

 

一通り家の中の案内が終わると庭の案内です。よく手入れの行き届いた芝生と草花。芝生のマウンドの向こうにワシントン湖が見えます。庭の真ん中に背の高い西洋杉が二本立っていて見上げると上の方が風を受けて緩やかに揺れています。木の下には木製のデッキチェアーが二つ置いてあります。それぞれのチェアーの右ひじの部分には飲み物を立てる穴が刻まれています。アン(デイビッド夫人は自分のことをそう呼んでほしいと言いました)が用意してくれたジントニックのグラスをそこに挿してチェアーに座りアンと暫く歓談です。ジントニックを進められるままに23杯飲むうちにほろ酔い気分になり頬に当たるそよ風も心地よく感じられます。ワシントン湖を眺めながら夢心地になり「ああ、これがアメリカなんだ」と感じたものです。

 

夕方ご主人のハリー・デイビッドソンが仕事から戻ってきました。ご夫妻ともファーストネームで呼ぶように言われました。年上の人を敬称もつけないで呼ぶのはその習慣のない日本人にとってはなかなか抵抗がありましたが郷に入ったら郷に従えで初日からアン、ハリーと呼ぶよう努めたのでした。ハリーは何時もにこにこしてアンを見守っている優しい男性でした。彼はボーイング社に勤めていました。シアトルのボーイング社は巨大な航空機製造会社ですから何らかの形でボーイング社とつながりのある方が非常に多いのです。

 

夜になるといよいよ食卓の準備です。アンが「これとこれをテーブルに並べて」とドイリー、ホーク、ナイフ等々を私に渡しました。最初から家族の一員のように扱ってくれたのです。アンが腕を振るって用意してくれた夕食はとても美味しかったのですが出てきたデザートのアップルパイの大きさにはびっくりです。日本なら3〜4人分はあります。そしてアイスクリーム。皿の上にボンと山盛りではありませんか。せっかく用意してくれたものをよう残せずに時間をかけて全部平らげた頃にはお腹がはちきれそうになっていました。こんな風にアメリカでの第一夜は過ぎていったのです。

 

12. Ugly American

私がシアトルのワシントン大学に留学をした頃「Ugly American と題する本がベストセラーになっていました。ホストファミリーのアンが読んでみなさいと貸してくれたので直ぐに読んでみました。海外、特に東南アジア方面で粗野で野暮なアメリカ人が相手方の歴史や文化を理解せず役に立たない援助等を行ってしまう様子を描いたノン・フィクションに近い物語であす。この本は後にマーロン・ブランド主演で映画化もされています。アメリカではケネディー大統領となりそんな反省も込めて極東の文化の理解に力を入れだしていました。ワシントン大学にも極東学部と言うのがあって中国語や日本語を学ぶ学生が数多く集まっていました。私もひょんなことから後にこの学部で日本語科の教員として雇われ一年間教壇に立つこととなったのです。又、ワシントン大学に「Center of Asian Arts」と言う研究機関が誕生し、日本からは後に人間国宝にもなられたような筝曲、尺八、狂言の一流の方々が招聘され文化交流にあたっていたのです。毎朝授業前の時間にはリスが走り回る木々の多い大学構内にいろいろな音楽が流されます。ある時ふと気が付くと聞こえてくるのは筝曲「六段の調べ」でした。こんな異国の地で「六段の調べ」が流れているなんて感激したものです。

 

後にお話しますが私はこの極東文化に力を入れる機運にいろいろな面で助けられたような気がします。その一つは奨学金がとりやすかったこと、そして物理専攻の学生のまま日本語教師としてとして大学に採用されて貰った給料のおかげで生活が楽になったことです。又、日本語を学ぶ多くのアメリカ人学生と仲良くなり楽しい彼らの飲み会にしばしば招待され楽しい学生生活が送れるようになったことです。

 

13. オリエンテーション・プログラム

シアトルは北にMt.Baker, 南にMt.Rainier(タコマ富士とも呼ばれる)、東にカスケードマウンテンそして西にはオリンピック半島に聳える山々に囲まれた美しい町です。1960年代にはプロ野球の球場もなければイチローの所属するマリーナーズもありませんでした。 ビルゲーツも現れていなかったし、ましてやマイクロソフト社もまだ存在していませんでした。航空機を製造していたボーイング社とワシントン大学が目立った存在でした。ワシントン大学はヨーロッパ、中近東、ラテンアメリカ、アジア等から数多くの留学生を受け入れていました。その為でしょうか留学生の受け入れ態勢はなかなか確りしていたのです。

 

学期はコーター制で秋学期、冬学期、春学期と夏学期の3ヶ月毎に区切られており通常一学年の単位は秋学期から春学期までの3学期で組まれており夏学期は落とした単位の取り直しや早く卒業したい学生が単位を取得する為に出席します。大多数の留学生はきりのいい9月スタートの秋学期から就学することになります。8月中旬からボツボツ留学生達がシアトルに集まって来ます。留学生達は到着してから新学期が始まるまでの2・3週間大学側が用意したオリエンテーション・プログラムに組み込まれます。留学生はまずホストファミリーと呼ばれる留学生一人一人に割り当てられた個別の現地家庭に引き取られ生活環境に慣れさせられます。その間下宿探し、英語力レベル判定テスト、留学生同士の親睦のためのピクニック、身体検査等で新学期に備えます。  

 

14. 人食い人種と相部屋となる

オリエンテーションプログラムも終わりに近づくと留学生全員が大学の寮生活を一日体験させられます。どういうわけか私が泊まったのは女子寮でした。といっても残念ながら女子学生は休暇中だからか又は留学生のためにその日だけ追い出されたのか判りませんが体験プログラムを説明してくれた女子学生以外一人として残っていませんでした。全員で寮内を見学した後食堂に集まり食事をし、二人一組となりそれぞれ割り当てられた部屋に入って夜を迎えます。各部屋には二段式ベッドが用意されており相棒は上そして私は下段に休むことになりました。相棒はアフリカのケニアから来たという黒人留学生でした。住んでいた村から何十時間も歩いて選考試験を受けに行ったのだと言います。2000人から一人選ばれたとも言っていました。話を聞いている分にはいいのですが面と向かって顔を見るといけません。とても怖いのです。ターザン映画に出てくる人食人種そのもので夜中に食われてしまうのではないかと心配になってくるのです。

 

学術的には正確な分類ではありませんが黒人と言えば私はミクロネシア系、ポリネシア系そしてメラネシア系が思い浮かびます。ミクロネシア系は身体も小柄で日本人が日焼けして黒くなったような感じです。又ポリネシア系は小錦のように身体は大きいが愛嬌があって親しみが持てます。ところがメラネシア系は皮膚の色が青黒く顔もいかついのが多いのです。歯だけは真っ白で暗闇ではやたらと白い歯が目立ちます。件の相棒が上のベッドから身を乗り出して私を覗き込み「Good Night」と言った時背筋に冷たいものが走りました。暗闇に真っ白な歯だけが見えたのです。表情が黒くて読めないのがいけません。よりによってターザン映画の人食い人種と同室になるとは。今はおとなしいが夜中に気が変わって襲って来るのではないだろうか? かなり長い時間ね付かれませんでした。

15.下宿探し

新学期が始まる一週間ほど前までには留学生達はホストファミリーの元を離れ大学キャンパス近辺の下宿に移り住むことになります。留学生支援オフィスではいろいろな下宿部屋を紹介してくれるので見に行き気に入ったものを選べばよいのです。初めて学生の下宿街を見に行った時最初に驚いたのは各家々の色彩の華やかさでした。白、緑、ピンク、赤、青等々でまるでヘンデルとグレーテルが出くわすお菓子の家みたいです。たいていの家は2階建てか3階建てです。大きい建物は男子学生のフラタニティハウスか女子学生のソロリティハウスです。2階建ての家も大概道路から23メートル土盛りされた上に建てられており道から玄関まで数段の階段を登って行くようなものがほとんどでした。

 

私が選んだ下宿は2階建てで屋根がグレーで側面が緑のしゃれた家で70歳過ぎのMrs.ジェイコブスンと言うお婆さんが管理していました。ミセス・ジェイコブスンは白髪でしわだらけの顔に銀縁のメガネを掛けていましたが背筋がピンとしており腰がダチョウのように大きく矍鑠としていました。部屋代は一ヶ月45ドルでまあ相場の値段でした。金持ちの留学生は100ドル200ドルを出してプール付きのコンドミニアムに入ったり、もっと高い大学のドミトリー(寮)などに入っていました。ミセス・ジェイコブスンの下宿は一階がMrs.ジェイコブスンの住まいで2階に貸し部屋が3室あり階段を登ったところにバスルームがあり2階の住人が共同で使用するようになっていました。

 

16.下宿の同居人ポールとウディー

私が入居した時には既に他の二人の下宿人が入っていました。一人は香港からの留学生Paul Luさん、もう一人は黒人のWoody Cornerでした。ポール(Paul)は誰から私のことを聞いたのか新入生のオリエンテーションプログラムの時から愛想良く話しかけてきてはいろいろと親切に教えてくれていた人物でした。同じ屋根の下に住むようになるとは思ってもいませんでした。彼は数学科の大学院生で将来の大学教授を目指して勉強している真面目な留学生でした。ポールは時々リーダー(leaderではなくreader)の仕事を回してくれたりしました。

リーダーというのは教授が生徒から集めた宿題を優秀な学生に採点を任せることでリーダーとなる学生にとってはなかなか良いアルバイトとなっています。一方ウディー(Woody)はアラビアンナイトのアラジンがランプをこすった時に現れる黒人の大男のような風体でしたが頭がよくGPAが3.9でした。GPAというのはGrade Point Averageの略で成績を数値化したものです。A()は4点、B()3点、C()には2点が与えられ履修した全科目の平均値で表示されるもので例えばAを2つとBを2つ取った時点では4点+4点+3+3点を4で割りGPAは3.5となるのです。もしオールAを取ればGPAは4となりますが大学入学から卒業まで全ての学科でAを取ることは至難の技であり、そんな生徒が現れると新聞に大きく報道されます。

 

日本のある大学では生徒の半分近くに優をつける教授が多いと聞きますが我がワシントン大学では生徒の成績は相対評価で付けられ25人前後のクラスでAを貰えるのは多くて3人ぐらいです。少なくとも私が受講した物理、数学、外国語のクラスではそうでした。さて話をウディーに戻しましょう。彼は心理学を専攻していました。GPA3.9と言うことは殆どの履修科目でAを取っていると言うことです。その彼が最初に涙ながらに話してくれた言葉は忘れられません。「俺はミセス・ジェイコブスンに恩を感じている。理由分かるか? 俺はこの部屋を借りるまでに54軒の下宿で入居を断られた。二グロと言うだけの理由だ。新聞で貸し部屋の広告を見て電話すると未だ空いていると言われる。出かけてゆくと顔を見たとたんにすまない今しがた他の人に決まってしまったと言うんだ。54軒もだよ。そんな偶然てあるとおもうか?表面では平等平等と言っていながらこれがアメリカの人種差別の実態なんだよ。」私は後にこれよりひどいトルコ人に対するドイツ人の人種差別を目にしたことはありましたが信じられない思いがしました。最もこの年ミシシッピー大学で黒人の学生が入学するのに反対する大規模な暴動が起こりアメリカ中が大騒ぎになる事件が起っています。50年近く後に黒人のオバマ大統領が誕生するなんてことは正に隔世の感があります。

 

17.耐乏生活始まる

多くの日本人留学生はお金持ちの子息の私費留学か又はスカラーシップ等何らかの留学資金を確保して来ていました。私の場合は親から何とか一学期分の学費は出してもらっていたのでしたがその先は何とかアルバイトで学費と生活費を捻出しなければなりません。と言っても米国移民局の許可なしには仕事をしてはならないとの条項があったので大っぴらには仕事に就けません。生活に慣れるまでは何とか学費以外の生活費を削らなければならないのでした。

 

先ずは食費です。スーパーマーケットに行くと前日の売れ残りパンを安く売っています。多少硬くはなっていても食べられます。大学への弁当はマーガリンバターにハムを一枚はさんだサンドイッチに棒切りにしたセロリとにんじんです。近所の韓国レストランで買ってきたお米を炊き、茄子とかビーマンに安いひき肉などを炒めて食べたりしました。炊飯器などはありませんでしたのでお米をといだ後、指で水加減を計り鍋で炊いたものです。安い食材での自炊を続けたおかげで好き嫌いの多かった私も何でも食べられるようになったのでした。お茶の葉も一週間も取り替えず色が出なくなるまで使いましたし、信じられないでしょうが髭剃りの安全かみそりの刃も取り替えずに一枚で3年間も使っていたのです。牛乳は飲んでいましたがコーヒーなどは元々飲まなくても平気な方だったので自分の下宿では飲んだ記憶がありません。こんな耐乏生活を続けたおかげで粗食に慣れてしまい高い金を払ってまで美味いものを食べに行きたいとは思わなくなったのです。しかしアメリカで暮らすにはどうしても車が必要でしたのでぼろ車を買うことにしました。1957年製のフォードでした。

 

18.1957製アメリカンフォード

自動車はホストファミリーのミセス・デービッドソンの友達から200ドルで購入しました。車は1957年製のアメリカンフォードで色は濃紺で全体に丸っこい形をしていました。運転席から前を見ると大きなずんぐりしたボネットが見えバスを運転しているような感じがします。日本で乗っていたダットサンが小さかったので特に大きく感じたのかもしれません。この車がものすごい代物だったのです。

 

ボネットのヒンジが片方壊れていてエンジンルームをチェックする時ボネットを開くのに苦労します。助手席の座席は磨り減ってぽっくり穴の開いたように凹んでいます。又、助手席側のドアは壊れていていつも紐でくくって走行中に開かないようにしている必要がありました。サイドブレーキは壊れていて使えません。おかげでサンフランシスコに似て坂道の多いシアトルのダウンタウンでは赤信号に出会うとアクセルとクラッチをたくみに操りバランスをとって停止状態を保つ必要がありました。おかげで数ヶ月も経つとクラッチワークが上手くなりました。

またマフラーも穴だらけで物凄い爆音をたて火花を散らせて走りました。こんなぼろ車を使えたのはワシントン州であったからでした。アメリカはまさに合衆国で州によって法律も異なりワシントン州は車検の制度がなかったのです。そんなわけで古い車も多く走っていました。アメリカ人の一人の友人は1936年製のアンティーク車に乗っていました。しかしながら私の1957年製フォードほどのぼろ車はあまりお目にかかったことがありませんでした。

 

19.英語レベル判定試験

非英語圏からの留学生全員に対しては英語の実力判定テストが行われます。実力判定テストはヒヤリングが中心でした。知らない単語が幾つか出てきたので結果が出るまで不安でしたが結果が専攻科目の履修数に制限がつかない[Exempt]であってほっとしました。実力判定テストの判定結果は「Exempt」以下数段階のレベルに分かれていてレベル毎に専門科目の履修数が制限され最下位レベルはワシントン大学での学科履修が一教科も許されないでまず指定された学外の英語学校での英語履修が求められます。

 

私の留学当時のヒアリングレベルはFEN(日本での米軍極東放送)のニュースがほぼ聞き取れる程度でした。初めは全く理解できなかったFEN放送もニュースをテープレコーダーに録音し、そのテープを遅送りしながらノートにとり、FENのアナウンサーと同じ速さでしゃべれるまで何十回も声を出して読んだ時やっとFENのニュースが聞き取れるようになったのを今でも覚えています。日本人留学生の中では英語の先生をしていた人や英語を専攻していた人以外では「Exempt」をとった人はあまり多くありませんでした。

 

[Exempt]の判定を受けたおかげで専門科目を好きなだけ履修することが許されることになったのです。留学前の一年間日本で外人ハントの会を作ったりしいろいろな英語サークルに積極的に参加してみっちり英語漬けになっていたのが報われたようです。一年間のロスが取り戻せたような気がしました。

 

20.健康診断とM

当然のことながら書類で入学許可を貰っているとはいえ最終的に受け入れられるには大学側による健康診断をパスしなければなりません。オリエンテーションプログラムが進む中、大学から健康診断の通知が来ました。日本を出る前にも健康診断は受けていたので別段気にもしていませんでした。そんな時にある噂を耳にしました。 健康診断では男子生徒に対してはM検があるというのです。 M検を受けたことはありませんでしたが男の大事なところの検査であることぐらいは知っていました。軍隊では必ずあったというし、つい数年前までは日本の大学入試でも行われていたからです。よく成績の良かった先輩が東大に不合格になったのは試験の成績のためではなくM検で引っかかったのだとか言うまことしやかな噂を耳にしていました。勿論悪い遊びなど一度もしていなかったので問題ないと分かっていてもどんな検査なのか経験がないだけに落ち着きません。

 

知らない人間に調べられるなど想像するだけでも憂鬱になってきます。変な触られ方をして興奮してしまったらどうしようなどと下らないことが気になってくるのです。検査日までの数日は食事ものどに通りません。すこぶる純情だったのです。いよいよ当日がやって来ました。大学の病院ではなく大学構内ではありましたが個人住宅のような建物に連れて行かれました。中に入るように言われドアを開けます。そこには白衣を着てメガネをかけた老紳士が回転椅子に座っていました。近づいて行くと人の顔をチラッと見るなりパンツを下げるよう手で合図しました。目を瞑って言われるままにすると一瞬何か下部を触られたようでしたが「OK」と言ってお終りになったのです。あまりのあっけなさにこちらのほうが驚きました。あれで何が分かったのでしょうか? あれだけ悩んでいたのは何だったのでしょうか。でもそれで正式に入学が認められたのでした。

 

21. 数学・物理両学部に編入

大学院で量子論又は理論物理を選考したかったのでワシントン大学ではまず準備として数学科と物理科の両学部の2−3年のコースに同時編入しました。欲張った考えでしたが2年間で物理、数学の両学部を卒業し大学院の理論物理科に進学するつもりだったのです。専門科目の各クラスはPrerequisit コース(それを受講するのに前もって履修していなければならないコース)が決められていて勝手に好きなクラスから始めるわけには行かないのでした。日本で履修が終わっていたのは機械科の科目がほとんどで数学や物理は理論物理を始めるのに充分なだけのものは勉強が出来ていなかったというわけです。幸いなことに数学科と物理科のクラスは同じ建物の中で行われていましたし、授業があるのは月、水、金の週三日だけでしたので二股をかけるのにそんなに苦労はしませんでした。といっても毎回の宿題は量が多く、火曜と木曜は宿題に追われます。

 

各科目の教科書の分厚さといったら日本の教科書では見たことのないほどのページ数です。教科書を買うため最初に大学のブックストアーに行った時驚かされたのは教科書の分厚さでした。高等数学の教科書は800頁もあり、これを読むだけでも大変そうなのに各章に付いている沢山の問題をやって行けるのかなと心細くなりました。同じようにかなりページ数の多い数学、物理、フランス語等の教材56冊を購入して下宿に戻った時には思わず量に圧倒されてため息が出てしまいました。勿論勉強のために留学をしたのですが日本にいた時に映画で見ていた楽しそうな華やかなアメリカの学生生活も少しは経験できるかなと思っていたのですがとんでもない思い違いでした。何人かのクラスメートに週末はどのように過ごすのか訊ねたところ答えは皆「Study」でした。朝からパチンコ屋に行ったり、雀荘にこもって授業に出て来ない学生の多かった日本の大学生活とはぜんぜん違います。アメリカの大学は入るのは比較的簡単でも入ってから頑張らないとFlunk-out(成績不良での退学)させられてしまうので皆懸命に勉強するのでした。

 

22.日本人留学生

私と同じ時にワシントン大学に入った日本人留学生の数は十数名でしたが新学期が始まるとすぐに先輩の日本人留学生諸兄・姉達が新入生歓迎の集まりを開いてくれました。一通りの顔合わせ、自己紹介が終わると何台かの車に分乗しTavern(居酒屋)に繰り出しました。日本ではビールですら、飲んだら決して車の運転をしなかった私は車を運転して酒を飲みに出かけるなんていうことは考えられないことでした。しかしこちらの生活に慣れてくると大学のキャンパスの近辺には飲み屋はなく車で離れたところまで行くしかないことが納得出来るのでした。

 

先輩達はこの年(1962年)の春シアトルで開かれた世界博覧会でいろいろなアルバイトの口があり可なりお金をためられたと聞きました。私もあと半年でも前に来ていたら少しは学費が稼げたのにと羨ましく思ったものです。グレイハウンドバスでシアトルに入った時最初に目にしたあの美しいスペースニードル(宇宙人のような形をしたシアトルターワー)もこの万博を記念して建てられたそうです。歓迎会では多くの先輩や同輩達と親しくなれ大変有意義なものでした。アルバイト経験の豊かな先輩方にはその後いろいろとアルバイトの仕事を紹介していただくなど大変にお世話になることになりました。

 

23.授業と学友達

物理科も数学科も1クラスの生徒数は大体20人から30人程でした。席は自由でしたが生徒は授業開始時間には全員着席していましたし、先生も時間には正確に現れ終了時間にはピタッと授業を終えて出て行きます。授業が始まるとまず出席をとります。生徒は皆「Yes」ではなく「Here!」と答えます。点呼で私の姓をまともに発音してくれた教授はほとんどいませんでした。「シミヤミ」と呼ばれることが多かったのです。初めは私のことを呼んでいるとは気が付きませんでしたがアルハベット順に呼んでくるので慣れるとすぐわかります。いずれのクラスにも女生徒も黒人生徒もいましたし、時々は中高年の生徒も見かけられました。歳を取ってから再び勉強したいという人が戻って来るのだということでした。

 

物理や数学の講義はよほど言葉に訛りのある先生でなければ言っていることはほぼ解ります。どの授業でも毎回宿題が出ます。宿題は次の授業までにレポート用紙に解答と自分の名前を書き半分に折りたたんで教授の部屋の前にある宿題受け箱に入れておくのです。宿題はすべて採点され教室で受ける筆記試験の点と統合され学期の成績がつけられます。したがっていくら期末試験の点が高くても宿題をサボっていれば良い成績は取れません。物理の場合は毎週のように実験のクラスがあり、その実験で集められたデータを使い課題に対するレポートを作成するのが宿題でした。実験グループは決まっていて同じグループのエキ・ゲーハルト(ドイツ人)、ボッブ・ハンフリーとジョーンの3人とはすぐ仲良くなりました。

 

24.ウッディーとMoonshine(密造酒)

下宿同居人大男のウッディーはもてあますエネルギーを時々発散する必要がありました。 発散の仕方は酒、女、そしてスポーツでした。休みの日には必ずと言ってよいほど体育館に行き一人でくたくたになるまでハンドボールのボールを壁にぶつけては拾い又ぶつけては拾いして汗を流して来るのです。 そして女です。 人種差別の激しかった社会であっても白人の女子学生には結構もてたらしいのです。白人女性は黒人男性に意外と興味を持っていて付き合ってくれると聞いていましたが黒人の肉体にあこがれるのか又は差別を受ける黒人に母性愛をくすぐられるのかは定かはではありません。ウッディーの場合は心理学を専攻していたので女性をくどく術に長けていたのかもしれません。

 

ある時女性をものにする方法を伝授するから着いて来いと言います。ウッディーに着いて行くと黒人が経営する場末の汚らしいドラッグストアに着きました。そこで何やら果実酒のようなものが入っているボトルを一本買ったのです。下宿に持ち帰ると何やらいろいろな得体の知れないものを混ぜてビンを振っています。 暫くすると「出来た」と言いました。Moonshine(密造酒)の完成です。この密造酒を女の子に酔いが回るまで自ら飲んでもらうようにもって行くのがウッディー独特のやり方なのでした。実演して見せるから女性になったつもりで俺と向かい合って椅子に座れと言うのでした。横には作ったばかりの密造酒がグラスに注がれて置かれています。

 

これから簡単なゲームをやろうと言いました。「僕が手を動かすので良く見ていてそれを同じ順序で真似るゲームだ」と言って「Mr.サイモンが手を叩く・・」とか歌いながら手を叩き、その手を膝に触り、肩に触り、そしてほっぺたに触ったりするのです。その間わずか数秒です。同じ順序で手を動かすのはほんの数個の動作なので簡単に出来そうに思えます。「もし君が僕のやったしぐさを間違えずに真似出来たらこのグラスを僕が飲み干すが、もし間違えたら君が飲むことになる。これがこのゲームのルールだよ。」と言うのです。このゲームはどちらかが酔っ払うまで続きます。初めは易しそうに思えましたがほんの56動作でも正確に手の動く順序を覚えていられるものではありません。正確に真似できるのはせいぜい5回に一度ぐらいです。と言うことはウッディーが一杯飲む間にこちらは4杯ほど飲まされることになる訳です。酔いが回れば回るほど記憶が怪しくなるのでますます勝負になりません。酒には弱くない私も間もなく意識が朦朧としてきました。ゲームをして遊ぼうと言って始めるので嫌と言える女性はいないのだそうです。やはり心理学の応用でしょうか? 結局ちょっと声を掛けて知り合った女性が知らぬ間に酔いつぶれウッディーの言うままになってしまうと言います。これは犯罪なのでしょうか? 合意の上と言われればそれまでなのかもしれません。実際にウッディーがガールフレンドをこの方法で酔わせているところを目撃したことはありません。

 

ある時ウッディーがちょっと頼みたいことがあると言って来ました。「俺と一緒にコンドミニアムで共同生活をしてくれないか」と言うのです。女性をもてなす場所がほしいと言うことでした。ミセス・ジェイコブスンの下宿には女性は連れ込めません。入れてもらえる下宿を見つけるだけでも苦労するウッディーにコンドミニアムなど貸してくれるオーナーなどいません。「君なら日本人だからたいていのところは入れる筈だ。俺が家賃の半分を持つのだからこんないい話はないと思うけどどうだ。」と言います。ちょっとウッディーの手練手管を真近で観察してみたいと言う興味に引かれましたが絶対にそんな話に乗るべきでないと言う友人の強い助言もあってその話は断ることにしました。それから間もなくしてウッディーはミセス・ジェイコブスンの下宿から姿を消したのです。それ以来ウッディーには一度も出会うことはありませんでした。

 

25.無知なアメリカ人・無知な日本人

日本人ならほとんど誰でもアメリカのことを知っています。大統領が誰で、首都はどこで人々が何語を話しているかという事ぐらいはです。ところがアメリカの人は親日家でもない限り日本のことをあまり正しくは知っていませんでした。日本の首相の名前を知っている人はまずいません。アメリカに行けば世界地図の中心は日本ではありません。東のはずれに小さく載っているだけでありまさに日本は極東なのです。

 

留学して間もない頃ワシントン大学の大学院の学生に「日本では未だ紙の家に住んでいるのですか?」と訊かれエッ冗談でしょうと思いました。又、ある時教会の牧師の家に食事の招待を受けた時です。「日本人は未だ皆着物を着ているのですか?」と聞かれました。そのうちに牧師はニューヨークの話を始めました。ニューヨークは高層ビルが沢山あり、地下には電車が走っているのだよと説明を始めたのです。地下鉄の話でした。日本に何十年も前から地下鉄があったなどということは想像も出来なかったのでしょう。地下鉄を見たこともない人にどうやって説明しようかと言う態度でした。日本にも地下鉄があるとはよう言い出せませんでした。

 

ある時シアトルの名門高校に社会科の一日講師として招かれました。私の講義が終わって生徒からの自由な質問の時間となり一人の生徒が手を上げました。「Geishaのことを説明してください」と言ったとたん横に控えていた社会科の先生が「その質問はだめ。」と言ったのです。社会科の先生がこんなでは日本のことを正しく理解できるわけがありません。

 

勿論日本のことを驚くほど良く知っている人にも出会いましたが短期間の内に日本に関してこれほどまで低レベルな知識しか持っていない何人もの知識人に出会ったことが驚きでした。ただその内に面白いことに気が付きました。日本を侍の国と思っているような物理科のクラスメートが「ゼロ戦はすごい戦闘機だった」とか「Canonのカメラは素晴らしい」とか言います。又、仲の良かった学友のボッブはアンプを製作して売っているほどのオーディオ狂でしたがSonyのアンプをテストしてあまりに性能が良くて吃驚したと言っていました。

すなわち彼らの頭の中には古い日本と技術的に優れた近代日本が同居していて一つに統合されていないのです。

 

こういうことがあって私はある留学生の集まりで司会者に「アメリカに来てから何か気が付いたことは?」と聞かれ「日本のことをよく理解していないアメリカ人が多いのにびっくりしました。」と答えたのです。するとインドから来た留学生が立ち上がり「そうかもしれないがそれでは君たち日本人はインドのことをどの位しっているのかね?」と言ったのです。そうです当時私がインドについて知っていたのはガンジー、ネール、それにタージマハールくらいのものでしたのでぐうの音も出ませんでした。自分たちより進んでいる国には注目するが後進国に対してはあまり知ろうといていない自分に気が付いたのです。まさに無知なアメリカ人、無知な日本人なのでした。

 

26.最初の中間テスト

10月に入り数学のクラスで最初の試験がありました。結果は100点満点の90点でそのクラスでダントツのトップでした。 90点と言っても10点減点されたわけではなく英語での試験は始めてのことだったので問題を理解するのに慎重になりすぎ時間をなくしたためでした。手を付けた問題はすべて出来ていましたので実質満点のようなものです。クラスの平均点は28点でしたのでクラスの皆からは「Killm!」、Killm]Kill himのことで「やっちまえ!やっちまえ!」ということで、ブーイングの一種)と盛んにと野次られました。

 

翌日その科目担当のテーラー教授から呼び出しが掛かりました。 教授の前に座ると「Ive got a hunch that ・・」で始まる一種の尋問が始まりました。「君は既に同じコースを日本で取っていたのではないかね?」と。出来すぎだと言われるのでした。「いや日本で同じコースは取っていません。今回の試験範囲の内容はこちらで習ったのがはじめてです。」と答えるとそうかそれでは仕方がないと認めてくれました。

 

なぜ留学生がダントツの成績を取ったのが問題なのかは後ほど判って来ました。ワシントン大学で私のとった数学、物理、語学等のクラスは大体20名から25名の受講生であり各クラスで評価Aを取れるのは2~3名まででした。日本では絶対評価が多く一部の教授はクラスの半数ぐらいの生徒に優(A)を与えることもあるようですがワシントン大の少なくとも私が取ったクラスでは相対評価で採点されAを取るのは結構難しいことだったのです。評価がAになるか、Bになるか又はCになるかは学生にとって大変な関心事なのでした。 評価は各自のGPAに反映されそれが奨学金獲得や大学院で希望科目の専攻が認められるか等の判定に使われるからです。

 

27.キューバ危機

10月も半ばを過ぎたある朝、下宿を出て物理の教室に向かっていました。下宿からキャンパスまでは歩いて56分です。大学の構内に入るとなんとなくいつもとは違う雰囲気です。すれ違う学生達が皆早足で歩いています。パナマから来ていた同期の女子学生は目に涙を浮かべて通り過ぎて行きます。いつもならニコッと笑顔を返してくれる子でした。教室に着いてやっと事態が飲み込めました。米国民を戦慄させる大問題が起こっていたのです。世に言う「キューバ危機」です。

 

19621022日にケネディ大統領は、ソ連がキューバにミサイル基地を建設中であることを公表、ソ連に同基地の撤去を要求、ミサイル搬入を阻止するため海上封鎖を実行するとの声明を出したのです。 ソ連はこれを拒否しミサイルを積んだ船はキューバに向かいつつあり、米ソの正面衝突の危機が高まったのです。

 

時はまさに米ソ冷戦状態の真っ只中で「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことでアメリカ国民の多くがスーパーマーケットなどで水や食料などを買い占める事態が起きたのです。この緊張は1028日にソ連のフルシチョフ書記長がミサイル撤去を約束するまで続きました。

 

下宿の部屋にはテレビなどなく私の情報源と言えば日本から持っていったポータブルラジオが頼りでした。夜、勉強しながら聞いていたのは音楽番組が中心で、この重大ニュースを聞き逃していたのでした。 終わってみれば一週間ほどの短期間の出来事でしたがあの張り詰めた空気は忘れることが出来ません。

28.高校レスリングチャンピオンとの対決をせまられる

キューバ危機問題も一段落し11月に入りました。大学の留学生支援事務所はフレンドシップツアーと称して留学生の為に休みを利用してシアトル近辺のツアーを組んでくれます。その一つにシアトルから南にやや下った田舎町チャハリスの家庭でThanks Givingの休日を過ごす催しがありました。一時間程汽車に揺られてチャハリスの駅に到着すると留学生一人一人に世話を割り当てられた家族が迎えに出ていました。私を迎えてくれたのはかわいい高校生の女の子とその弟を両腕に従えたウイリー夫妻でした。その女の子とはその後しばらく文通をしていたのですが今では遠い昔の話となってしまい名前も思い出せません。

 

招待された留学生達は一旦それぞれ世話になる家庭に連れて行かれ一休みした後、また全員集合し早速町の見学が始まりました。最初は立派な観客席の着いたアメフトのスタデアムに案内されしばし高校生のアメフト試合の観戦です。ルールが良く理解できませんでしたがピチピチした女子高校生の躍動あふれるチアガールの応援は目に焼きつきました。次に連れて行かれたのは町の乳業製品加工工場です。そこでご馳走になったアイスクリームの味は格別でした。 

 

夜になるとツアーに参加した留学生全員が高台にある町の有力者の豪邸に招待されました。ハリウッド映画でしか見たことがないようなゴージャスな館でプールには水が青々とたたえられています。シャンペンが抜かれ町のお偉方の歓迎挨拶が終わると園遊会となり留学生たちと町の人達の歓談が続きます。 宴もたけなわとなった頃歓迎会のホストであるこの館の主が近づいて来ました。「一つここら辺で空手か柔道の術を披露してもらいたいのだが」と言うではありませんか。大学生時代に体術と言う柔道と剣道をミックスしたような武術をしばらく習った経験はありましたが黒帯を取っていたわけでもなく、かろうじて受身が出来る程度の私が何故指名されたのでしょう。日本からの留学生の中には2段とか3段の黒帯の猛者がいたのです。はたと気が付きました。彼等は背も高く日本人離れした体格の主だったのです。これだ、私は背も高くなく小柄な方です。柔道は小さいものが大男を投げ飛ばすと言う妄信があったのです。そこで小柄な私と現地のレスリング高校チャンピオンとを戦わせると言う私にとっては至極迷惑な話が出てきたのでした。

 

そっと町長の後ろを見ると体格のいい若い男が立っていました。無下に断れば親善パーティーの雰囲気を壊してしまいかねません。といって体格の良いレスリングチャンピオンなどどう考えても倒せるわけがありません。しばらく途方にくれてシャンペンをお替りしながら心の準備をしている振りをして時間を稼ぎました。それでも館の主は諦めません。またもや催促です。「タタミ有りますか?」とっさに出た私の言葉。「えっ、タタミ?ないね。ここのフロアじゃだめかね?」そういわれて指差されたフロアを見ると一面大理石です。「こんなところで投げ飛ばしたら受身を知らない相手の方は大怪我をしてしまいますよ!」とここで一気に上手に出てみました。するとどうでしょう町長は件の高校生の元に行き何やら説明していました。しばらくして戻ってくると「分かったわが町の高校レスリングチャンピオンを傷つけるのはやめにしよう」と言ったのです。その後のアルコールのなんと美味かったことでしょう。 

 

29.奨学金にチャレンジ

12月になって秋の学期も終わり成績が出ました。数学が2科目とも「A」でしたが肝心の物理の2科目は両方とも「B」でした。従ってGPA3.5です。物理はちょっと背伸びして実力以上のクラスに編入してしまったみたいです。最初の学期ですからまあまあと言えない事はないのですがこれでは将来の計画が狂いそうです。そんな時、留学生支援事務所のジーナから留学生向けのScholarship (奨学金)があるから応募してみたらと言われました。

 

奨学金などは学業が飛びぬけた生徒のみがもらえると思っていましたのでしり込みしていると「駄目もと」だから応募してみなさいと言ってアプリケーションフォームを渡されたのです。半年先からの留学費の工面に頭を悩ませていたものですから素直に応募してみることにして書類をジーナに提出しました。数日後、銀行から電話が掛かってきました。「あなたの口座に12千ドル入金がありました」というのです。どう考えてもありえない話です。親に仕送りを頼んでいませんし、そんな大金が家にあるわけがありません。 奨学金だって生徒に直接支払われるわけではなく大学に支払われて生徒の授業料が免除になるだけです。「何かの間違いだと思うので良く調べてほしい」と言っても銀行側は「間違いないの一点張り」です。

 

私はアメリカの銀行を全く信用していませんでした。下宿が決まってすぐに大学近くの銀行に自分の口座を開いたのです。通帳を開いてみると計算間違いが見つかったのです。担当したテラー(銀行の窓口出納係)に言うと誤りを認めすぐに修正はしてくれたのですが一言の謝りもないのです。日本の銀行だったらまず考えられないことです。やはり今回も翌日になって電話が掛かってきました。「昨日の入金は間違いでした」とそれだけです。

 

さて、肝心の奨学金の方は二週間ほどして事務局からの手紙が届きました。「I regret to inform you ・・」で始まる文でした。要するに審査委員会は私への次学期の奨学金支給を見合わせたと言うのです。もともとあまり当てにしていなかったのでそれほどショックはありませんでした。ジーナに告げると「今回は見送られたけれど成績が悪いと言うことではなくあなたがこの成績を持続できるかどうかもう一学期みたいと言うのが審査委員会の意見だったのよ」と教えてくれました。この留学生を対象とした奨学金制度は国別にQuota(割り当て)が決まっているので応募者の少ない日本の場合は良い成績さえ残せば比較的楽に獲得できることも教えてくれたのです。競争の激しい台湾の場合などはオール「A」でも取らないといけないようでした。それが事実ならば冬学期でよい成績をキープできるように頑張ればいいので悲観することはありません。

 

30.一夜の寝床泥棒

冬のシアトルは雪があまり積もりませんが気温は急激に下がって夜は零度以下になります。12月のある夜のこと友人達との飲み会でほろ酔い気分になりミセス・ジェイコブソンの下宿に戻って来ました。いつもの様に玄関ドアーの鍵穴に鍵を差し込みました。捻るとこくんと音がしてノブが回りドアが開けられる筈でした。ところがこの夜は鍵穴の中が凍り付いてしまっていて鍵が回せません。10分ほど懸命に捻ってみたのですがどうにも動かないのです。手はかじかんで力も入らなくなります。酔いはとっくに醒めて全身に震えが出はじめました。このまま外にいては朝までに凍死しかねないと思うと焦りが来ます。玄関上のPaulの部屋の電気は既に消えていました。誰か未だ起きている友人はいないものか考えると近くの下宿に住んでいるドイツ留学生ギュンターのことを思い出しました。勉強家の彼なら深夜を過ぎた時間でも起きているかもしれません。

 

彼の入っている下宿は100mほど先の角地にありました。 行ってみると幸いなことに一階の彼の部屋には未だ明かりが点いています。窓に近づいて窓ガラスをこんこんと叩いてみました。気が付いた彼は入って来いと玄関ドアを開けて部屋に招き入れてくれました。ギュンターは未だ二十歳前でしたが頬ひげと顎鬚を伸ばしパイプを加えて革張りの椅子に座っている姿は哲学者の様な風格がありました。事情を話すと暫くパイプを吹かしていましたがパイプから手を離すと親指を天井に向けて差し出しウィンクをしたのです。彼の下宿は未だ満室になっておらず上の階に新しい下宿人を待っている空き部屋があると言います。そこに忍び込んで寝ろと言うのでした。「俺は黙っててやるから朝早く起きて出て行けばよかろう」と言うのでした。ちょっと後ろめたい気がしましたがこれしかないと思いました。

 

上の階の空き室には誰にも気づかれずに忍び込めました。ベッドには真新しいシーツで寝床が出来ていました。悪いなと思いながらもほっとしてベッドに滑り込みました。思ったより良く眠れました。翌朝他の下宿人達が起きてくる前に世話になったシーツのしわをのばして静かに外に出たのです。

 

31.クリスマス休日のスキー合宿

クリスマス休日に行くところのない留学生のために留学生支援事務所はスキー合宿を準備していました。 場所はカナダとの国境近くにあるマウント・ベーカー(Mt.Baker)のロッジでした。スキーが好きだった私はやはりスキーが好きだった日本人留学生を誘って参加することにしました。実はホストファミリーのアン(デイビッドソン夫人)はスキーが大好きで私もスキーをすると知って私のためにHEAD(メーカー名)の金属製スキー板を用意してくれていたのです。

 

出発は金曜日の午後でした。教会関係のボランタリーの人達が手分けして参加する留学生達を山小屋まで運んでくれるのです。私を迎えに来たのはラスと言う名の優しそうな人です。小型トラックに乗ってやって来た彼は30を少し過ぎたぐらいの年恰好でしたがイガグリ頭で子供のようにニコニコしていました。助手席に私を座らせるとラスの運転で小型トラックはシアトルを後にし北へと向かいました。 2時間ほど幹線道路を北上すると東に向かって山道に入ります。暫く行くと川辺に出ました。既に夜の帳はすっかり下りています。「ここいらで少し休んでいこうか?」とラスが言います。ドアを開けて外に出ると冷たい澄んだ空気で空には無数の星が輝いていました。ラスがいろいろと星座の説明をしてくれました。天空の星達はそれまでに見たこともないほど鮮明に輝いていて実に綺麗でした。

 

ラスが用意してくれていたサンドイッチをほおばりながらラスの話を聞いているうち気が付くといつしか車は雪道を登っていました。ロッジに着くと既に大勢の留学生達が到着していました。この夜は簡単な自己紹介があって小一時間ほど留学生同士の歓談がつづきましたが比較的早く床につきました。ロッジのベッドは簡素なものでしたが寝心地は悪くありません。

 

翌日は朝からロッジ裏のゲレンデに出てスキーを楽しみました。スキーをしない人もいましたが可なりの数の留学生がスキーに取り組みました。このスキー合宿でその後長年の付き合いをすることになる大勢の友達が出来たのです。数人の日本人以外に、韓国のキムさん、トルコのハルークさん、カナダのミッシェル(女性)、ドイツから来たギュンター、ウーゼル(女性)、ギゼラ(女性)等々です。ロッジには囲碁のセットもありましたのでキムさんとは碁を打ちました。留学生の余興の時間にはハルークとトルコの歌を歌い彼を感激させました。歌の苦手な私が江利チエミの「ウスクダラ」の歌詞をたまたま覚えていたのです。ミッシェルは体格のいい女傑と呼ぶにふさわしい女性で男でも恥らうほどの「Y談」を得意としていました(45年後に再開してみると驚くことにスリムで貞淑な女性に変身していました)。ギュンターとウーゼルはその翌年結婚しました。この二人には私がアメリカからヨーロッパに渡った時にたいへん世話になることになったのです。楽しかったクリスマスが終わってシアトルに戻ると間もなく1963年を迎えることになります。

 

32.冬学期始まる

アメリカにはクリスマス休暇はあっても日本のような正月休みはありません。元日は休日となりますが2日からは平日であれば仕事が始まります。学生も同じです。そんなわけで大晦日は親しい日本人留学生達とちょいと一杯やるぐらいで過ぎてしまいました。少しだけ正月気分を味わえるのはシアトルの日本語ラジオ放送から流れてくる「明けましておめでとうございます」の言葉ぐらいです。日曜日にはよく日本語放送を聴いたのですが普通の日は現地英語放送のポピュラーミュージックの番組を聴いていました。その頃急に流行ってきたのが坂本九の「上を向いてあるこう」でした。もっともラジオでは「カユ・サカモト、スキヤキ(時にはスキヤカとも発音されていました)ソング」と紹介されていました。やはり懐かしいのでうれしく感じたものです。

 

さて話を学業に戻しましょう。1月に入るとすぐ始まる冬学期の選択科目を決めなければなりません。奨学金をもらうためにはGPAを下げるわけには行きません。数学は秋学期の続きの2科目を取り、物理は日本でも少し勉強した力学と熱力学を選び、更にGPAを上げるため自信のあったフランス語の中級コースを選びました。いよいよ私にとっての第二学期が始まりました。フランス語はサルトルの本が教材でした。フランス語そのものより哲学的な内容のほうが難解でした。数学は問題なかったのですが物理は授業の進み方が早く宿題に終われる日々でした。ただ一度だけ力学の教材で「・・・はニュートンの法則と相容れないところである」との記述を見つけ教授にどの部分が矛盾するのか質問したところ「このクラスで計算問題の質問ではなく物理の根幹に関わる質問をしてきたのは君が始めてだ」と変な褒められ方をしました。私としては古典物理学が行き詰って出てきた現代物理学を学ぶために留学したのですから当然な質問だったのでした。この冬学期のさなか私の生活に大きな転機が訪れました。

 

33.ハウスボーイとなる

2月に入ったある日久しぶりに大学の留学生支援オフィスに立ち寄ってみるとスタッフから声をかけられました。「日本人のハウスボーイを探している家があるのだけれどもやってみないか」というのです。私が留学資金で苦労していることを知っていたスタッフが私のために特別にとっておいてくれたアルバイト口でした。話しを聞いて見ると今入っている日本人留学生がフラタニティーハウスに移るので後釜を探しているというのです。その日本人留学生は一年先輩のヤスさんでした。連絡を取ると「一度見に来ないか?」と言ってすぐに家まで連れて行ってくれました。

 

先輩に連れて行かれたリチャードソン邸は大学から2マイル程はなれた場所にあるブロードモアーと言う名のメンバー制プライベートゴルフ場の中にありました。 ワシントン湖を見下ろす小高い丘の上にあり地下1階から3階まで南側が全面ガラス張りのお城のような豪邸です。 話はその日のうちにまとまり私は早速リチャードソン邸のハウスボーイとして移り住むことになりました。 

 

大学に通う時間以外で自分の自由になるのは日曜日と平日の夜9時から翌朝6時まででそれ以外の時間はすべて何らかの仕事が与えられていました。 土曜日は終日掃除でつぶれます。 学生ビザで入国している留学生は正式にはアルバイトをしてはいけなと言うことになっていましたので厳しい条件で働かされても我慢するほかはありません。 他の日本人留学生からは「よく我慢できるね」と言われましたが私は未来に夢を持っていたのでそれほど辛いとは思いませんでした。 部屋付、食事付、そして月々$50(当時の為替レートは1ドル360円でしたから日本の大学同期生の初任給より遥かに多かった)のお小遣いをもらえる仕事は魅力でした。あてがわれた部屋はベースメント(地下)にあるとはいえ広いバス、トイレ付でベッドも立派なダブルベッドでした。また明かり窓がついていて窓の真ん中ぐらいが路面の高さとなっていて結構光が差し込んでくるなかなかなものでした。 

 

キャンパス近くの下宿からここに引っ越してきてまず必要となったのが通学用自転車でした。自転車は15ドルでリチャードソン夫人の知り合いの息子から買いました。

自転車は変速ギア付で時々チェインが外れるトラブルを除けば坂道の多い通学路には最適でしたブロードモアーは関係者以外の一般人はゲートで許可証を見せないと侵入できない地区でしたが間もなくゲートの番人にも顔を覚えられ自転車で自由に出入りができるようになりました。

 

34.リチャードソン邸での仕事

毎日朝6時には起きて豪邸の主人夫妻のために1階のキッチンに駆け上がりコーヒーの準備をします。毎朝6時に起きるなどと言うのは日本にいた頃には考えられないことでしたが慣れとは恐ろしいもので暫くすると3階の寝室でご夫妻が目覚めた気配(具体的にはベッドがコトッと音を出す)で目が覚めるようになったのです。コーヒーの準備が終われば直ぐに大きな飼い犬を散歩に連れ出し犬が便をするまでゴルフ場の中を歩き回り犬の用便が終わるや否や家に連れ帰って大学へ自転車に乗って出かけます。大学から戻ればスーパーマーケットへの買い物、庭の草花の手入れ、植木の刈り込みなどで休む暇のない毎日です。

 

又、夜は皿洗いをすることになっていました。ディッシュウォッシャーはあったのですがある程度食器を洗っておかないと完全に汚れが取れない場合があるということでディッシュウォッシャーに入れる前に軽く洗っておくのです。毎週土曜日は朝から夜までかかってお城のような家の地下室から4階のアトリエまで家中の大掃除を一人ですることになっていてこれが又大変な仕事でした(何しろ全部でトイレ浴室が5ヶ所もあったのです)。十数室ある部屋のふかふかした絨毯に真空掃除機をかけることから始まり、家具の艶出し、洗面室のタイルのたわしがけ、トイレの便器磨き、そして時には便器にへばりついた便をたわしを使っての除去、窓ガラス拭き、ブラインドのひだ1枚1枚の裏についているほこり取りはとても根気の要る泣きたくなる作業でした。 窓拭きにしても低い階の窓はまだしも3階、4階となると身体を半分外に乗り出して外側も磨くのですから電信柱の上に登って作業しているようで高所恐怖症の私には震えが来てしょうがありません。他の留学生が休みを楽しんでいる土曜日はそんなわけで私にとっては一番大変な日だったのです。

 

それ以外にも月に一度大きな部屋一杯に集められていた銀の食器類を特殊なクレンザーで磨く日が決められていて、これがまた大仕事でした。銀食器は一ヶ月もすると表面が酸化して黒く汚れてきますが、この汚れをクレンザーで磨くとその黒い銀特有の汚れが磨いている手のしわの溝に染み込んでそれがどんなに石鹸で洗ってみても一週間はとれないのです。この豪邸はプライベートゴルフ場の中にあったので主人夫妻は年に何回かは100人前後の客を招待しては園遊会を開いたり、また夫人の方は数人の友人を招いてブリッジをしたりゴルフをしたりしました。そんな時は臨時にバーテンにさせられたり、ウエイターにさせられたり、キャディーの役をさせられたのです。確かに大変な日々ではありましたが私は夢中で全部をこなしていったのです。

 

35ヨークシャーテリア「トップス」と苦肉の策(小枝を使って犬の便意を催す)

ハウスボーイとして住み込むこととなったリチャードソン家で最初の日にリチャードソン夫人に言われたのは「Make bed for Tops!」でした。Tops(トップス)というのは夫人の飼っていたオスのヨークシャーテリアであす。小学生の頃、通学途中で道の先に犬の姿が見えるともう足がすくんで歩けなくなるほどで世の中から犬などいなくなればよいと思っていたほど犬嫌いだったこの私が犬の世話をすることになろうとは思ってもいませんでした。 留学生支援オフィスからこのアルバイトを紹介された時には犬の話は聞いていませんでした。

 

世話をするようにといわれたトップスは飼われて7年目、かなりの老齢です。 ふさふさした薄茶色の毛にところどころグレイの毛が混ざった立派なヨークシャーテリアでした。 <Make bed>というのは寝床を整えるという程度の意味ですがあがっていたせいか犬のベッドを作れと言われたと勘違いしてしまいました。リチャードソン夫人がどうして私の工作好きを知ったのだろうと不思議におもいました。トップスの寝床はベースメントの一角にありました。毛布がくしゃくしゃになっていました。あっ、そうかこの毛布をきちんとひきなおしてやればいいのだなとその時気がついたのでした。

 

トップスも毎日餌をやっていたので暫くすると良くなついてきて怖くなくなりました。毎朝餌をやった後に排便をさせるためリチャードソン邸の庭と繋がっているゴルフコースに連れて行きます。 早朝のゴルフ場はたくさんの小鳥達がそこら中で競うように囀っていてとてもさわやかな気分になります。 但し当然のことながらトップスが便意を催すまでの時間は日によってまちまちです。このことが私にとっては大問題となってきます。大学の授業は820分から始まるのです。リチャードソン邸からは自転車でどんなに急いでも物理の教室までは15分はかかりました。 と言うことはトップスの朝の散歩は8時までには済まさないといけません。トップスが便意を催すまでの時間にはばらつきがあるので余裕をもつ為には7時半には散歩に連れ出さなければならないのです。 

 

6時過ぎに3階のリチャードソンご夫妻のベッドがコトッとなる音で目が覚めるとすぐさま着替えをして台所へ行きご夫妻のための朝のコーヒーを用意しなければなりません。それと同時に自分の朝食を食べ、サンドイッチの弁当を用意します。トップスの排便時間が定まらないと毎朝せわしないこと夥しいのです。そんな時、ふと奇策を思いつきました。そうだ、これならばトップスの排便をコントロールできるかもしれません。思いついたら直ぐ実行あるのみです。ゴルフコースに出るとフェアウエー脇の林で小枝を拾い、狙いを定めてトップスの肛門のしわしわの部分を突っついてみました。そうするとどうでしょうトップスはその場でよたよたと数歩進むとかがみこんで排便を始めたのです。この方法は百発百中成功でした。私にとっては大発見でした。それからというもの毎日この方法でトップスの散歩時間をコントロールしたのです。トップスにとってはいい迷惑だったに違いありません

 

36.インターナショナルショー

年に一度インターナショナルショーなるものが大学の講堂で開かれます。これは留学生達が国別に趣向を凝らした芸を披露する一種のお祭りのようなショーです。留学生はもとより、ホストファミリーそして地域住民たちが見に集まります。日本からは年によって違いましたが、日本舞踊、琴の演奏、柔道の乱取り、唱歌合唱、そして盆踊り等々から23選んで披露していました。前者三つは留学生の中から経験者が選ばれて担当しましたが合唱や盆踊りは日本人留学生ほぼ全員参加で行われました。ぶっつけ本番と言うわけには行きませんのでインターナショナルショーの日が近づくと週に12度は集まって練習です。皆で唄った歌の中でも瀧廉太郎氏の名曲“花”「春のうららの すみだ川 上り下りの船人が・・」は今でもよく覚えています。シアトルの日本人会から貸してもらったゆかたを着、菅笠を被ります。皆で集まってわいわいするのは楽しいものですが、あまり時間を取られると学業に影響が出てきます。私はこれを逆手にとって良い成績が取れそうもない科目の中途棄権の口実にしました。

 

欲張って科目数を多めに選択してしまった場合とか、背伸びして自分の実力以上の科目を選択してしまった場合など学期が始まって12週間もすればこのまま続けると「C」とか「D」になりそうだと解ります。こんな時には最初の2週間以内に担当教授に申し出れば正当な理由さえあれば無傷のままドロップアウトすることが可能だったのです。インターナショナルショーの準備で忙しく勉強する時間が取れないと言うとほとんどの教授は認めてくれたのです。私は12度この手を使って悪い成績を取るのを防いでいました。

 

インターナショナルショー様々ですが私がワシントン大学にいた間に見たショーの中で一番鮮明に覚えているのはイスラエルから来ていた超美人留学生のベリーダンスです。3年後ヨーロッパから日本に帰る途中エジプトで見た本場のベリーダンスよりすごかったと思います。

 

37.仲良し4人組

物理の実験で一緒だったエキ・ゲーハルト、ボッブ・ハンフリー、それにジョーン・ハドソンとはすぐ仲良くなりました。 エキはドイツ人で物理の科目はほとんど「A」を取っていました。ボッブはステレオマニアで彼自身アンプを作っては売って学費に当てていました。ジョーンは人のいい普通のアメリカ人です。私を交えた4人は放課後よく集まって数学や物理の宿題を一緒に解きました。

 

物理の宿題は多くの場合その週に行った実験のデータを使ってレポートを仕上げるものでした。エキが何時も確りとデータを記録していてくれたおかげで助かりました。ボッブとジョーンはあまり数学がとくいではなく小1時間も考えても出来ないと私の答えをコピーして提出していました。エキは毎回のように物理のレポートを短時間で書き上げていたのが不思議でしたがある時その秘密を知ってしまいました。

 

フィゾーの光速測定実験でした。私は3108乗メーターに近い結果は出ますがエキはC=2.9979・・x108乗と5桁ぐらいまで正確な数値を出すのです。ふと彼のデータを見るとなんとデータを捏造していたのです。最初に「答えありき」で測定データの代わりにより正確な結果が得られるように自分で都合のいい測定値を作っていたのです。学期の最終成績には宿題の点が50%程反映されるのでこれでは勝負になりません。最もエキは期末試験も良い点を取っていたので何も言えませんでした。

 

38.初デートと不可解な話

気候も春めいて暖かくなって来た頃エキからボッブ、ジョーンと共に家に招待されました。誰かガールフレンドを連れて来いと言うのです。未だガールフレンドなどいませんでしたので困ってしまいました。そこでふと思いついたのがクリスマスのスキー合宿で知り合ったドイツから来ていたギゼラです。ドイツ人の家庭に行くのだからドイツ人女性がいいかなと言う単純な発想でした。ギゼラに連絡を取ると「いいわよ」と二つ返事です。

ホストファミリーのアンに話すと「良かったわね。初めてのデートでしょ。私の車を使いなさいとヒルマンの赤いコンバーティブル車を貸してくれました。

 

真っ赤な小型オープンカーに金髪の女性を助手席に乗せ新緑の郊外を走るのは気分のいいものでした。シアトル郊外のエキの家に着くと既にボッブとジョーンは来ていました。しかし二人ともガールフレンドは連れてきていません。エキは私がドイツ人のギゼラを連れて現れたので一瞬びっくりしたようでしたがすぐにギゼラと打ち解けて話し始めました。そこへエキの父親が現れました。いいものを見せるからといって私を地下室へ案内しました。そこは研究室と言うか実験室と言うか部屋の真ん中には宇宙を思わせる様な模型があり地球のようなものが空中をぐるぐる回っていました。エキの父親は人工衛星エコー(私が日本にいるときに東京の夜空でも肉眼で見ることが出来たアメリカが打ち上げた話題の人工衛星)開発技術者グループの一員だったそうです。その彼が私に向かって「私はこの装置を使ってアインシュタインの光速度不変(いかなる慣性系から見ても)の原理が間違いであることを証明した」と言いだしたのです。もし、それが本当なら物理学会を揺るがす大問題になるはずですがそれ以後そんな話はどこからも聞こえてきませんでした。エキのデータ捏造を知った後でしたので「この父にしてこの子あり」かなと思ったりしました。

 

ドイツ風の昼食をご馳走になった後、雑談になりました。エキは自作のアンプを持ち出してきてボッブに見せ何か意見を求めていました。当時のアンプには真空管が使われていました。そんな時エキが突然私に向かってチラッとボッブに目をやり「ボッブはこれだから注意しろよ」と言ってアンプから取り出した真空管を口にくわえる仕草をしたのです。まさか、ボッブにはガールフレンドがいた筈です。しかしその日ボッブもジョーンもガールフレンドを連れてきていませんでした。

 

それから数日たったある日、ジョーンがリチャードソン邸のわたしの地下室に尋ねて来ました。数学の宿題を一緒にやってくれと言うことでした。ジョーンが一人だけで来たのは初めてでした。暫く一緒に宿題に取り組んでいましたがその内異様な雰囲気に気がつきました。ふと顔を上げてジョーンを見ると私を見つめているのですが目が死んでいます。催眠術に掛かったように空ろなのです。私は気味が悪くなり表に飛び出しました。「ブルータス、お前もか」の心境で暫く心臓の鼓動がなりやみませんでした。

 

(尚、ギゼラはその後間もなく家庭の事情で国に戻って行きました。)

 

39.園遊会と七面鳥の亡霊

Mr.リチャードソンは大手製紙会社の営業部長でした。学生時代はアメフトの全米代表選手にもなったことがあると言うだけあり立派な体格をしていました。夫人の方も大柄で漫画のブロンディーのような金髪で丸顔でした。二人は良く友人を招いて園遊会を開いていました。園遊会が近づくと私にバーテンの手伝いをさせるためカクテルの作り方を教えるのです。

 

3時頃に大学から戻るとDen(奥まった小部屋)に来るように言われます。Denに行くとテーブルにジン、ヴォッカ、トニックウオーター等の瓶が並べられています。但し中身はすべて水です。日本ではシェーカーを振ってよくカクテルを友人に振舞ったものですがアメリカに来てバーテンの訓練を受けるとは思ってもいませんでした。夫人が椅子に座って「ジントニックを作って」、「マティーニを作って」と指示します。アメリカではあまりシェーカーは使わずメジャーを使ってベースとなる酒と混ぜるべき添加物を適量量りグラスに注ぎかき混ぜて完了です。混合比率を間違えると「それではダメ!」と言われやり直しさせられます。中身はすべて水での練習なので失敗しても問題ない訳です。

 

実際の園遊会にはプロのバーテンダーが雇われるので私の出番はあまりありませんがウエイターとして飲み物の注文をとって回るのである程度の知識がなければならないわけです。リチャードソン家のパーティーに集まる人達が注文するのはウイスキーのオンザロックかジントニックかマティーニぐらいでしたが私が苦労したのは飲み物の注文をとることより注文した人のところに飲み物を間違いなく届けることでした。何せ広い庭での立食パーティーです。人々はいろいろな人と話すため動き回ります。皆似たような顔をしていて服装も似ているのです。動かないでいてくれても区別が出来ないのに動き回るのですから注文された飲み物をそれを注文した人に間違いなく持って行くのは至難の業です。

 

日本では飲み会等を開く場合はサークルの仲間とか小学校や中学や大学時代のクラスメートとか職場の仲間とかある特定のグループだけで集まるのが普通ですがアメリカのパーティーはホストにあらゆるつながりのある人々を呼ぶのでいろいろなグループの人間がごったになります。そこで友達の輪がどんどん広がってゆくので中々楽しいものです。

 

そんなわけで前もって出欠席の返事を貰っていても当日になって出席者の数が大幅に狂うことが起こりうるのです。リチャードソン家のパーティーでも大誤算が起こったことがあります。クリスマスパーティーで60人前後の参加者を予測していたところ実際に参加したのが40人強になったのです。被害を蒙ったのは私でした。七面鳥の料理が10数人分余ってしまったのです。七面鳥も少量グレービーをかけて食べるのは美味しいこともありますがリチャードソン夫人に来る日も来る日も七面鳥を食ってくれと言われ続ければどうなるか。一週間もこの拷問が続いた頃から七面鳥にうなされるようになったのです。

 

40.アメリカ女性の秘毛(?)

リチャードソン家のハウスボーイの仕事のひとつに毎週土曜日の家中の清掃作業がありました。 バス・トイレルームが5ヶ所の洗浄、地下室から4階アトリエまでの絨毯床のヴァキュウム(電気掃除機での塵取り)、南面総ガラス張りの一階から四階までの窓ガラス拭き等々です。

 

ある時金曜日にリチャードソン夫人の姪でワシントン大学の学生だったフライデーが遊びに来て泊まっていきました。 翌土曜日は清掃日で彼女の泊まったゲストルームの浴室を掃除しているとシャーワールームの床に金色の毛が落ちています。よく見るとそのちじれ具合から紛れもなくあそこの毛です。フライデーのものに違いありません。そのまま洗い流そうとした時ふと思い出しました。高校時代の友人の依頼です。是非アメリカ女性のあそこの毛を持ち帰ってほしいというものでした。

 

あそこの毛なんてよほど親密にならなければわけてもらえるはずもありません。そんなことは内気な自分に出来るはずもないのです。しかしここにあるのは紛れもなくその友人ご所望のものであることに間違いありません。よし、これを友人に送ってやろうという考えが頭をよぎりました。後先を考えずに努力なしに手に入れた一物を件の友人に郵送したのです。でもよく考えるとその入手方法にあらぬ想像を働かされる恐れは十分あったのです。

 

しかし友人からは何の反応もありませんでした。 奥さんに見つかって逆に絞られたのではないでしょうか。 私はこれ以外にも蚤を手紙に入れて日本に送ったことがありますがその話はフランス生活編の部でお話することにしましょう。

 

41.奨学金に再挑戦

冬学期は数学で「A」が二つ、フランス語も「A」でしたが肝心の物理では「B」二つの成績で終わりました。成績が下がらなかったので留学生向け奨学金に再度挑戦することにしました。待つこと一週間今度は「I am glad to inform you・・・」で始まる嬉しい手紙が届きました。但し、最終決定には2人の担当教授からの推薦状が必要とありました。一つは良い成績を取っている数学の担任テーラー教授に書いてもらうことにしました。教授を訪れると快諾してくれました。問題はもう一つの推薦状です。フランス語は良い成績でも自分の専門ではないので使うわけには行きません。やはり物理科の教授に頼むしかなさそうです。考えた挙句、「B」を取った熱力学のダッシュ教授を訪れました。「A」を取れなかったので遠慮がちに事情を話すと「私の難しい科目で留学生の君が“B”を取ったのは賞賛に値するよ」といって素晴らしい推薦状を書いてくれたのです。これで二年間の学費が無料になります。

 

ハウスボーイになって衣食住の心配がなくなっていた上、奨学金により学費も要らなくなったので親の援助なしに留学生活を続けられるし少々ながら貯金も出来るようになりました。

42.夏学期

アメリカの大学生は大部分が学費を自分で工面します。親の脛をかじる風潮はあまりないようです。ですから夏学期は大学に行かずに何らかのアルバイトをして一年分の学費を稼ごうと言う学生が多いのです。私の在籍していた数学科や物理科の学生も多くは夏季学期のコースを取らずにアルバイトを求めて散っていきました。日本人の学生にとっての最高のアルバイトはなんと言っても時間給の高かったアラスカでの鮭の「いくら」造りの仕事でした。日本人留学生なら誰でも参加できると言うわけではなく採用試験の面接がありました。私も参加したくて面接に行きましたが不採用となりました。 私よりも屈強な友人が採用されたのです。

 

仕方なく私は学業に励むことにし夏季学期の数学を欲張って5コース履修したのでした。結果はオール「A」で2年間での学部卒業を確実なものにしました。5コースのうちの一つは最初「B」が付いてきたのですが、どう考えても「A」のはずでしたので返却された期末試験の答案(日本の大学とは違って試験の結果は採点後学生に返してくれます)をクラスメートのアメリカ人学生に見せて判断を仰ぎました。「間違いなくミスだよ」と言ってその学友が教員室まで同行してくれました。担当はスウェーデンから来ていた若い女性の助教授でした。私の差し出した答案を見て「すみません。私のミスです。」と言ってその場で大学に「A」への修正手続きを取ってくれたのです。もし日本の大学(少なくとも早稲田)のように採点後の答案を返してくれないのであればこのようなミスは表面化しません。私はアメリカのやり方の方が公明正大で良いなと思ったものです。

 

夏学期も終わりに近づいた頃ホストファミリーのアンから23日のピュージェットサウンド(シアトルの西側に位置する瀬戸内海のように静かで島の多い海域)クルーズに誘われました。アンの友人が所有しているクルーザーでの航海です。とても楽しそうでしたので何とかご招待にを受けたかったのですが何しろハウスボーイとして日曜以外は仕事があります。アンがリチャードソン夫人に掛け合ってくれることになりました。翌日アンから電話がありました。リチャードソン夫人の答えはやはり「No」でした。ハウスボーイに3日も暇を取られては困ると言うものでした。結局私も諦めざるを得ませんでした。その代わりアンは私がフリーな日曜日に彼女の友人に頼んで私をワシントン湖での水上スキーに誘ってくれたのでした。それは現在マイクロソフトのビル・ゲーツの豪邸近くの湖上でした。最初の23回はスキー板が水中にぐんぐん引っ張られていく感じで溺れそうになりましたが慣れてくると水の抵抗をうまくスキー板の裏側で捉えられるようになり湖上に体が浮上します。モーターボートに引っ張られて湖上を駆け巡るのは実に爽快な気分です。

 

43.ガードニング

リチャードソン夫人は子供がいなかったせいか草花が好きでした。ハウスボーイになった厳寒の2月に家の前庭の周りにパンジーやペチュニアの苗を植えるように言われました。霜の降りている土に小さなシャベルで穴を掘り、苗を植えてゆくのですが大邸宅でしたのでその面積たるや大変なものです。鼻水を流し流しの作業です。終わる頃には熱が出てきました。そんな時リチャードソン夫人は「これでも飲んでいれば治るわ」と言ってアスピリンを手渡すのが常でした。

 

裏庭の一部は薔薇園のようになっていていろいろな色の花をつける薔薇の木が植えられていました。この薔薇園の手入れが又大変なのです。適当な時期に肥料を薔薇の木一本一本にかけるのです。リチャードソン夫人が買ってくる肥料は魚の腐ったものから作られているらしく入れ物から出すと物凄い悪臭で卒倒しそうになるのです。それをゴム手袋をして薔薇の枝の芽が出そうな部分にぬりまくるよう言われました。いくらゴム手袋をしていても体の周りにしみついた匂いはなかなか取れないのです。食事も喉を通りません。

 

天気の良い日の芝刈りも大変な仕事です。何しろゴルフ場の中にある家なので自分の家の庭とゴルフ場のコースとの区別がつきません。どこまで芝生を刈ればよいのか実に悩んだものです。又、垣根の潅木のトリミングは素人には難しいものです。リチャードソン家の垣根の潅木は私の背丈より少し高いぐらいでしたのでトリミングなど難しくなかろうと始めました。半分ほど枝を切り落としたところで少しはなれたところから見てみると高さが揃っていません。いけないと思い一番低く刈り込んだところに合わせて出っ張っていると思われた部分を切り込みまた離れてみて見ると今度は切り込んだ部分が凹んでいて垣根の高さが一定していません。そこでまた今度は高い部分をトリミングします。また離れてみるとまだ高さが一定していません。こんなことを繰り返しているうちに気がつくとブッシュは丸裸になってしまっていました。さすがにリチャードソン夫人には切りすぎだとお小言をもらいましたが後の祭りでした。

 

44.家庭教師の仕事を譲り受ける

秋学期も始まって間もない頃、一年先輩の日本人留学生Hさんから家庭教師をやらないかと声をかけられました。話を聞いてみると在シアトル日本国総領事館参与C氏のご子息の日本へ帰ってからの大学受験の準備のための家庭教師とのことでした。H先輩が教えていたのですが帰国することになり引き継いでほしいと言うのでした。私は日本にいた時に大学受験生5人の家庭教師をしていた経験がありましたので喜んでお受けすることにしました。

 

ハウスボーイの仕事がない日曜日になるとC氏が自ら車を運転してリチャードソン邸まで私を迎えに来てくださったのには恐縮しました。ご子息に教えたのは数学と物理でした。謝礼を頂けたのは嬉しかったには違いありませんがそれより嬉しかったのは毎週暖かい日本の家庭的雰囲気を味わえたことでした。毎回、勉強が済んだ後に奥様が作られる手料理を御馳走になったのです。当時既にシアトルには日本料理店が45軒ありましたがご家族の皆さんと和気合い合いの雰囲気の中いただく純日本的家庭料理の味は外食では味わえないもので本当に美味しく私にとっては至福の一時でした。

 

C氏ご家族には良く日本映画を見に誘っていただきました。ダウンタウンにあったボザール(Beaux Arts)という日本映画専門の映画館でした。「青い山脈」、加山雄三の東宝「若大将シリーズ」、「勝新太郎の座頭市シリーズ」、長門勇の「三匹の侍」等々はハウスボーイで鬱積した疲労を癒すのに大いに役立ったものです。

 

C氏から息子さんが東工大と早稲田の理工学部に受かりましたとの電話をいただいたのは私が帰国して間もない頃でした。

 

45.ブロードムアープライベートゴルフ場

リチャードソン邸はブロードムアーゴルフ場の中にありました。このプライベートゴルフ場は歌手のアンディー・ウイリアムズや名喜劇俳優のボッブ・ホープなどもプレーしに来ていた名門コースです。リチャードソン邸の傍にあったスタートホールからはよくヒュルヒュルヒュルと唸りを立てて飛び出す打球が聞こえました。今では私もゴルフをやりますがプロのトーナメントを見に行って唸る打球を耳にすることはあっても仲間の打球が唸りをたてるのは聞いたことがありません。

 

ブロードムアーには結構上級ゴルファーが来ていたようです。このゴルフ場は木曜日が芝の休養日でクローズとなり従業員はプレーしてよいことになっていました。私も従業員でしたからプレーしてよかったのですが一年近くも勤めていてこの特権を一度も利用しませんでした。「ゴルフなど覚えて日本に帰ったらお金が掛かって大変よ」と言うガールフレンドの言葉を真に受けてゴルフをやらなかったのですが今考えると大変もったいないことをしたと思います。リチャードソン夫人は良く友達を招いてブリッジをしたり、ゴルフをしました。ゴルフをする時はキャディー役を仰せつかります。キャディーと言っても芝の目が読めるわけも無いし、ゴルフのルールも知らなかったので単にリチャードソン夫人とゲストのゴルフバッグを担いでお供するだけでした。今思うとカートがなく二人分を担いで回ったのですから大変な仕事でした。ワンラウンドお供すると6ドル貰えました。

 

このコースにはほかにも思い出があります。ある日の午後犬のトップスを散歩に連れ出しました。フェアウエーを横断しようとすると真新しいゴルフボールが落ちていました。周りを見回しても誰も見えません。犬の散歩中にはよくロストボールを拾っていましたのでこのボールも拾い上げてポケットに入れました。いつもと違うのはコース脇のブッシュの中ではなくフェアウエーのど真ん中であったことです。その時です。遥か遠くにゴルファーの姿が現れました。しまった、これはプレー中のボールだったのです。しかし完全に私の姿はゴルファーの視野に入っています。ボールを元の位置に戻しに戻ったら訴えられるかもしれません。ハウスボーイを解雇されるかもしれない。そう思うと怖くて戻れません。結局、ボールをポケットに入れたままコースを横断し林に身を隠したのです。豪快なショットを放ったゴルファーはフェアウエーの真ん中にある筈のボールが見つからなくて首をかしげたに違いありません。今でも思い出すたびに悪いことをしたなと思っています。

 

またある時トップスを連れてゴルフ場のコースを散歩して家に戻ってくるとポケットに入れていたはずの家のキーが無いのです。何処かで落として来たに違いありません。リチャードソン夫人に告げると大事なキーなので探して来るようにと言われました。かなり広範囲に歩いて来たので探すのは大変です。それに芝もかなり深くなっていました。途方にくれました。どこを歩いてきたか考えているとふとあることを思い出しました。途中で犬を引っ張っていたリーシュが外れてトップスが駆け出し慌ててトップスをタックルするため跳びかかった場所があったのです。あそこに違いありません。大体覚えていたその場所に戻り芝の中を見回すと金色に光るキーが見つかりました。ほっとしました。

 

46.ジョン・F・ケネディー大統領暗殺される

その日私は大学の図書館で物理レポートの作成に取り組んでいました。正午一寸前だったと思います。突然、図書室中央の大きなドアが開きました。館長が姿を現し「今しがたケネディ大統領がダラスで銃弾に倒れ現在昏睡状態にあります」と告げたのです。館長の目は真っ赤で涙が溢れていました。当時ラジオでは頻繁にケネディーとジャックリーヌの物まねコミックが流されていてケネディ家族は皆に大変親しまれていました。キューバ危機を乗り越えた若き大統領に期待が集まっていた最中のこの事件がアメリカ国民だけでなく全世界に与えたショックは計り知れないものがあります。

ワシントン大学の午後の授業はすべて中止となり建物には半旗が掲げられました。私も直ちにリチャードソン邸に戻りテレビにかじりついて事件の成り行きを追いました。間もなくケネディ大統領の死亡が発表され、その夜遅くリー・ハーヴェイ・オズワルドがケネディ暗殺容疑で逮捕されました。ところがこのオズワルドは、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、ダラス市警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いルビーに射殺されたのです。この時の模様はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万人のアメリカ人が生中継でこの瞬間を見ることになったのです。私もこの瞬間をテレビで見ていた一人です。

ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーヌが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由でしたが、ケネディ大統領暗殺事件を検証するためジョンソン第36代アメリカ合衆国大統領により設置された調査委員会であるウォーレン委員会はおろかマスコミでさえその不可解さを取り上げることはありませんでした。しかも、この事件とも何の関係もない、かつ警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入り込めたのかという理由について、ウォーレン委員会はダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判してはいるものの、その理由については最終的に満足な説明は何一つ為されなかったのです。

また、事件後には、ルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を随時追いかけていたことが複数の人物から証言されましたが、そのルビーはこの事件について多くを語らないまま4年後に癌により獄中で死亡しました。日本であれば警察が移送中の重要容疑者が殺されたりすればマスコミが警察に対する非難を大々的に取り上げ大変な騒ぎとなったと思います。

副大統領であったジョンソンがケネディ大統領の後を継ぐ第36代アメリカ合衆国大統領に就任しましたがその就任式でジョンソンが「この難関を乗り越えるために私は国民皆さんの協力と神のご加護が必要である」と述べたのを記憶しています。とにかくなぞの多い事件でした。

47.時々私を困らせたリチャードソン夫人

ある土曜日のこと、いつもの様に私は一階のロビーから絨毯の掃除機がけを始めました。そこへリチャードソン夫人が上の階から降りてきました。時々私の掃除ぶりをチェックするのです。ところがこの時はチェックではありませんでした。夫人はロビーにあった数個のクラシックな椅子の一つを指差し「ちょっとこの椅子の足を見てごらんなさい。接いだ後があるでしょ。」指差された椅子の足を見ると確かに継いだ痕が見えます。「私が思うにヤス(私の前任者)が私の留守中にこの部屋で柔道の練習をしていて誤ってこの椅子にぶつかり椅子の足が折れてしまい、慌てて強力接着剤でつなぎ合わせたのよ」と言って私に同意を求めたのです。確かにヤスさんは柔道黒帯でしたがそんなことするとは思えません。

私が最後まで頷かなかったのでその時はそれで終わりましたが、下手すると私も何かあらぬことで疑われているかもしれないと思うと落ち着いていられませんでした。

 

又、ある日のことスーパーマーケットで買い物をして帰って来たリチャードソン夫人があわてて私を呼びました。何事かと思って飛んでゆくと「スパーマーケットで35セント余分に払ってきてしまったのに気がついた。私のキャデラックを使っていいから35セント取り返してきて」と言うのでした。キャデラックで行けばガソリン代だけでも35セント以上は掛かるはずです。私が夫人の金銭感覚が良く理解できずに躊躇していると「ついでにrisqué(リスケイ)thing を買ってきて」と言ったのです。私はrisquéという単語を知りませんでしたのでriskyと思ってどんな危険なものかと訝っていましたが夫人の説明を聞いているうちにrisqué thingとは「大人のおもちゃ」のことであるとわかりました。パーティで贈り物に使うのだそうです。いずれにせよあまり引き受けたくない仕事でした。

 

時には親切心から私を困らせることもありました。何の機会だったか忘れましたが夫人が大きな白身魚を買ってきて夕食時に私のために炒めて出してくれたのです。日本人は肉より魚が好きであると決めてかかっていたのです。私は魚が好きではありませんでした。しかも味が無い大柄の白身魚など食べられたものではありません。しかし、親切心から夫人がわざわざ作ってくれた料理を食べないわけには行きません。私にとっては苦痛の魚料理でした。

 

48.愛犬トップスとのお別れ

歳をとっていたトップスは段々家の中で粗相をするようになってきました。ところ構わず臭い大便をするのです。しかも一回にする量が多く数箇所に大きいのをたらします。その処理はすべてハウスボーイの私がやることになります。まず盛り上がった糞の塊を取り払い、絨毯についた跡を洗剤で洗い落として臭いけしをかけるのです。問題はそれが私の仕事の時間外に起こることが多いと言うことです。試験前の夜にでも当たったら落ち着いて勉強も出来ません。

 

トップスは糞だけでなく良く臭い「おなら」もするようになっていました。ある日トップスがおならをした時、私はたまたま近くにいたリチャードソン夫人に「Tops farted!」と告げました。夫人は「今何と言った?」と言うので「Farted」と言うと「その言葉は何処で覚えたの?」と訊ねられました。正直に日本にいたとき辞書で覚えたのだと言うと、それならしょうがないわねと言う顔をして夫人が説明してくれました。「fart」は卑しい言葉で人前で使ってはいけない。言うなら「break wind」と言いなさいと。「break wind」がおならをするという表現なら「fart」は屁をひると言う言い方で一種のfour-letter wordであることを知ったのはトップスのおかげと思っています。

 

それから間もないある日のこと大学から戻ってくるとトップスの姿が見当たりません。何処へ行ったのかと思ってリチャードソン夫人に尋ねると「トップスはもういません。今日獣医さんのところで注射をうってもらって安楽死させました」と教えてくれました。私が粗相の始末をいやな顔をしてやっていたのでこうなってしまったのかと思うとたまらない気持ちになりました。

 

その次の日、大学から戻ってくるとリチャードソン夫人の足元をグレイ色の小さなプードルが走り回っていました。この犬の名前は覚えていないのです。なぜなら名前を覚える間もなく私自身がリチャードソン家から去ることになったからです。

 

49.リチャードソン邸を辞してプライス家に移る

秋学期が始まって間もない頃、やはりハウスボーイをしていた大先輩のMさんから「僕のやっているハウスボーイを引き継いでくれないか」と打診されました。Mさんは結婚することになったのでハウスボーイを続けるわけには行かなくなり誰か後釜を探していると言うのでした。良く話しを聞くと悪い話ではありません。給金は月30ドルでリチャードソン邸の50ドルより少ないのですが仕事の量が俄然少ないのです。一週間に一度一台の乗用車を洗うのと土曜日に玄関前の前庭の落ち葉掃除、そして夕食時の食卓のセティング(ドイリーをひき、ナイフ、フォーク、スプーンを並べるだけ)そして来客がある時だけ白い給仕服を着て蝶ネクタイをつけ給仕をするというものでした。

 

Roll over!」と言うとくるっと短足胴長の体を横に一回転させる可愛いダックスフントが飼われていましたが、犬の世話はしなくて良いことになっていました。どう計算しても一週間に仕事に取られる時間は3時間ほどしかありません。こんなうまい話はありません。奨学金のおかげで学費は掛からないし、バイトのおかげでお金も少々貯められる状態になっていましたから私がほしかったのは自分の自由になる時間でした。リチャードソン邸では好きなビールも一ヶ月に350mlの缶ビール一個しか許されていませんでしたから大分ストレスも溜まっていました。

 

リチャードソン夫人に話すと「後釜が見つかるまで居てくれるならいいわ」と言ってくれました。運良く留学生支援事務所の世話でハウスボーイを希望していると言うタイからの留学生が直ぐに見つかりました。話はとんとん拍子に進み間もなくして私は思い出深いリチャードソン家からプライス家へと居を移したのです。

 

商業銀行の創始者だったご主人を無くなした未亡人のミセス・プライスが新しい家の主人でした。プライス夫人は背筋のぴんとした英国の貴族を思わせるような気品のある女性でした。家は二階建てで横長であり中央の玄関は前庭を隔てて「Broadway」という公道に面していました。裏に回ると斜面で土地が低くなっており地下室が一階の様になっていました。私が与えられたのはこの地下室(裏に回れば一階)でしたが表の正規の玄関を使わずに済んだので自由に出入り出来、ハウスボーイをしているような感じはしませんでした。門限も無かったので友達と夜遅くまで飲みに出ることも自由になりました。

 

 

50.プライス家とカルチャーショックの数々

プライス家には夫人の90過ぎの母君が同居していました。又、この母君の世話をする可なり歳のいった介護師の女性とノルウェイから来ていた賄い担当のクリスティーおばさんが一緒に住んでいました。クリスティーは太っていて動作が鈍く話し方も小声でもぞもぞ話すので言っていることが良く理解できませんでしたが人柄は良く、時々私にカレーを作ってくれました。一階の正面玄関を入るとアメリカ映画でよく見るような立派な階段が二階へと続いていました。その手すりにはレールがついていてレールのうえの椅子にプライス夫人の母君が座るとスルスルスルと電気仕掛けで二階まで登って行くのには驚きました。自動車のガレージもプライス夫人の帰ってくる自動車が見えないうちからシャッターがひとりでに開いていくのに驚いたものです。でもプライス家で受けた本当のショックはこんなものではありませんでした。

 

プライス家に入った日、私は食堂でミセス・プライスによって他の従業員達に紹介されました。その席上でのことでした。私の面前で夫人は食堂の数ある食器棚の一つ一つに鍵をかけていったのです。それぞれの棚には高価な食器類がおさめられていたのです。私の受けたショックは大変なものでした。その行為が私に対する親切心からであると言うことが解るには可なりの時間が必要でした。しばらくして、知り合いの老婦人に教会に連れていかれたときです。教会近くに車を止め車のドアを閉めた時です。同伴していたその老婦人が私に向かって「外から見えるところに手荷物を置いてはいけません。それはsinです。(crimeではありません)」と言って私を咎めたのです。要するに他人に盗みを唆すような環境を作ることは罪であると言うことなのです。完全に性悪説に基づく理論です。盗みを思い起こさせないようにするのが親切心なのです。プライス夫人のとった行為もやっと納得できました。後にフランスで止めておいた車から大事な荷物を盗まれた時、警察で見えるところに置いとけば盗まれるのがあたりまえだと言われ、どちらかと言えば性善説にたつ日本との違いを思い知らされたことがあります。

 

ついでに私がアメリカで受けた他のショックの話もいたしましょう。それは人の行為に直ぐ金を払おうとすることでした。最初の下宿に居た時でした。宿のオーナーのジェイコブスンおばあさんに壁の額縁を留めていた釘が取れたので新しい釘を打ってくれと頼まれました。釘と金槌を手渡されたので直ぐ新しい釘を壁に打ち付けました。1分も掛かっていません。するとジェイコブスンさんは私にさっと二ドルを手渡したのです。親切心でやった行為にお金を渡されたら侮辱された気持ちになります。勤労奉仕が美徳と教わって育った私は特にそう感じたのかもしれませんが、私は非常に情けない気分になったのです。只、半年ぐらいたった冬のある日、水道管が破裂して困っている家の前を通りかかり、車を止めて手持ちの材料で緊急処置をしてあげたとき差し出された5ドルは素直に受け取れる自分になっていたのでした。

51.スタッグ・パーティーとブルーフィルム

スタッグ・パーティー(バッチェラー パーティーとも言う)とはもうすぐ花婿になる人とその男友達だけが集まり独身生活を惜しんで羽目をはずすパーティーです。私にプライス家のハウスボーイを譲ってくれたM先輩も結婚を控えてスタッグ・パーティーを開きました。勿論、最初は飲み会から始まりますが宴もたけなわとなるとブルーフィルムの上映が始まります。

 

ブルーフィルムとはポルノ映画であり今で言えばAVビデオにあたります。当時はビデオなど無く映写機で写す8ミリ映画をブルーフィルムと呼んでいました。私はブルーフィルムなる言葉は知っていましたが一度も見たことはありませんでした。部屋の壁に写された映像は白黒で決して鮮明なものではありませんでしたが生まれて初めて見るブルーフィルムの画像は今でも鮮明に覚えています。何でも警察から回ってきたものだと言うことでした。警察が押収したポルノは凄いのが多いよとは弁護士をやっていた義兄がよく言っていましたがなるほどと思って感心したものです。

 

スタッグ・パーティーは結婚式でベストマン(新郎の世話人代表)をする人が手配することになっているそうですが後に親友のベストマンをやることになった私にはそんなブルーフィルムを手配することは出来ませんでした。

 

スタッグ・パーティーがあって暫くするとM先輩の結婚式に招かれました。教会での厳かな式が終わると新郎新婦は車に乗って会場を後にします。その車にはアメリカ映画でよく見るように幾つもの空き缶が紐で繋がれ車が動き出すと引っ張られていてがらんごろんと音を立てるのでした。これを見た時、ああ、アメリカだなと思ったものです。

 

52.T氏の外国人女性くどき術

アメリカに留学すれば可愛い金髪女性とすぐにでも仲良くなれるのではという私のはかない夢は留学後まもなく粉砕してしまいました。内気な私にはとても女性に声などかけられません。ところが日本人留学生の中にも次から次へと可愛い子をナンパしている人物がいました。私と同年輩のT氏はいとも簡単にアメリカ女性と懇ろになっていたのでした。ある日Tさんが「女性くどき術」を伝授するからと言って彼の下宿に連れていってくれました。部屋に入るとソファーが置いてあり、その向こうにオーディオセットがあります。まず女性をソファーに座らせ、部屋を薄暗くしてムードある赤い電球を灯し、ムードミュージックを流すのだそうです。次に何気なく女性の傍らに座りしばらく雑談をし、ムードが盛り上がったところでまず彼女の髪を褒めるのだそうです。そして時を見計らって彼女の髪を撫で、髪にそっとキスをするのだそうです。そこで彼女が嫌がらなければもうこっちのものだとT氏の説明です。

 

次から次えと彼女を変えていたT氏も裏ではそれ相当の準備をしていた事が分かりましたが、彼のテクニックにしろ以前下宿同居人のウディーが教えてくれた方法も、いずれも最初にこれと思う女性に声を掛けるところから始まるのですから女性に声も掛けられない私には利用出来ないものでした。後日談ですが数十年後、あちらの大学の教授になっていたこのT氏が客員教授として東京大学に赴任したことがありました。たまたま仕事の関係で知っていた同じ学部のY教授にT氏の昔話をしたところ「そんなことは信じられませんT教授はとても真面目な方です」と一蹴されてしまいました。人間とはずいぶん変われるものだなあと思いました。

 

53.デートあれこれ

シアトル時代に私が外国人女性と一対一のデートをしたのは後にも先にも前にお話ししたドイツからの留学生ギゼラとの一日デートとフランス語クラスのアメリカ人学友スーザンとの昼食のデートの二回しかありません。 私が取った中級フランス語は2学期にまたがっていました。最初の学期で「A」を貰ったのが3人いて私とスーザンがその中に入っていました。スーザンは金髪のロングヘアーで可愛い顔をしていましたがちょっと気位が高く出来の悪いクラスメートを見下しているところがありました。あまり好きなタイプではなかったのですが私が「A」を取ったことを知ると彼女から話しかけてきたのです。「来学期も頑張って一緒にAをとろうね」と。そして「A」を取ったお祝いに一緒に食事に行こうと彼女から誘ってきたのです。断る理由はありません。彼女の行きつけのレストランに行きました。ところがとんでもない結末が待っていたのです。レストランに入って間もなくすると私は急激な腹痛に襲われ始めました。スーザンとろくに会話も出来ずにトイレに通い詰めとなり、しかも支払いの時になって財布を忘れて来たことに気がついたのです。結局スーザンに支払ってもらい彼女を家まで送り届け早々に引き上げる羽目となったのです。それ以来彼女から話しかけてくることはありませんでした。全く惨めなデートの思い出です。

 

車を持っていた日本人女子留学生は少なかったこともあり車を持っていた私はよく「アッシー」の役を仰せつかったものです。ですから幾人かの日本人女子留学生とは一対一でドライブすることは往々にしてありました。それがデートと呼べるならそのようはデートは何度もしたことになります。ある時Sさんと湖半に車を止めて美しい天空の星を眺めながら四方山話しをしていました。夜風が涼しいので窓は閉めていました。

 

ふと気がつくと周りの木々がサーチライトに照らされて明るくなりました。その明かりがだんだん近づいてきたのです。何事が起こっているのだろうと息を凝らしていると車のドアを叩く音がします。はっと顔を上げるとお巡りさんが覗き込んでいるではありませんか。「何ですか?」と聞くと、にこっと笑って「Vertical position please!」と言ったのです。初めは言っている意味がよく解らなかったのですが、どうも車の中では椅子にちゃんと座っていなければいけないということだったようです。私たちは空がよく見えるように前の座席を倒して寝転がるようにしていたのです。アメリカでこんなことで注意を受けるとは想像もしていませんでした。

 

54.スキー三昧

シアトルで二回目の冬を迎えました。シアトルでは夏は水遊びが出来、冬にはスキーが楽しめるシアトルはスポーツマンにはたまらない所です。私はスキーが好きでしたので冬になると日本人留学生のスキー仲間とよくスキーに出かけました。時にはマウント・ベーカーのクリスマスキャンプで仲良くなった外人の友人も誘って行きました。シアトルの近くにはスノーコロミー、ハイヤック、スティーブンスパス、クリスタルマウンテンといった手ごろなスキー場が点在していました。私のホストファミリーのアンはスキーが大好きで休みにはよく誘ってくれました。しかも私のためにクリスタルマウンテンのシーズンパスまで用意してくれました。クリスタルマウンテンはちょっと遠すぎてそのシーズンパスを使うチャンスが一度も無かったのが悔やまれます。

 

プライス家に移ってからは自由時間が増えたので夕食後一人で6時ごろにはぼろ車に乗り轟音とともにマフラーから出る火で周りの林をてらしながら一時間弱で行けるスノーコロミー・スキー場によく通ったものです。夜7時頃にスキー場に着き10時まで3時間滑れます。若かったのでがんがん滑りました。スノーコロミースキー場の中では一番短いゲレンデでのことですがロープトウを使って3時間で100回滑り降りた記憶があります。

 

後に結婚式で私がベストマンを努めることになったスキー仲間の日本人留学生Jさんは頑張ってこのスキー場でアメリカのスキーコーチの資格を取りアルバイトで教えていました。そんなわけでJさんともよく一緒に出かけました。Jさんの指導のおかげでスキーではあまり怖い思いをしないですみましたが一度スノーコロミーからの帰り道に自動車でで危ない目に遭ったことがあります。

 

その日はJさんの車(やはりぼろ車でした)で出かけていたのです。スキーを終えて車に乗り込みスノーコロミーを後にしました。雪道ですので当然ながらタイヤにはチェインを装着していました。30分も走ると雪道が終わり路面がはっきり見えるようになって来ました。そろそろチェインをはずそうかと言うことになり路肩の広いところでチェインをはずしたのです。その場所から走り出してほんの数分後のことです。目の前の景色が急に大きく回り始めたかと思うと車が180度回転し後ろから走ってきていた車に正面衝突です。後続車があまりスピードを出していなかったので大事には至りませんでしたが冷や汗ものでした。路面が凍っていた上Jさんの車のタイヤは溝が無くなりつるつるだったのです。

 

55.ローズ・ボウル(Rose Bowl)

アメリカに行けば野球が見られると思っていたのですがシアトルの街中で子供達が野球をして遊んでいる姿はほとんど見られませんでした。 当時シアトルには今イチローが活躍しているマリーナーズのようなプロ球団もなければプロ野球用の野球場もなかったのです。スポーツの一番人気はやはりアメフトでした。ワシントン大学にはアメフト用の立派なスタデアムがありハスキー(エスキモー犬)をマスコットとするワシントン大のアメフトチームが出る試合には何時も沢山の観客が集まっていました。 というのもジム・オーエンスというコーチが就任してからハスキー(ワシントン大のチームはこう呼ばれています)はぐんぐん力をつけ常に優勝戦線に顔を出すチームとなっていたのです。何でもこのコーチは大学の総長より高い給料を貰っていたということです。ハスキーは1960年と1961年、二年連続して全米一に輝いた名門チームだったのです。

 

私が所属していた物理科にブリッグスというハスキーのアメフトの選手がいました。彼は1963年の全米のアメフト大学選手ベストイレブンに選ばれました。彼の活躍もあって、この年ハスキーはまたしても西部地区の覇者となりローズ・ボウルに出場することになったのです。 ローズ・ボウルというのは毎年1月1日にロスアンジェルス郊外のパサディナという街で1947年以降、ビッグ・テン・カンファレンス(東部地区)の大学優勝チームとパシフィック・テン・カンファレンス(西部地区)の大学優勝チームとの間で全米一を争う試合のことです。 クラスメートが出場するのですから応援に出かけたいと思っていたところ幸いにも在学生に割り当てられる入場券の抽選に当たりました。 シアトルからロスまでは結構な距離がありますが大勢の学生達が車に相乗りしてロスに向かいます。まさに民族の大移動といった様です。私は留学生支援オフィスが手配してくれたサンフランシスコのホストファミリーに一泊し汽車で12月31日ロス入りを果たしました。サンフランシスコでお世話になったのは前年のクリスマススキー合宿で知り合いになった牧師さんの家でしたので旧交を温めることにもなったのでした。

 

56.大晦日に本場キッスの洗礼

ロス郊外パサディナでの元日ローズボウルを翌日にひかえた大晦日世話になっていたホストファミリーの家でニューイヤーズ・イブ(大晦日)のパーティーが催されました。ホストファイリーが病院の偉い人であった為でしょうか30代、40代と思われる看護婦たちが20人ほど招かれていました。夜半から始まったパーティーはいつもながらの立食パーティーで参加者は皆自由に動き回って歓談しています。ホストのハンフリーさんは僕を日本から来ているワシントン大学の留学生だと言って参加者一人一人に紹介して回ってくれました。アメリカに来てから覚えたジントニックを何杯か飲んで一人一人の他愛も無い質問に答えているうちに段々と酔いまわってきました。

 

新年を迎える零時が近づいていました。その時朦朧としている耳に近くで看護婦たちがひそひそ何やら話し合っているのが聞こえてきたのです。「いいのかしらやっちゃって」「日本から来た留学生だって郷に入ったら郷に従えだわ」どうやら意見がまとまったみたいです。まもなく零時、New Yearです。灯りが消されると同時に件の看護婦達が順番に僕に近づいてきたかと思うと一人一人僕にキッスをし始めたのです。そんなにディープキッスではなかったが本場のキッスを受けるのは初めてで数人にやられた頃には頭がボヤーットして来ました。酔いのせいかキッスのせいか判りませんがふらふらになり皆さんに失礼して早めに床に着かせてもらうことにしました。何時間寝たでしょうか朝眼が覚めると喉は痛いし、頭も痛む、それに気がつくと物凄い熱です。そういえば昨夜のキッスの中に風邪の匂いのするのがありました。風邪を引いていた看護婦から移されたのに違いありません。ちょっといい思いをしましたがこれでは代償が大き過ぎます。

 

57.記念すべきローズ・ボウル観戦

ローズ・ボウル・ゲームの当日、1964年の一月一日は快晴でした。留学生支援オフィスの手配で世話になったロスのホストファミリー、ハンフリーご夫妻は高校生の息子と一緒に私をスタディアムに連れて行ってくれたのでした。我々が入場するころには既に6万人を超える観客が集まっていました。グランドではカラフルな服装を着たワシントン大、イリノイ大両校のチアー・ガール達が応援の練習に余念がありません。躍動感に溢れたチアー・ガール達の眩い動きが目を刺激し、試合開始に向かって知らず知らずのうちに気持ちを高ぶらせてゆきます。

 

毎年ローズ・ボウルのキック・オフには著名人が招かれます。日本の野球で言えば始球式のようなものです。このオープニングに迎えられるゲストはGrand Marshalと呼ばれています。1964年のGrand Marshalは第34代米国大統領アイゼンハワー氏でした。愛くるしいアイゼンハワー大統領がグランドに現れると観客が総立ちとなり大歓迎です。大統領の短い挨拶が終わるといよいよキック・オフです。

 

スタンドの片側に陣取ったワシントン大の応援団は応援のフラッグを振り、「Bow down to Washinton、・・」で始まるハスキーの応援歌を歌いだします。応援フラッグの色は早稲田と同じ紫色でイニシアルもWで一緒ですので早慶戦を応援に行った時を思い出します。試合は暫く一進一退でしたがその内イリノイ大チーム優勢のまま前半のハーフが終了しました。ホストファミリーが用意してくれたサンドイッチを頬張りながらしばし休憩です。

 

後半が始まってもイリノイ大は攻撃の手を緩めず、ワシントン大はますます窮地に追い込まれます。私もその頃にはひどかった頭痛や高熱を忘れて一生懸命に応援しましたが残念ながらハスキーはイリノイ大に177の大差で敗れてしまいました。敗れたとはいえ伝統あるローズ・ボウルの試合を観戦できたことは大変貴重な体験だったと思っています。

 

58.夜汽車の美少女

それはパサディナのローズボール観戦を終えロスからシアトルへ戻る車中でのことでした。列車に乗り込み周りを見ると窓際に可愛い少女が一人座っているが目に入りました。横の席に座っていいか尋ねるとその少女は愛くるしい笑顔で頷きました。年の頃十二・三歳です。薄いピンクのカーディガンにグレーのスカートをはいていました。アグネスチャンに似ていて色白ですが頬はほんのりとピンクかかっています。お化粧はしていません。夜汽車だったので少女の顔が窓に映って輝いて見えました。

 

列車がロスを発って暫くすると少女は雑誌のようなものを取り出して盛んに鉛筆を走らせ始めました。そっと覗き込むと四角い升目にいろいろな英単語を埋めているのです。ボナンザグラムです。暫く見ていると気が付いたらしく「やってみる?」と話しかけてきました。どうせ少女がやっているのだから大して難しくあるまいと思って見せてもらうと驚くことに20単語ぐらい書かれているうち知っている単語は2・3しかありません。一瞬、英語ではないのではと疑いました。

 

私は英語のボキャブラリーが留学前に数千語にはなっていた筈です。私はそれまで一頁にこれほど多くの判らない英単語を目にした事はありませんでした。彼女に「これみんな判るの?」と尋ねると当然のように頷きました。少女の年ぐらいで何万語ぐらい知っているのだろうと思うと急に惨めな気持ちになってきました。私の英語に対する自信は粉々に崩れたのです。「全然歯が立たない」と言うと彼女は本をしまって話し始めました。

 

ロスで結婚した姉の家に遊びに行った帰りだということ、そして正月にロスで姉にとても素晴らしくスリリングな映画を見せてもらったと言うこと。映画のすごかったシーンをいろいろと説明してくれます。どうやらケーリー・グランとオードリー・ヘップバーン主演の「シャレード」のようです。しばらく喋り続けると疲れたのか少女は頭を窓ガラスにもたれかけたまま居眠りを始めました。とても可愛い寝顔でした。

 

ロスからシアトルまでは直行の列車が無く一旦シスコでシアトルまで行く列車にのり変えなければなりません。汽車がサンフランシスコに着くと少女はさっさと降りて行きました。挨拶もしないで行ってしまうなんて寂しいなと思いながら私はシアトル行きの列車に乗り換えました。するとどうでしょうあの少女が窓際の席に座っていて隣の席を私のために取っておいてくれていたのです。

 

サンフランシスコからシアトルまでの汽車旅は少女と話が出来たおかげで退屈しないですんだのですが汽車がシアトルに近づくにしたがって少女の口数が少なくなっていきました。最初は眠くなったのかなと思っていたのですがどうも様子が変です。顔から笑みが消え緊張した面持ちに変わってきたのです。汽車がシアトル駅に到着すると今度こそ本当に人を無視するように挨拶も無く列車から飛び出して行きました。私がホームに降り立つと少女は迎えに来ていた父親の胸に抱きつきハグをしているところでしたが傍らを通り過ぎた私を見ても「こんな東洋人となどお話などしていなかったわ」と言った態度で無視したのです。家庭で外では見知らぬ人とはお口を聞いてはいけませんとでも教育されていたのでしょうか。私はシアトルに着いてからあまり東洋人としての差別を感じたことはありませんでしたがこの少女の変貌振りにはショックを受けました。私は愛くるしい笑顔で私と話をしてくれた少女の思い出だけを大事に心にしまうことにしました。

 

59.日本語の教師となる

ケネディ大統領の下、極東での異文化を理解しないがために起った諸々の摩擦が問題視されて極東の文化・言語学習の必要性の機運が高まりワシントン大学も極東の語学・文学にかなりの力を入れていました。日本語も結構人気があり、かなりの数の生徒が日本語を専攻していました。そんな時、日本語・日本文学科で助手を一人募集していると言うのを小耳にはさみました。これは是非やってみたいと思い早速、日本語科の主任教授のドクターTamako Niwaに売り込みに行くことにしました。 「では、試験を受けてください。」と言って手渡されたのは日本の中小企業をテーマとした英文の論文でした。「これを日本語に訳してください。」と言われ翻訳を始めました。結構長い論文でかなりてこずりましたが何とか八割ぐらいを訳した時点で「ここまでにしましょう。」とドクターNiwaは私からペーパーを取り上げ、「結果は後ほど通知いたします」と言いました。まさかアメリカまで来て英文和訳の試験を受けることになろうとは思っていませんでした。国語が大嫌いだったこの私がアメリカとはいえ日本語を教える立場になるなどは考えられないことです。ところが予想に反して結果は合格だったのです。他にも応募者がいたのですが東京生まれの私が標準語を話すと言うことで選ばれたらしいのです。

 

日本語科のスタッフは主任教授の日系二世のドクターTamako  Niwa、に日本から来られたドクターMayako Matuda(この方は女性ですが医学統計学で博士号をとられていました)が副主任のような役割をしておられました。それにハワイ大学から客員教師として来ていたR女史、東京大学からみえたO講師、ワシントン大学留学生のO氏、才媛の誉れ高かったTさんに私を加えた6名でした。私はTA(Teaching Assistant)で教員の中では一番の下っ端ではありましたがファカルティーの一員としての特権を与えられたのは嬉しいことでした。一般の学生が駐車できるのはキャンパスのはずれの大駐車場でしたが、ファカルティーには学部建物横の駐車場が与えられます。一般学生駐車場より10分ほど教室までの時間が短縮されるのでとても楽になるのです。それに週給$140と言うのも嬉しい収入でした。

 

60.日本語のクラス

私が担当したのはIntensive Japanese Course(日本語集中コース)のアンダーグラジュエイト(学部)のクラスと大学院の一コースでした。学部のコースは一年間で日本語を叩き込もうとする集中コースで生徒を一年間日本語漬けにします。基本的には日本語の基本文例の繰り返し練習で私がまず教科書の基本文例を音読しそれを生徒に復唱させるのです。これは教科書が与えられたのであまり準備の必要がなく楽でしたが大学院のクラスともなると朝日新聞の社説を教材としていました。社説など日本にいたときにあまり真面目に読んでいなかったものですから前もって内容をよく読んで学生達からの質問に答えられるよう前準備が必要でした。

 

日本語集中コースの方は10名ぐらいの少人数でしたが最初からある程度日本語を話せる生徒がかなり混ざっていました。生徒はいろいろな経歴の持ち主です。日本での生活経験のあるウイリアムさん、ジョージさん、ハワイから来ていた日系二世の男子生徒ナコさん、ポリネシア系美人のロビンソンさん、香港から来ていたリーさん、アメリカ白人のキャンベルさん、元日本駐在軍人のクリストファーさん、フォーサイスさん、そしてシアトルの日本食材店<宇和島>の娘さんとその友人等々なのでした。初めて日本語の勉強を始める生徒も混ざっていましたので出だしは生徒のレベルがかなりばらばらですが、何も無いところから日本語を勉強する生徒は熱意が違います。一学期(3ヶ月)も経つ頃にはそのような生徒が頭角を現してくるのです。外交官を目指していたウェストマーさんはその良い例でした。彼は私が帰国してから待望の外交官となり在日米国大使館に赴任しました。そこで大使館官舎でのクリスマスパーティーに私を招待してくれたことがあります。

 

1授業の単位は50分です。ベルと同時に授業を開始し終業のベルが鳴ったら直ちに授業をやめます。10分間の休憩時間中に生徒は次のクラスへと移動しなければならないのです。ですから教師は50分間でぴたりとその日のノルマを教えなければなりません。積み残しは出来ないのです。生徒の方もこの点を良く理解していたようで私のペースによく協力してくれ、ノルマをこなせなかったことは一度もありませんでした。

 

61.日本語のクラス(2)

サル山にボスが存在するように日本語集中コースのクラスにも一人ボス的存在の生徒がいました。香港から来ていた小柄なリーさんです。彼は常にクラスの最後部で足を前の机にのせ小さめのハンチングを被ってふんぞり返って座っていました。これだけ聞くと手に負えない厄介な生徒と思われそうですが、リーさんはとても協力的でやや癖のある日本語でクラス全員を取り仕切ってくれていました。私はリーさんのことを小さな王様と呼んでいました。

 

金曜日になるとリーさんから声が掛かります。「先生、今夜うちで飲み会をしますから来てください」と言います。彼の下宿に行くとクラスの全員がそろっていて歓迎してくれるのでした。みな一生懸命、習いたての日本語で会話をしています。私を交えて日本語会話の実習の場となっているのでした。ただ、フランスに駐屯していたことのあるクリストファーさんだけは私がフランス語を勉強していることを知っていつもフランス語で話しかけてきました。あまり熱心なので私も出来るだけフランス語で答えるようにしましたが皆が日本語で話す努力をしているのだから「日本語を使えよ」と言いたいところです。 するとすかさずリーさんが「ここでは、日本語、日本語!」と言ってクリストファーさんを窘め助け舟を出してくれるのでした。

 

毎週のように続いたこの金曜の飲み会は私にとっても楽しい憩いのひと時でした。日本でパチンコに凝ってしまいパチンコの機械を持ち帰ってきていた女生徒、又、宝塚歌劇団に夢中になっていた女の子がいること、そして一昔前にアメリカでも麻雀が大流行した時期があったこと等を知ったのはこの飲み会からでした。

 

62.日本語のクラス(3)

日本語集中コースを担当しだして二週目の授業中、日本語科の主任教授、Dr.Niwaが突然教室の後のドアから入ってきて最後部座席に座り暫く注意深げに私の授業を観察して出て行きました。さあ、勤務評定かなと思っていましたが次の週の職員会議の席上Dr.Niwaから驚きの発表がなされたのです。「みなさんの授業を見学させていただきました。私がお願いしたことを忠実にやってくださっていたのはシモヤマ先生だけでした。」と少々ご機嫌ななめな顔で一同を見回しました。理系の私以外の先生方は皆さん文科系でしたので何かご自分の特色を出そうとされて授業に変化をつけられてみえたのでしょう。私は文学の素養がありませんから教材を音読するだけに努めていたのが良かったのです。

 

実は私も授業中に学問的な脱線はしませんでしたが生徒の緊張をほぐす為に時々冗談を言ったり、クイズを出したりはしていたのです。Dr.Niwaが教室に入って来た時は運良く真面目に教材を音読している場面だっただけでなのです。クイズの例を挙げれば次のようなものです。何のことかわかりますか?

1.      Please make space between King and and and and and Queen.

2.      To be to be ten made to be.

3.      You might think do today’s at fish.

1は岩田一男先生の本に載っていた正式な英文です。作り話かもしれませんが童話作家がちじこまった字で「KingandQueen」と書かれるのでKingの後とQueenの前にスペースを空けてくださいとお願いした文だと言うことです。そう考えると確かにまともな英文ですよね。2番目は日本語の「飛べ、飛べ天まで飛べ」をローマ字で書いただけです。3番目は一寸ふざけていて支離滅裂なものですが「言うまいと思えど今日の暑さかな」を英単語を使って表したものだそうです。

 

こんなふざけた一面を見られなかったお陰でDr.Niwaにはすっかり気に入られたようです。それからと言うものあれこれと新しい教材作りのお手伝いを頼まれることになったのです。

 

63.教材作りと宮沢賢治の詩

日本語科主任教授のDr.Niwaに信頼された為かどうかは分かりませんが私は教材作成にも手を貸すことになりました。まず学期の途中でそれ迄に生徒が学習した基本構文のみを使って正しい自然な日本語の文章を作ってほしいと言うものでした。私は中学・高校時代には大の作文嫌いで、夏休みの宿題に作文が出るとそれだけで夏休み中悩み、国語の先生を恨んだものです。どうやっても23行以上筆が進まないのです。そんな私がこともあろうに教材を作ることになったのですから正に青天の霹靂です。しかし人間とは恐ろしいもので信頼され、期待されていると思うと不思議な能力が出てくるのか、又は、使える基本構文が限られていた為か12時間で自分でも感心してしまうような無理の無い自然体の日本語文章ができあがったのです。Dr.Niwaの評価も高くそのまま教材として採用されたのです。

 

暫くすると今度は語学ラボで生徒達が聴く日本語の音声テープの作成に携わることになりました。宮沢賢治の長い詩「雨にも負けず、風にも負けず・・」の朗読を任されたのです。

私の朗読が録音され、それを語学ラボで日本語を学ぶ生徒達が何度も何度も繰り返して聴くことになるのですから大任です。私は自分の声がいいと思ったことなど一度もありませんでしたので何故こんな大役を任されたのか分かりませんでしたがやるしかありませんでした。

 

視聴覚教室のスタジオには本格的な録音室があります。録音室のマイクの前に座ると横に副主任のM子先生が座って録音機の設定をし、私にスタートの合図を送ります。緊張が高まって心臓がどきどきします。宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず・・」には難しい言葉は含まれていませんが結構長いのです。初めから終わりまでペースを乱さずに朗々と朗読するのが実に難しいのです。途中で息切れがしてペースが乱れたり、ちょっとした句読点で言葉が詰まったり、似た単語を読み間違えたりしてなかなかOKが出ません。結局6回ものNGを出してしまったのです。録音が無事終了した頃にはもうふらふらでしたがこの貴重な経験が後にアルバイトで広告映画のナレーションを担当した時に非常に役立ったのです。

 

64.仙台から届いたファンレター

専門の物理や数学の授業にかち合わないように担当の授業を決めてもらえた日本語科のTA(ティーチングアシスタント)の仕事は楽しくて時間の経つのも忘れるます。2学期も過ぎた頃のことでした。一通の手紙が日本の仙台から届きました。宛名にはワシントン大学Professor シモヤマと書いてありました。若い女性からの手紙でした。「仙台の河北新報で先生のワシントン大学でのご活躍を知りました」で始まる文でどうやってアメリカに渡りそのような職を得たのか教えてほしいと言うものでした。彼女もアメリカ留学の夢を持っているのが良く分かる内容でした。

 

そう言えばそれより一ヶ月ほど前に日本の新聞社の記者が私の授業を見学しに教室に入ってきて写真を撮っていったのを思い出しました。それが河北新報に載ったらしいのです。私が驚いたのはワシントン大学Professor シモヤマで手紙が来たということです。アメリカの大学ではファカルティーの中では教授(Professor,準教授、助教授、講師、等々があって最後にTAですから名前にProfessorをつけられて届いた手紙には当惑しました。 同僚の教職員に対してばつが悪い思いです。でも良く考えてみれば片田舎の女の子がアメリカの大学で教鞭をとっている人間に手紙を出すとすれば敬称としてプロフェッサーしか思い当たらないのは分かるような気がします。

 

手紙をくれた仙台の彼女には丁重な手紙を書きいろいろと留学の参考になることを知らせましたが、それっきり彼女からは何の連絡もありませんでした。

 

私がこの様にマスコミ(?)に取り上げられたことは他にもありました。大学の直ぐ脇からワシントン湖の対岸に住む私のホストファミリーの家の直ぐ傍まで新しいフローティングブリッジ(浮橋)が建設された時「新しい橋の恩恵を受け喜ぶ留学生」とのタイトルで私のことが写真入で地方紙の社会面に大きく出たことや、ワシントン大学を留学先に選んだ理由についてラジオ局からインタビューを受けたこともありました。日本にいてはなかなか体験できないことが起こるものです。

 

65.日本向け広告映画のナレーション

Dr.Niwaの推薦を受けて日本向け広告映画のシナリオの翻訳とナレーションを担当することになりました。依頼してきたのは大手の合板(plywood)製造会社でした。工事現場でコンクリートを流し込む時に周りを囲う板に合板(ベニヤ板)が如何に優れているかを解説する20分程度の日本向けのコマーシャル映画です。ギャラは200ドルでしたが当時としては大金です。日本で会社勤めをしている大学同期友人達の半年分の給料に匹敵する額だったのです。しかも私が費やした時間は3日程でした。シナリオが平易な文で日本語に訳し易かったのです。更に宮沢賢治の詩の朗読でマイクに向かっての発声の仕方が分かっていたことも大いに役立ったのでした。

 

実際の吹き込みは本格的なプロが使うスタジオで行われました。スクリーンに映し出される画面に合わせてナレーションを入れて行きます。これが自分で言うのも変ですが声の乗りも良く画面と最初から最後までぴたりと合って最高の出来となりました。ところがそれから一週間ほどして同じ会社からもう一本やってほしいと言ってきたのです。前回あれだけ上手く行ったのだから今度は経費節約の為スタジオではなくモテルの一室で画面なしでテープレコーダーにナレーションだけを吹き込んでほしいと言うのです。映画の映写時間だけ教えられその時間に合わせてナレーションを録音してくれと言うむちゃくちゃな要求でした。

 

兎に角ギャラがいいのと相手のしつこさに負けてソニーのテープレコーダーを前にモテルの一室で頑張りましたが全く不満の残る出来でした。ナレーションが画面とずれてしまって合わないのです。その責任は私にあるのではなく経費をつまらないところでケチった会社の担当者にあるのだと自分に言い聞かせましたが日本での反応はどうだったのか考えると暫く落ち着きませんでした。

 

66.黒人街のダンスホールに潜入

留学前に映画ウエストサイド・ストーリーを見てアメリカに渡ったら是が非でも黒人街で本場のダンスを見てみたいと思っていました。しかし、シアトルの黒人街にはほとんど白人の姿は見当たりません。そんなところへは恐ろしくて一人でなど行ける筈もありません。

 

又、ダンスホールへ行くのですから一緒に行ってくれる女性の協力も必要です。そんな思いを抱いたまま2年が過ぎようとしていたある日のこと日本人留学生の集まりでのことです。 先輩で姉御肌のYさんが「私も行ってみたいと思ってたのよ。一緒に行ってみようか?」と言ったのです。この機を逸したら黒人街のダンスホールへの潜入は出来そうにありません。早速Yさんに同行してもらうことにしました。幸いなことにYさんの車も私の車も黒人街に行くにはもってこいのぼろ車でした。結局私のぼろ車で出かける事になりました。

 

薄汚い赤茶色の家々が立ち並ぶ黒人街にさしかかると無事に戻って来れるのかと言う不安に襲われます。ダンスホールの傍に車を停めた時にはやはり此処で引き返そうかとしばし車中から周りの様子を覗っていました。数分たってやっとのこと意を決して薄汚い入り口のドアを開けて中に入ったのです。中は薄明かりで目が慣れるまであまりはっきり見えません。しかしそこで見た光景は私の想像していたものとはまったく違うものでした。

 

がんがんと鳴り響く音楽の中で黒人達がダイナミックな踊りを披露しているのを想像していたのです。ところがダンスホールの中に入ってみると静かなスローテンポの音楽に合わせて全員が夕闇に風になびく稲穂のように揺れ動いていたのです。それがダンサー個々の動きではなく全体が一つの生き物のようにスローテンポの音楽に実に良くハーモナイズされて動いていたので思わず息を飲みました。

 

いつでも逃げ出せるようにと入り口近くの椅子に座ったYさんと私は暫く素晴らしい黒人ダンスに見とれていました。何曲かが終わった時でした。ダンスをしない我々に気づいた一人の黒人男性が近づいてきたのです。間違いなくYさんにダンス相手のもうしこみです。私のほうがどきどきしてしまいました。もしYさん断ったらどうなるだろうかと心配していたのです。ところが流石にYさんです。「With pleasure」と言ってフロアーに向かったのです。それから気のせいか雰囲気ががらりと変わったのです。暫くして我々が帰ることになった時には何人もの黒人達がレコードを差し出し土産に持って帰れ言うのです。案ずるより生むが易しとは正にこのことだったようです。貴重な青春の思い出の一つとなりました。