女アルピニストを娶った山嫌い男の百名山奮戦記
一  ∧前書き∨

深田久弥の百名山を踏破して何人かの方から何か書き物に残してはどうかとのお声を頂いた。百名山登頂を達成した方を何人も知っていた私は当初あまり大したことをしでかしたとは思っていなかった。ところが時が経つにつれてもしかすると大変なことなのかもしれないと思うようになってきた。山好きな頑強な男が達成したのではない。私は山が大嫌いであった。百名山登頂を達成した今「山が嫌い」とは言えないが山好きのかみさんや山好きの友人達がいなくなったら果たして一人で山に行くだろうか? 答えは多分「否」である。小さいときは虚弱体質で学校へ上がるまでは入退院を繰り返していたし、小学校でも体育の評価はいつも低く、運動会の徒競走はいつも尻、野球が好きでもクラスでは補欠の補欠で試合には一度も出させてもらったことがない。小学校、中学校といじめっ子に虐められるので学校に行くのが嫌いであった。
中学へ入学した時体重は28キロで骨皮筋衛門、好き嫌いが多く、野菜、魚、うどん、そばはどうしても食べられず中1の時弁当は一年間毎日パンであった。高2の時2000m徒競争での私の記録が学年最低記録として暫く学校の廊下に張り出されていたのを今でも覚えている。こんな男が最近気付くと小学校、中高、そして大学時代の同級生の中でも丈夫で、スタミナもある部類に入っている。勤めていた頃患っていた糖尿病、慢性膵炎も今では完治している。百名山と関わりが出来たのは退職前後なのを考えると登山のご利益としか考えられない。
こんなわけで山が苦手であった私の百名山奮戦記を記すことにした。これは登山の専門書ではないので登山ルートや歩行時間等はあまり記していないが山嫌いの方に何らかの興味を持っていただければそれでいいと思っている。

二 初めての山登り
終戦翌年の昭和21年春、疎開先の茨城県新治郡七会村の七会村小学校からの遠足である。学校から一時間程歩いたところにあった「やまもと山」である。麦飯に水っぽいサツマイモ片が混ざった弁当を引っ提げ暑い田舎道を汗をかきかき歩かされ、辿り着いた先は岩山であった。都会育ちでひ弱な小学2年生にはキツイ行軍である。岩山は頂上まで黒ずんだ岩で覆われていた。そんなに高い山ではなく両手を使ってよじ登ってゆくと短時間でてっぺんまで登れた。多分丘程度のものだったのであろう。仲の良い友達数人と大きな岩の上で弁当を食べた。その岩のすぐ下には常磐線が走っていた。左手遠方に白煙を吐く黒い点が見えたと思ったらあっという間に近づいて来て轟音と共に右手に消え去った。上野行きの上り列車である。数十年たって懐かしくなり茨城県の地図で常磐線西側にある筈の「やまもと山」を探してみたが見つからない。私にとって幻の山なのか。その内に常磐線の神立駅から線路際を北上し「やまもと山」を探し当てたいと思っている。
この初登山以降にも二度ほど山に登る話が出たことがあった。小学校3年時の遠足で東京の高尾山が候補に上がった。ところが高尾山はきついので4年生以上にならないと無理という校長の判断で中止となった。中学2年の夏休みには戦争中に疎開していた茨城県の農場へ友人と泊まりに出かけた。広い畑の向こうに姿の美しい筑波山が見えていた。友人と登ってみたいと話していると宿泊先の大人達に「君たちには厳しすぎて登れるわけがないから止めときなさい」と強く言われ結局登るのをあきらめた。今では高尾山も筑波山もそんなにきつい山とは思えないが当時は戦争中にケーブルカーは撤去されていて麓から歩かねばならなかったことを思えば大人たちの判断も強ち間違っていたとは言えない。さて、それからまもなくして私を大の山嫌いにさせたきついきつい山行に出会うことになったのである。

三 もう山になんか登らないぞ
中学2年の秋だった。学年のクラスで東京都の最高峰雲取山に登ることになった。山などに興味がなかったのに参加したのであるから全員参加の行事だったのだろう。 友人からよく「今まで登った山で一番素晴らしかったのは?」とか「一番きつかったのは?」との質問を受ける。印象の良し悪しはいろいろな条件によって決まる。一回目の登山でつまらない山と思っても次に登って見ると全く違う印象で素晴らしい山になってしまうことは往々にしてある。山に登る季節、天候、体調、意欲、同行者、そして選んだ登山ルート等がその時の印象に大きく作用する。私の場合は体調万全で紅葉の真っ盛り、秋晴れの中、家内と登った八甲田山は今まで登った山の中で一番である。さて、話を雲取山にもどそう。どの山が一番厳しいですか?(客観的な問い)との質問であれば答えは違ってくるがどの山が一番厳しかったですか?(主観的な問い)との質問であれば私は躊躇なく雲取山と答える。こんなに苦労して登った山は後にも先にも他にはない。疲労困憊で途中何度となく足が上げられなくなり動けなくなる。三峰口から登ったのであるが行けども行けども新たな尾根が出てきて頂上につかない。引率の先生から登りはあとひとつ、あとひとつと何回も何回も励まされてはだまされ、しまいには先生が狼少年になったように思えてくる。その時の悪夢はトラウマとして残り続け今でも雲取山には登る意欲も湧いてこない。もう二度と山になんか登らないぞと思ったのはこの時である。
最近になって自分よりも体力がないと思われる人達がそれ程苦労せずに雲取山に登ってくる。何故だ? 自分なりに答えを出してみる。雲取山に連れて行かれた時、体重32kg、肺活量2400cc(18歳で蓄膿症の手術を受けるまで鼻の奥の酸素吸入口が幼児のものと思われるほどの大きさあった)。登山意欲はゼロ。靴は運動会用の普通の平べったいアサヒ運動靴で親指部分が擦り切れて穴があいている。リュックは三峰登山口に着く前に切れてしまい引率の先生にひもで結んでもらう。正に悪条件下での登山であったのは間違いない。こう考えて納得してみても未だに雲取山に再挑戦する気になれないでいる。それを機に私はもう二度と山には登らないぞと心に決めたのであった。

四 山男の歌
雲取山で山嫌いになってから10数年後、カナダのバンクーバーと米国シアトルとの間の国境近くに位置するマウント・ベーカーのスキー場で転んでも転んでも雪まみれになったまま平気な顔をして立ち上がり急斜面を滑り降りていく女性がいた。妻との最初の出会いであった。私が米国のシアトルにあるワシントン大学へ留学した最初の冬である。ところで私には山よりも嫌いなものがあった。歌である。聴くのは嫌いではないが歌うのが苦手であった。大人になっても知っている歌は「ポッポッポ鳩ポッポ」くらいであり「君が代」ですら歌詞を知らなかった。とにかく歌が苦手であった。カラオケのない頃には集まりがあると多くの場合車座になって酒を飲み、宴たけなわともなると誰かが歌い始める。するとみなの手拍子が始まり「お次の番だよ」と順番に歌わされる羽目になる。こんな場に出くわすと私は必ず胃が痛くなり、居ても立っても居られなくなり自分の番が回ってくる前に何か口実を見つけてはその場から逃げ出すのであった。スキー場で家内と出会って間もない頃シアトルの先輩の家で集まりがあった。 
暫くすると恐ろしい事が始まった。「お次の番だよ」である。急に胃が痛み出した。困ったことに中座する言い訳が見つからない。そうこうするうちにも順番は確実に近づいてきた。そうして終に私の番が来た。何も出来ずに暫し沈黙が続いた時突如彼女が立ち上がって「娘さん、よく聞けよ、山男にゃ惚れるなよ・・・」と歌いだしたではないか。「山男の歌」であった。私を見かねて助け舟を出してくれたのだ。これ以来私は彼女には頭が上がらなくなった。今では我が家の「山の神」となっている。
「山男の歌」で窮地を救われた翌年の夏、シアトルの先輩が婚約パーテーをしてくれることになった。その日に彼女に誘われて岩山に登った。Mt.Rainier 近くのマウント・サイである。頂上近くには両手で懸垂をしなければ先に進めない岩場があった。私は高所恐怖症なので躊躇したが彼女に先に登られてしまう。目をつぶってでも頑張るしかない。ここで登らなければ男がすたる。ようやく登りついた頂上からの眺めは正に絶景。山をどうやって下ったかは覚えていないが麓まで降り雪解け水の渓流に飛び込んだ。身を刺すような冷たさであるが心身共に洗われ、始めて登山の楽しみを味わう。今でも山小屋にたどり着いてのビール一杯や下山後の温泉は登山の楽しみであるがMt.サイ下山後の渓流での水浴の気持ちよさに勝るものには未だ出会っていない。

五 再び山登りへ
結婚してからは山登りから遠ざかっていたがスキーには長男が2・3才の頃から家族揃って出かけた。家内が下の子(赤ん坊)を背中に負ぶってゲレンデを滑る姿は当時でも珍しかったと思う。何年かは本格的な山登りの話は出てこなかったが子供たちが小学生になった頃からかみさんの山の虫がうずき始めた。小さい子三人を連れて北アルプスに行くという。いくら何でも幼い子三人をかみさんだけで面倒見るのは大変だと言うことで渋々お供することになった。最初の山は爺が岳であった。それからは奥武蔵のハイキングコースへ行くことも多くなり、高い山にも毎年のように連れて行かれた。燕岳、西穂等々。すべて夫婦円満、家庭円満のためである。未だに「お父さんは何時もつまらない顔をしていた」と言われるが確かに喜び勇んで出かけたとは言えない。
退職の数年前から仕事が極端に忙しくなりストレスがたまり、タバコも吸い出し、十二指腸潰瘍、糖尿病、慢性膵炎等に悩まされ始めていた。これは何か気晴らしのスポーツでも始めないと危ないと感じ始めた。家内が入っていた近所の山岳サークルに入ることになったのは家庭円満のためではなく自分の健康保持のためであった。他のスポーツは相手を見つけなければならないが山ならいつでも先導者が横にいるではないか。こんなふうにして私の山への再挑戦が始まった。

六  登山ヨチヨチ歩き
私は山より海が好きであった。成長した娘たちと海岸に寝そべってゆっくりと海を眺めながら一緒に甲羅干しをするのが夢であった。退職してやっと時間が出来たと思っても、もはや娘たちは家にはいない。私にとって相手探しの手間がかからないという意味で手軽に出来る運動は山の神について行く山行である。
初めて家内の山の仲間について登ったのは奥多摩の「棒ノ折山」であった。雪が積もっていた。何でこんなところを歩くのが楽しいのだろうと思う。一緒になったご夫婦と話をするとご主人は私と同い年であった。仕事をやめて何か趣味を持たないと時間をもてあますので山を始めたという。やはり山好きの奥さんに追従したようだ。このグループについて月に一、二度は山に行くようになった。グループ山行では他人に迷惑をかけぬようてきぱきと行動しなければならない。家に戻ると先ず家内の説教がはじまる。「今日何処そこでの行動にはこういう問題があった。連れて行った私は恥ずかしかったよ・・・」。いろいろの山に連れて行ってもらったが流石に山好きの人達の集まりで山頂から見える遠方の山々の名前を言い合っている。あんなに沢山の山をどうやって見分けるのか。よくもまあ諸々の山の名前を覚えたものかと圧倒されるばかりである。私の方は山の名前で知っていたのは富士山、浅間山、筑波山、そして高尾山ぐらいのものだったのである。
そんな時、高校のクラス会の帰り電車で一緒になった友人が「最近何人かで山に登っているんだ」と話をしてくれた。「僕も最近少々登っているよ」と言うと「どんな山に登ってるの?」と訊かれた。「先週は御正体山(山梨県道志山塊の最高峰)に行って来たよ」と言うとしばし考えていた友は何とか一緒に登れそうな者と判断したのであろうか「今度一緒に行かないか」と言うではないか。酔いのせいもあったが少々山に関して知ったかぶりをしていた手前、後には引けなくなって「うん、ご一緒させてもらおうかな」と言ってしまったのである。その友人の誘いで手始めに北アルプスの唐松岳から五竜岳に行こうと言うことになった。 家内に話すと「それは大変ね。ちゃんとした登山靴を買わないとだめよ。」と仰せになる。 2・3日すると家内の懇意にしている登山専門の店に行けと言う。良さそうな登山靴を見繕ってもらってあるからと仰せになる。とにかく言われた店に行ってみると家内が良く知っている店員が出てきて奥様から言われてご主人に向いていると思われる登山靴をご用意してありますと言うではないか。兎に角、山にうるさい家内が手配した靴を買うことになる。その時この靴で百名山のほとんどを登ることになろうとは思ってもいなかったのである。こんなふうにして中高年登山を始めていた2人の友人について百名山の一つである五竜岳に行くことになった。
スキーで有名な八方尾根から登り唐松岳を通って五竜岳の山小屋に着く頃には靴擦れがひどくやっぱり山はだめだなと思い始めていた。それでも友人がガムテープを足の靴擦れの出来た部分に貼ると靴擦れにならないと教えてくれた。不思議なことにその通りであった。翌早朝山小屋を出て五竜岳の頂上を目指す。結構な岩場であったが約1時間程頑張って山頂に到着した。絶景であった。しばし休息して下山を始める。五竜遠見のアップダウンの続く長い下りであった。これでもかこれでもかと上っては下り上っては下る長い尾根で再び山が嫌いになりそうになる。やっとのことで五竜スキーゲレンデのゴンドラ乗り場までたどり着くと疲れがどっと出てくらくらする。しかしながらゴンドラで地上に下りて食べたかき氷イチゴは美味かった。安曇野の友人宅にいた家内が車で迎えに来てくれた。亭主の初本格的登山の成否が気になっていたに違いない。

七 標高3000m以上の21座登頂を目指すことになる
日本には標高3000m以上の山が21座ある。高校同期の山仲間とはどうせ山に登るなら何か達成可能でしかもあまりやさしくはない目標を立てようと言うことになりこの21座の登頂を目指すこととなった。21座とは高い順に並べれば富士山(3776m)、北岳(3192m)、奥穂高岳(3190m)、間ノ岳(3189m)、槍ヶ岳(3180m)、悪沢岳(3141m)、赤石岳(3120m)、涸沢岳(3110m)、北穂高岳(3106m)、大喰岳(3101m)、前穂高岳(3090m)、中岳(3084m)、荒川岳(3083m)、御嶽山(3067m)、農鳥岳(3051m)、塩見岳(3047m)、仙丈ヶ岳(3033m)、南岳(3033m)、乗鞍岳(3026m)、立山(3015m)、聖岳(3013m)である。これらの内13座は日本百名山にも選ばれている。高校同期の山仲間4人中2人は既に南アルプスの北岳、荒川岳、悪沢岳、赤石岳、仙丈ヶ岳には登ってしまっている。南アルプスは北アルプスや中央アルプスに比べるとベテラン登山家向きの山が多く、後発の新人2人が単独で挑戦するのは楽ではない。そんな訳でこの山仲間ではなかったが同じ高校時代の友人で学生時代から山に取り組んでいた山のベテラン、S君に頼んで一緒に行って貰うことになった。
9月の出発予定日には運悪く台風が関東地方を通過し大変な天候となった。しかしこの機を逸すると3人の都合が付くのはずうっと先になってしまい南アルプスの登山シーズンを外れてしまう。一か八か決行してみようと言うことになり朝9時頃東京を風速20mを越える強風の中、車で出発する。静岡を通過するあたりで風はますます強まり心配したが登山口の椹島に到着した頃には風も弱まって来た。翌日は台風も去りうす曇ではあったが登山には問題ない天候となった。台風の中出掛けると言う一見無謀な決断が功を奏したこととなったのであった。大変な苦労もあったが友人に誘われて始めた標高3000mを超える山21座の踏破は5年間で達成できた。

八 農鳥岳(3026m)山頂のブロッケン現象とストック談義
登山中に運がいいと見ることの出来るブロッケン現象とは、一寸離れたところの雲や霧に写る自分(登山者)の影の周りに太陽の光が虹色の光輪となって現われる現象である。めったに出くわさないが、私も2・3度ブロッケン現象に出会ったことがある。最初は百名山の一つである魚沼駒ケ岳の頂上だった。一緒に登った家内の山仲間に「ブロッケン現象だ!」と声を掛けられ振り向くと遠くの雲に自分の影が後光を背負った仏像のように映っていたのだ。この時は一瞬の出来事だったのでゆっくり観察する時間がなかった。次にブロッケン現象に出会ったのは南アルプス農鳥岳の山頂だった。農鳥岳は百名山には入っていないが標高3000m以上の山を目指していた頃に家内に同行してもらって登ったのだった。

農鳥小屋に着くと小屋の主人が山頂近くの岩を指差して「あそこに登って谷の方を見てごらん」と言う。言われた通り岩の上に立つと鮮やかなブロッケン現象が見えた。魚沼駒ケ岳で見たときと違って非常に鮮明に現れていた。手を振ると雲に映った影もちゃんと手を振る。とても感動的だった。 間もなく日が暮れて小屋に入ると夕食のカレーライスが待っていた。 ここで小屋の主人が「食事を取りながらでいいから俺の話を聞いてくれ」と言って話し出した。

多くの登山者はストックを持って山に登る。 登山教室などでも山登りにおけるストックの使い方などを教えストックを買うことを勧めることが多い。しかしながら登山者の中にはストックを嫌って使わない人もいるのだ。現に私の登山の先輩であるK氏はストックなど邪魔だと言って使うことがない。家内はストックを使うタイプだが私はどちらでもいい方である。岩場では間違いなく邪魔になる。最近足が弱くなってきて下りにはストックがあった方が楽だと思うことはあっても登りではむしろ邪魔に感じる。農鳥小屋の主人は全くのストック使用反対派であった。ストックは環境保全の大敵であるとまで断言した。

ストックを使う人はどうしても自分が歩く道幅より外側にストックを突いてしまうので道の両脇の草花を痛めてしまい自然をどんどん侵食してしまうのだと言う。「小屋の周りを見てくれ、年々自然が破壊されて取り返しのつかないところまで来ている。」と嘆き、お願いだからストックを使わないようにしてくれと宿泊客に訴えたのである。小屋の主人の言うことは理解できるのだが足腰が弱ってくる中高年の登山者にはストックの助けを借りた方が安全と言う場も多いと思うのでストック使用の是非はなかなか結論の出せない問題である。

九 登山の嫌なところと大変なところ
山に登って何が楽しいのですか? とはよく訊かれる質問である。確かに嫌なことが山ほどある。まず、早起きしなければならないこと。山小屋泊まりの縦走にでもなれば3時ごろから起きだし4時前には懐中電灯で足元を照らして出発する。そんな時に限って大いびきをかく奴や歯軋りのうるさい輩と同宿となる。睡眠管理と排泄管理は登山する者にとっての大問題である。寝具が湿っていたり暑すぎたり、寒すぎたりすれば神経質な人間は眠れたものではない。又、排泄物は小の方は山の中でも問題ないが大となるどこでもよいというわけにいかず適当な場所が見つかるまで痛い腹を抱えて辛い行軍が続く。という訳で出発前に是非とも済ませておくべきなのだが普段と違う早朝にうまく排泄できるかが問題なのである。山小屋の便所は混んでいることが多いしグループで登山している場合は長い時間待たせるわけにはいかないので短時間で済ませる必要がある。便秘症の家内が羨ましくなるのはこんな時である。山に登り始めると20~30分で汗が出てきて身体中グショグショしてくる。気持ち悪いことこの上ない。
真夏の尾根歩きは直射日光にあたり頭がクラクラしてくる、喉もからからになる。そんな時には水を多めに持って行くのだが重量がかさんで登りがきつくなる。次に問題となるのは靴擦れだ。どんなに足に合わせて買ったつもりでも急登や急な下りが続くような山に行けば早かれ遅かれ足のどこかがすれて痛みだす。何時間歩いても何処も痛くならないような既製登山靴にあたる事は期待できない。そこで各自工夫をする。敷き革の厚みを調節したり、足と靴との間にパットを貼り付けて足を保護する。そういう努力をしても登山し始めて2・3時間で痛みが出てくる靴、5・6時間くらいまでは大丈夫な靴ということになる。履いて行く靴のそのような許容時間を越えて歩くときには少しでも痛くなりかかったらすぐ靴を脱いで足の痛む部分にテーピングすることが肝心である。早めの手当てを怠って歩き続けると痛みのため歩行困難になることすらある。
又、強風や激しい雨の中での山行も大変である。雨具や懐中電灯は登山の際の携帯必需品であるが雨具を着ると蒸し風呂に入ったようで汗でぐしゃぐしゃになる上、岩場や木の根っこがつるつるして一歩一歩神経を使うことこの上ない。ある時五日間山に入りその期間毎日連続して土砂降りにあったことがある。夜はテントの中まで水が流れ込み一晩中水をかき出す作業で寝ることが出来なかった。もう二度とあんな目には会いたくない。ただ、それ以降ちょっとした悪天候などはなんでもないと感じるようになったことは確かだ。とにかくこんなに嫌な事の多い山登りに何故出かけるのか自分ながら答えが出せずにいる。

十 白馬の雪渓を登る
大学時代のクラスメートの奥様方から北アルプスの高山植物を見るのが夢だという話を聞かされたのは私が可なり登山になれてきた頃だった。それでは高山植物の花畑で有名な白馬にでも登ろうかと言うと二組のご夫妻が是非参加したいと手を上げた。参加希望の二夫婦4人は里山登山の経験はあるが高い山は初めてであるという。白馬は百名山にも含まれている名山の一つで侮れない山ではあるが数年前にまだ小さかった下の娘を連れて家内と3人で登ったことがあった。何とかなると思ったが私一人で初心者四人を連れて雪渓を登る自信はない。そこで家の山ノ神にそれとなく計画を話すと快くガイドの役を引き受けてくれた。

8月の暑い最中であったが大町温泉郷に前泊し、ご馳走を食べ英気を養って登山に備えた。翌朝早くタクシーを頼んで猿倉まで行き、猿倉荘前で準備体操をして登山口へ進んだ。樹林帯を一時間も歩くと白馬尻小屋が見えてきた。ここら辺までは一同胸躍らせながらの行進なので元気がいい。 白馬尻小屋から先は日本三大雪渓の一つである白馬大雪渓(3500m)が待ち構えている。雪渓が見えてくるとみんな興奮気味に歓声を上げた。ここより先はアイゼンなしには進めないので家内の指導の下、全員がアイゼンを装着することになる。家内が一人一人のアイゼンの着装具合を入念にチェックする。

この雪渓は落石での事故が多いので細心の注意が必要である。家内の指示で私が先頭を歩き、家内が最後尾に付くことになった。私の役目は常に前方上方に目をやり落石に注意することであり、家内は全員の歩みを見ながら私に歩くペースを適宜指示し、みなの疲労度を測りながら休憩を入れるのである。途中休みを入れながらも順調に雪渓を登っていった。3時間ほどで雪渓を抜けたが上に登るに従って傾斜もきつくなってくる。休みをとっても傾斜がきついので変な姿勢で立っているしかない。「もうすぐ綺麗な花がたくさん咲いているお花畑ですよ。」と家内がみなを励ます。みんな必死にがんばってお花畑に出るとそこには色とりどりの高山植物が咲き誇っていた。シナノキンバイ(黄)、ミヤマオダマキ(紫)、ハクサンイチゲ(白)、タカネヤハズハハコ(ピンク)と言うような具合である。

更に上に進むと、登山者憧れの花であるウルップソウ(北海道の礼文島と本州の八ヶ岳、白馬岳にしか見られない珍しい花)とコマクサ(他の花が咲かないような荒れた砂礫地に咲く高山植物の女王と呼ばれる花)に出会えて全員感激することしきりであった。

家内の判断で混みそうな山頂の白馬荘でなく少し下の村営の山荘に泊まったのが良かった。部屋はすいていて各自が一つ布団に手足を伸ばして休めたのである。早めの夕食後小屋の裏の小高い場所に登ると正面遠方に剣岳と立山連峰、そして左手近くには白馬三山の杓子岳と白馬鑓ヶ岳の雄姿が見えた。夕暮れとなりそこから皆で眺めた日の入りは実に美しかった。

翌日は白馬岳を通って三国境、小蓮華山、白馬大池、天狗原の木道を通り栂池まで下りロープウエーで下界に降りたのであるが途中様々な花を楽しんだ。特に天狗原のミズバショウやワタスゲの群生には皆感激し疲れも忘れた。家内の協力で実現した高山植物観察の山歩きは一人の脱落者も出さずに無事終了したのだった。


十一 妻への誕生日プレゼント
8月の妻の誕生日に最高のプレゼントを思いついた。家内が以前から行きたがっていた船窪岳に一緒に登ることだった。船窪岳は長野県と富山県の境にある2450mの山である。北アルプス裏銀座の北端に位置する烏帽子岳から南沢岳、不動岳を通り針ノ木岳に抜ける健脚者向きの難コースの真ん中に辺りにあり日帰りで行けるような山ではない。 山ノ神としては針ノ木岳から一気に烏帽子岳まで縦走してしまいたいと思っていたのだろうが針ノ木岳から船窪岳まで行き、そこから七倉ダムに降りてきてしまうことで勘弁してもらうことになった。

予定通り朝5時半安曇野を出発し6時過ぎに扇沢に到着。 早速登山靴に履き替え針ノ木小屋に向かって登り始めた。 数日前に白馬の雪渓で事故があったばかりなので少々怖かったが雪渓を登り切り12時には針ノ木小屋に到着した。 買って行ったおにぎりを食べ小さなザックに雨具と水を持って針ノ木岳へ向かった。 マップタイムの約一時間で山頂に到着した。 快晴ではなかったがまあまあの眺望であった。 時間に余裕が出たのでスバリ岳まで足を伸ばすことにした。中々の岩道であるが何とかスバリ岳山頂を極め、山頂より爺が岳までの道を眺めることが出来た。

針ノ木小屋に戻って翌日向かう船窪岳の方を眺めていると小屋の主人が寄って来て「船窪小屋まで行くのかね。 途中に危険なヤセ尾根(両側が鋭く切り落ちた尾根)があり多くの登山者が滑落したままで下の谷には回収できない遺体がごろごろ残っているよ」と脅かすように言った。注意して行けよと言う忠告と受け止めたが身の引き締まる思いがする。

翌日は妻の誕生日、朝早く針ノ木小屋を出た。 蓮華岳,北葛岳を通る尾根道であったが厳しい岩場が多くやはり厳しい。 午後2時5分妻の念願であった舟窪岳の頂上に着いた。 かなり厳しい道であったがそれだけに喜びも大きく妻は今までで一番良い誕生日であったと感激してくれた。こちらもほっとした気分になった。 船窪小屋に着いた瞬間であった。 突然、ゴロゴロという大音響が響いた。 何が起こったのだろうと思っていると小屋の主人が出てきて「山崩れだよ」と教えてくれた。 頻繁に起こるそうだ。我々が通過している時でなくて良かったと胸をなでおろす。

夜は船窪小屋で夕食後ネパールから手伝いに来ていると言うシェルパを囲んで宿泊客10人がネパールの山の話を語り合った。 思い出深い一日となった。 船窪岳から先に進むと北アルプスの烏帽子岳に通ずる尾根道となるがここは更に厳しいルートである。妻はどうしてもそこを通りたくて後に山の親友を誘ってそのコースも歩いているのである。

十二 海外の山歩き
国内の山だけではものたりなくなった人達は海外の山にも出かける。マレーシア・ボルネオ島のキナバル山やアフリカ大陸のキリマンジャロのような単独峰登山を目指す者、アメリカ、カナダ、ネパール、ニュージーランド、タスマニア島などの山岳地帯のトレッキングを楽しむ者さまざまである。海外の山歩きをする場合はガイドをつけないと危ないので大抵は海外登山専門会社のツアーに参加するのが普通である。 我が家の山の神は私の知らない内にそういったツアーに申し込んでいて出発間際に「じゃー行って来るね」と言って出かけてしまう。「一緒に行く?」と間際に声を掛けられることはあってもスケジュールの都合も付けられないし参加費も捻出できないので諦めるしかない。 それでも海外登山ツアーには二回同行させてもらったことがある。 カナディアン・ロッキーのトレッキングとツール・ド・モンブラン(モンブランの周りの山々を一週間掛けて一回りするトレッキングツアー)である。企画会社が参加希望者の登山経験を自己申告ではあるが事前に確認するので当然のことではあるが両ツアーとも参加者は健脚ぞろいであった。

ハイキング先進国のヨーロッパには有名な名峰マッターホルンやモンブラン等の知名度の高い単体の山々が数多く存在する。これらの山々の環境はハイキングをするには抜群に素晴らしいがかなり人工的な匂いがする。これに対しカナディアン・ロッキーは山脈として世界有数の規模だが、山単体としての知名度は高くない。あまりにも山が多すぎるのだ。飛行機から眺めると標高3000m前後の山々が見渡す限りもぐらたたきの頭のようにごろごろ並んで見えるのである。

家内と参加したカナディアン・ロッキーのトレッキングツアーはバックカントリーハイキングと呼ばれるものであった。山の中のロッジに滞在しながら大自然を楽しむカナディアン・ロッキー核心部へのハイキングである。トレッキング中は他の登山客には一度も出会わず地球を感じさせる広大なフィールドや沢山の野生動物を観測して楽しめた。 夏なのにトレッキング中に雪が降り出したり、登山靴を脱いで氷のように冷たい小川を渡渉したりしてウィルダネス(手付かずの自然)を満喫した5日間であった。

一方ツール・ド・モンブランは、ヨーロッパアルプスの最高峰モンブラン(4810.9m)の周り約170kmをぐるりと回るヨーロッパ随一のトレッキングコースである。フランスのシャモニを起点にイタリア、スイス、そして再びフランスと三国に跨る長大なコースで、通常TMBの愛称で呼ばれている。途中ところどころで乗り物に乗るとはいえ毎日6・7時間山道を歩き続けるのであるから疲労がたまってゆく。しかし、毎日モンブランを眺める角度が変化してゆくのが楽しい。比較的穏やかな山に見えたり、険しい岩山に見えたり、氷河が現れたり変化に富むので何とか歩きとおせたのかもしれない。最終日にスイスからフランスにかかる峠に出て眼下にシャモニが見えたときの達成感は忘れがたいものがある。

十三 百名山登頂を目指すこととなる
標高3000m以上の21座を踏破した時点で数えてみると既に百名山を30近くも登っている。この時ふと思った。 家内は既に70近くの百名山を登っていたが特に百名山踏破を目指してはいない。既に登っている山でも人に誘われると出かけて行く。どうせ家内のお供で山に登るなら少しでも多くの百名山を登ってみたい。そんな思いから家内が山の友達と私の登っていない百名山にゆく時は努めて連れて行ってもらうことにした。便乗である。百名山を目指し自分で計画し単身登山で完登した人はすごいと思う。私のように人に便乗して登ったのに比べると数倍の価値があるだろう。そうこうして我が家の「山の神」に付き合って山登りをしている内に百名山の半分近くに達した。年々体力の衰えを痛感し始めていた頃である。挑戦するとなるときつい山は少しでも体力のあるうちに登ってしまわねばならない。
当時未だ登っていない大変そうな山をリストアップして見た。 劒岳、利尻山、笠ヶ岳、光岳、高妻山、皇海山、トムラウシ、平ヶ岳、飯豊山、富士山、幌尻岳、宮之浦岳であった。劒岳は登りも下りも厳しい岩山であり気が抜けない。 利尻山は登りそのものも可なりきついがそれよりも夏の登山シーズンに利尻島の宿を確保するのが大変なのである。悪天候で登れずに帰ってきた人の話も聞いていたので予備日も考えるとこちらの都合よい時に宿を確保するのが難しい。笠ヶ岳は新穂高からの笠ヶ岳新道は距離があって大変であると言う。光岳(テカリ)は他の山からちょっと離れたところにありなかなか他の山を登ったついでに寄って来るというわけにはいかない山である。高妻山はアップダウンが9回もあって登りがかなりきついと聞いていた。皇海山(スカイ)は登山口までのアクセスが距離のある悪路で大変であるという。普通の乗用車では難しいのでランドクルーザーのような車で行くしかないと聞いていた。トムラウシは登山時間が長い上に雨に降られると大変な泥沼の登山道となり苦労するという。現に私より先に山仲間と登った家内は帰りに膝まで泥水に埋まり大変な苦労をしていた。平ヶ岳は正規な登山ルートで登ると距離があるうえ上に山小屋がないのでテントを持って登らなければならないという。
飯豊山も奥が深く長時間歩く上避難小屋で寝るための寝具を持ってゆく必要があると聞いた。富士山は大勢の人が登るが山頂に近づくにつれ酸素が欠乏し、高山病にかかる恐れがあるというのでやはり少しでも体力があるうちに登っておきたい山である。幌尻岳は何箇所もの渡渉場所があり天候が悪いと水嵩が増して渡渉できなくなり登山不可能となるか又は運良く登っても水嵩が引くまで何日も山の上で待たなければならなくなることがある。十分な予備日を持って計画しなければならず時間に余裕のない人には時期を選ぶのが難しい。屋久島にある宮之浦岳は遠くて出向くのが大変だし雨の多い屋久島なので天候の良い日にぶつからないと土砂降りの中を長時間歩かねばならないことになりかねない。やはり時間と財力が必要な山の一つである。以上の山には積極的に機会を作り早めに挑戦することにした。

十四 体力と時間と財力
ある時親しい友人が「百名山を目指すには所詮体力と時間と金がなければ出来ないさ」と言った。まあ、外れてはいないと思うがもう一つ必要なのはやってやろうという強い意志である。次に大事なのは言うまでもなく体力である。時間や財力があっても体力がなければ山へは登れない。時間はあるに越したことはないが勤めている間はなかなか何日も連続して休みを取るのは難しい。こつこつ少しずつ片付けて行くほかない。金がなければテント持参で宿泊費は倹約できるが遠くの山に行くにはやはり交通費はかかってしまう。百名山は北は北海道から南は九州まで広く散らばっているので交通費は無視できない。北、中央、南アルプスに多くの百名山が集中しているので比較的関東地方に住んでいる人は有利かもしれない。九州は屋久島を除けば一回で回れないことはないが北海道は存在する百名山の数も多い上、アクセスその他の条件が難しく退職後で時間に比較的余裕があっても数回に分けないと回れないようである。私の場合も3回に分けざるを得なかった。長野県に家があったので比較的安い交通費で登れた百名山も多かったがやはり平均すれば交通費・宿泊費込みで1座あたり一万円以上は掛かっているだろう。ちょっともったいない気もするがそれによって得られた健康を考えれば決して高くはないと思っている。

十五 富士山に登る
標高3000m級の山に挑戦していた時、富士山に登るチャンスは意外に早くやってきた。山中湖にあるとあるリゾートホテルが富士山登山の企画をたて参加者を募っているのを知った。家内は既に登っていたしこの際一人で参加してみるかと思いたった。登山前日、件のホテルには登山希望者8名ほどが集まっていた。見たところ私が一番の年長者である。若者たちについて行けるのかちょっと不安になったが行くしかない。ホテルの登山随行者に翌日の行程の説明を受けながら明日の仲間と夕食を共にし早めに部屋に戻って就寝した。
翌朝、早めにホテル側が用意した朝飯を食べホテルのマイクロバスにて出発する。幾つかある登山口のうち一番ポピュラーな吉田口5合目(2305m)に向かった。5合目に付くと7月中旬であったためか既に大勢の登山者でいっぱいであった。そこで出会った一人のかなり年配の登山者は今回が290回目の富士登山だと言っていた。富士山詣でをする人がいるとは聞いていたが驚きの回数である。富士山は一度登れば良い、あれは眺める山で登る山ではないという人が多い中、何に取りつかれてそんなに登るのだろうか? 私は一度登れば充分だと考えている方である。
5合目から3800m近くある山頂までは標高差が約1500mであるから気温差で約10度、又、山道では通常1時間で標高差300m登れるから5時間から、酸素不足で後半ペースが落ちれば、6時間かかるかなと予測して歩き始めた。6合目を過ぎ、7合目を過ぎた頃気が付くと一緒に登り始めた同行者達は遥か後ろになってしまっているではないか。グループで登山する時には単独行動は厳禁であるが私の場合は自分のペースを崩すと疲れるので特別今回は許してもらった。私の場合、普段だと標高2100mあたりから酸素吸入量減少の影響で息切れが始まるのだがこの日はどういうわけかほとんど息切れが始まらず、8合目に付いた時には仲間の姿は遠く下の方でほとんど見えなくなっていた。 8合目まで3時間弱で登ってしまったわけである。どん尻になることを覚悟していたのに意外な結果であった。
どうしてそうなったのか考えられる理由が3点ほどあった。まず、私は登って行く先が見えているのが好きである。舗装道が苦にならない。階段が好きである。富士山はこの条件に合っている。目標地点が見えながら登れる御嶽山も比較的楽な気分で登れた記憶がある。仲間が全員8合目まで登ってくるのを待つこと1時間以上であった。2・3人が疲労のためか高山病かでダウンしていたのと雨が降り始めたので初日はここで終わりとし小屋で一泊することになる。
翌朝3時頃から頂上を目指して登り始めたが強い雨と暗さのため展望はゼロである。 2泊することは出来なかったので浅間大社奥宮の小屋で富士登山証明のスタンプを押してもらい下山することとなった。 残念ではあったがこのときの経験で足に自信を持つようになった。有難う富士山、万歳!である。

十六 皇海山(スカイさん)
皇海はスカイと読むのだが初めてこの山の名を耳にした時には英語の「Sky」だと思ってずいぶん面白い山があるなと思ったものである。 又、日本三百名山の一つである中央アルプスの越百山(コスモやま)も初めてコスモと言うのを耳にした時には宇宙を表す英語の接頭辞「Cosmo」と思いずいぶん雄大な名前が付けられているなと思ったものである。もっとも奥穂高岳の西南西にあるドーム型の岩稜はフランス語のジャン・ダルム「gens d’armes」(憲兵、転じて前衛峰の意)と呼ばれているのであるから日本の山の名に外国語が使われていると思ってもあながち変ではない。
さて、皇海山に登るには栃木県側の銀山平から庚申山・鋸山をへて皇海山にいたる伝統的なルートと、群馬県側の不動沢からのルートがある。庚申山頂への登り、鋸山の峰々の登降は梯子、鎖が数多く現れる険しい道のりであり、初心者には勧められないと言われている。群馬県側の不動沢ルートは、車で登山口まで行ってしまえば比較的短時間で登頂することができる。家内からは庚申山経由のルートは難しいと聞いていた。初めから不動沢ルートしか考えていなかったのであるがこちらのルートは登山口までのアプローチが難しいと言うのだ。長い悪路で普通の乗用車では無理だろうとも聞いていた。
家内は皇海山には既に登っていて一緒に付き合ってくれる様子もない。あのひどい林道を長時間、車に揺られるのはいやだと言うのである。そこで思いついたのが高校同期の山仲間N君の頑強な4輪駆動車であった。 N君に話すと喜んで一緒に行ってくれると言う。善は急げと同じく高校同期の山のベテランK君にも一緒に行ってもらうことにした。
登山当日、群馬県沼田市利根町の老神温泉近くから林道に入ってでこぼこ道を約1時間走って登山口に到着する。確かに悪路ではあったが普通の自家用車では無理と言うほどのものではなかった。登山口には新しい立派なトイレが出来ていたので家内達が登山した後で、林道ともども皇海山登山者の為の整備が進んでいたのかもしれない。登山口からの登山はそんなにきついものではなく紅葉をたのしみながら楽しく登山を終えた。帰路老神温泉に泊まり無事皇海山登山は終ったのである。
富士山にしろ皇海山にしろ大変な山と考えていただけにちょっと拍子抜けした感がある。

十七 畏敬の念を起こさせる釼岳
ハイシーズンの山小屋は混んで大変である。特にお盆の期間になど訪れようものなら、たたみ一畳に3人も寝かされるような羽目に合う。 こんな場合、上を向いてなど寝られず皆横向きになっていわしの缶詰のようになる。 夜中にトイレになど起きようものなら戻って来ると自分の寝るスペースは完全になくなってしまっている。 元の場所に潜り込むのは至難の業である。 退職後は時間を自由に使えるのでそのような時期をはずして登山計画を立てることが出来る。 高校同期の山の仲間と行くことになった釼岳は登山前日の山小屋泊がお盆の終了日になるよう計画した。
長野県側の扇沢からトロリーバス、ロープウェー、バスと乗り継ぎ、室堂に到着したのは午前10時前であった。一休みしてから覚悟を決めて雄山への急登にかかる。山頂は雄山神社のあるピークで、標高は3003メートルである。社の真後ろに釼岳の威容が見えてくる。 目の前に延びる大汝から別山へと稜線を辿り二日目にあの頂に立つのが目標なのだ。白馬、鹿島槍、裏銀座、槍、穂高、薬師・・北アルプスの名 だたる山々はすべて視界の中にあった。雄山神社の裏側を回り込むようにして岩稜を伝うと、立山最高峰の大汝山はすぐである。釼岳に登るためにはこのようにまず3000m級の山々を超えていかなければならないので大変である。
大汝山を過ぎて高山植物の咲くなだらかな道をしばらく行くと、富士の折立から砂礫の急な下りに変わり、真砂乗越に降り立つ。 山頂のピークは突き出た山稜の先端にあった。その先端に立つと、これまで胸から上しか見えなかった釼岳が、ここではその全容を余すところなく見せるのだ。 釼沢を隔てて堂々と天を圧する釼岳を目にした瞬間背筋がゾゾッとした。 まさにサタン(悪魔)の山ではないかと思われるような怖さがあった。切り立つ黒い岩肌が登山者を寄せ付けないぞと言っているようであった。あんな山に果たして登ることが可能なのだろうかと思わずにはいられなかった。 畏怖と同時に畏敬の念を抱かさずにはいいられない釼岳があった。
そこから雪渓を四つほど横切りながら釼沢を下ると宿泊地の釼山荘である。 盆休みの登山客が去った後の山小屋はすいていた。 山小屋には珍しいお風呂にゆっくり浸り疲れを癒して夕食をとり翌日の行程を調べて早めに床に入った。 翌朝は午前3時半に小屋を出る。暗いのでヘッドライトで足元を照らしながらの行進である。急な岩道を登るのだが足元だけを見ながら進むので怖さはない。未だ暗いうちに可なり登ってしまったので明るくなっても目に入るのは周りの岩肌だけで恐ろしい釼岳の威容は目に入らないのが幸いした。
鎖や鉄梯子が架けられているので岩場の連続でも何とか通過でき予定通り山頂にたどり着けたが登りの「カニのタテバイ」とか下りの「カニのヨコバイ」と言う難所はスリルがあった。 特に下りの「カニノヨコバイ」は岩に削られている足場が見えないので先に降りている人に最初の足を置く位置を教えてもらわないと足が中ぶらりんになって怖いことこの上ない。 鎖も、梯子もましてや岩に彫られた足場もなかった時に登頂した人がいたと言うのは驚きである。
百名山の中でも釼岳は私が家内より先に登った数少ない山の一つである。 数ヶ月遅れで釼岳に登ってきた家内に「どうだった?」と聞くと「あなたが言っていたほど難しい山じゃなかった」との返事であった。

十八 苦労を避けて登った百名山
登頂はしたけれど登山をしていない百名山も幾つかある。自動車、ケーブルカー、リフト等を使えばハイキングのような感覚で1時間もかけずに頂上まで歩ける百名山があるのだ。 高い順に挙げれば乗鞍岳(3026m)、草津白根山(2171m)、剣山(1955m)、霧が峰(1925m)、蔵王山(1841m)、大台ヶ原(1695m)、岩木山(1625m)、八幡平(1613m)、伊吹山(1377m)、筑波山(876m)といった所である。草津白根山、霧が峰、蔵王、大台ケ原と八幡平は登山者の多くが頂上近くの駐車場まで車で行きハイキング気分で頂上まで歩くのが普通と思われるがそれ以外はちゃんとした麓の登山口から登り始めればそれなりの時間がかかる山々である。麓の登山口から正規のルートで登頂を目指す登山家には敬意を表するが私はすべて狡をして乗り物を使ってしまっている。
乗鞍岳は登山と言っても標高2740メートルの畳平まで自動車で登ってしまうので、実質 300メートルの高度差を自分の足で歩くだけである。畳平駐車場から肩の小屋までは広い車道を歩く。その先から登山道らしくなり歩き始めて1時間程度で乗鞍岳最高峰の剣ケ峰に立つことができる。
剣山(つるぎさん)は名前から北アルプスの釼岳(つるぎたけ)と混同しやすいが四国に二つある百名山のうちの一つである。因みに四国にあるもう一つの百名山は石鎚山(1982m)である。剣山は登山口の見ノ越まで車で行き、そこからリフトに乗ると頂上近くまで運ばれてしまう。そんなこととは知らずにリフトに乗ってしまったがここは歩くべきだったと思う。里山に登ったみたいで頂上についても何の感激も起きないのである。やはり山はある程度は苦労して登らないと達成感がわいてこない。
岩木山は麓からの正規登山ルートが数本ありそれぞれ4・5時間の登りである。私と家内はその日のうちに八甲田山も登って酸ヶ湯温泉まで行く計画だったのでスカイラインを8合目駐車場まで車で行った。そこからはリフトを利用しなくても頂上までは大した距離ではない。私達が駐車場に付いた時はリフトの運行時間前だったのでリフトに沿って早足で登った。リフトの上に着くと岩木神社からの登山道を登ってきた年配の登山者に出会った。5時間ほどかけて登ってきたようだが途中で熊に出会って大変な思いをしたと言っていた。麓で熊が出ていて危険と聞いていたがやはりほんとうだったのだ。 幸いなことに我々は熊との対面もなく無事登山を終えた。 
伊吹山は名神高速道路から眺めると滋賀県の最高峰だけあって威風堂々とみえる。伊吹山ドライブウエイを9合目まで自動車を走らせた。ひどい濃霧で視界は30メートルあるかないか。山頂駐車場に着いても乳白色のミルクの海に沈みこんだようだ。右、左と適当に移動して山頂表示のあるところへ登った。20分ほどで山頂についてしまった。これで伊吹山へ登ったというにはちょっと後ろめたさが残る。
筑波山はケーブルカーを使うと山歩きに慣れていない御仁でも1時間も歩けば男体山、女体山を回れてしまう。一度は麓から歩いて登ってみたいと思っている。

十九 高妻山
高妻山はまっすぐに頂上を目指さずに遠回りして、さらにアップダウンが続き、最後は相当な急登があるので、百名山の中でも難関の山と評価している人が多い。通常の登山路は戸隠牧場から入り一不動に始まり、二釈迦、三文殊、四普賢、五地蔵岳、六弥勒、七観音、八薬師、九勢司と九つのアップダウンを経て十阿弥陀が高妻山となるが、未だ途中である。十一、十二と来て、十三虚空蔵の乙妻山で始めて完結する。山登りなので登りは当然だが、途中に下りがあると「何で下がっちゃうの」と恨めしくなる。多少楽なアップダウンを含んでいるとしても九つもあるともううんざりする。似たような体験は雲取山登山の時と五竜岳からの遠見尾根へ下った時に味わって以来のものである。
高妻山は家内も登っていなかったので二人して出かけることになった。体調が良く天候も良い時を選んで戸隠の宿坊に前泊して、登山日の早朝戸隠牧場へと車を走らせた。牧場には既に数人の登山者が登山の準備を始めていた。我々は靴を履き替えるだけで登山準備は完了。直ちに牧場の柵を超え登山道へ向かうと家族で高妻山へ向かっている一行に追いついた。道を譲ってくれたので「お先に失礼」と声をかけて先に進んだ。私と家内は一時間に5分休憩を取るペースで登るので中高年の登山者としては早い方かもしれない。
アップダウンが多いので牧場から山頂までの単純な標高差より相当長い距離を登ったことになるが各アップダウンには石仏があり何処まで登ったのかがはっきり解る。 これが反対に大きな励みとなりペースを崩さずに進めた。高妻山山頂には標準登山時間よりかなり短い時間でたどり着けたのはそのせいかもしれない。頂上からの北アルプスや妙高、火打、焼山等々の展望は素晴らしかった。弁当を食べるにはちょっと早すぎる時間だった。
初めは高妻山だけで引き返すつもりであったが時間が余りすぎてもったいない。一寸きついが乙妻山まで行ってみようという事になった。こういう時二人だけだと直ぐ決断できるのが嬉しい。高妻山から乙妻山までは標高差はほとんど無いのだがスリリングな岩場が続き神経を使う。一時間弱で乙妻山山頂に到着。乙妻山山頂からの高妻山の山容は見事である。
高妻山から先に足を伸ばす人はかなり少なく、静かな山頂であった。大部分の人は高妻山だけで下山するが、それは乙妻山まで足を伸ばすのは日帰りの行程としてはきつ過ぎるという事らしい。我々は苦労したおかげで喧噪の高妻でなく静かな乙妻山頂でゆっくり休むことが出来たのである。乙妻山から高妻山までは行きと同じく一時間弱で戻り、一気に下山を開始した。牧場近くまで来ると高妻山だけで引き返してきた件の家族一行に追いついた。乙妻山まで行ってきたと告げるとあきれた顔して「凄い健脚ですね」と言われた。私もついに健脚の仲間入りをしたようである。登山前に難しい山だと聞かされていると覚悟がきまって気合が入り楽勝するケースが多いみたいである。

二十 平ヶ岳
平ヶ岳に登る正式なルートは新潟県魚沼市鷹ノ巣からの登山道で、そこから下台倉山~台倉山~池ノ岳を経て平ヶ岳山頂にいたるルートである。山頂はなだらかで高層湿原があるのだがそこまでの行程が長い上、山中に山小屋はなく、また道中はキャンプ禁止なので健脚者向けの山である。健脚者ですら往復10時間以上はかかると言うのだからその凄さが解る。その正規ルートで登ってしまっていた我が家の山の神はさすがだと思う。
深田久弥の『日本百名山』のうち、奥が深くて大変だと言うのは飯豊本山にも言われるが飯豊山は上に非難小屋があってシュラーフを持っていけば一応泊まれるのであるから大変さは平が岳の方が上となるようである。こんな大変な山に付き合ってくれる人を見つけるのも大変である。ところがインターネットであれこれ平ヶ岳の情報を集めていると比較的楽に登れるルートのあることが判ってきた。それは皇太子が平ヶ岳に登ったときに用意された特別な登山道とのことである。皇太子が訪れると山小屋が改装されたり、水洗便所になったりいろいろと便利になるところが多いのであるが特別な登山道まで用意されることがあるとは知らなかった。インターネット上では、そのようなルートは環境を破壊するし、公にすべきでないとの意見も見られたが既に大勢の百名山ハンターが利用していることも判った。
私もこの楽に平ヶ岳に登るルートを利用する誘惑には勝てなかったのである。早速、高校同期の登山仲間K君とN君を誘い中ノ岐林道の送迎をしてくれる銀山湖(奥只見湖)の民宿に予約を入れたのである。当日はN君の奥さんの参加も得て無事平ヶ岳登山に成功した。確かにこのルートは楽な登山道で、あれほど長いこと大変な山と覚悟していた平ヶ岳を簡単に済ませてしまい後ろめたい気がする。

二十一 山で出会う怖いもの、煩わしいもの(一)
山行で出会う怖いもの、煩わしいものを挙げれば熊、蜂、マムシ、小虫(私は顔にぶんぶんまとわり付いてうるさいので以下ぶんぶん虫と呼ぶことにする)、蛭、笹ダニ、雷、落石、強風、濃霧等であるが、ぶんぶん虫、蛭、笹ダニ以外は命にかかわるので細心の注意が必要である。山に行くとよく「熊に注意」とか「マムシに注意」とか「落石注意」といった立て札を見かける。熊が冬眠している真冬の期間を除き春先から冬が訪れるまでの間、登山者は必ず熊除けのための熊鈴、口笛等を持って山に入るのが普通である。人によっては山行中、携帯ラジオをがんがん鳴らして歩いている人もいる。兎に角音が聞こえれば熊の方から近寄ってくることは無いといわれている。私は登山中に熊に出くわしたことはないが熊に同僚が食われてしまったと言う人に出会ったことがある。熊はやはり登山で注意しなければいけないものの筆頭ではないだろうか。
蜂は大したことないと思っている人もいるかもしれないが、これが大間違いで、下手すると命を落とす羽目になるから怖い。大抵の毒素は、身体の中に入った後、血流に乗り肝臓で分解されて無毒化されるのだが蜂毒は、人によっては「アナフィラキシー」と言うアレルギー反応を引き起こすことがある。これは最初に刺されたときに、身体の中に蜂の毒に対する抗体ができて、二度目に刺されたときにそれによって激しいアレルギー反応を起こす現象である。現に知っている方の奥さんは生まれつきのアレルギー体質のためか登山中に鉢に刺されてそのまま帰らぬ人となった。
又、私の家内は甲武信岳に登る途中で蜂の大群に襲われ命からがら麓の病院に駆け込み、点滴を受けて何とか命を取り留めた経験がある。その恐ろしさは死ぬと思ったほど大変だったらしくそのトラウマの為二度と甲武信岳には登れないと言っており私が百名山を踏破した後も家内は甲武信岳を除く99名山登頂のままになっている。蜂の巣の近くに人が近づくと一人目、二人目までは、様子を伺っていて三人目が来るとわっと襲い掛かると言う。家内も甲武士岳に登った時には三番目を歩いていたそうで同行の登山者のグループ中被害に遭ったのは家内と四番目に歩いていた二人だけであったと言う。
マムシは登山靴を履き、しっかりした服装で足元に注意して歩けばまあ大丈夫と思われるがマムシでなくても歩いている目の前に蛇が現れれば背筋がぞっとして嫌なものである。ぶんぶん虫と言うのは正式名ではないが顔の周りに無数に飛び回り手で振り払ってもしつこく付きまわり動いても一緒についてきて煩わしいことこの上ない。特に厄介なのは耳の穴に飛び込んだり、目玉に取り付き、コンタクトレンズのように眼球の上にくっ付いてしまい取れなくなる。完全に取り除くには他の人にティッシュペーパー等で取ってもらうしかない。家内と登山しているとほとんどの虫は家内の方に行き、私には付きまとわない。どう言う訳か虫が好む人とそうでない人があるようである。だがこのぶんぶん虫だけは例外で、私にもよってくるので一番苦手である。

二十二 山で出会う怖いもの、煩わしいもの(二)
次に山蛭である。これは怖いと言うより嫌らしいし、気味が悪い。蛭はどこの山にもいるというわけではないが蛭の多い山があちこちに存在する。有名なのは千葉県の麻綿原高原や丹沢、そして光岳の登山道などである。たちが悪いのは山を歩いているうちに気がつくと何匹もの蛭が足元から偲び上がって来て足のすねやひどい時には下着にまで潜り込んで至る所血だらけになっていることである。蛭も虫に似て攻撃されやすい人とそうでない人がいるようである。幸いなことに私は一度も蛭の餌食になったことが無いが同伴者が血だらけになったのは目の当たりにしている。山蛭は塩をかければ解けてしまうが登山者用には蛭除けスプレーも売られている。
山で笹藪を通って進むと気が付かぬ間に笹ダニに取り付かれていることがある。山蛭と同じように気が付かない間に肌に取り付くのだが蛭よりたちが悪い。蛭の場合には血をすって膨れ上がった蛭は皮膚の表面にくっ付いているので取り払うことが出来るが笹ダニは気が付くのが遅いと皮膚の中に潜り込みどんどん内部に食い込み、取り出すのが大変なのである。一度、家内の腕の皮膚に食い込んだ笹ダニを針を使って皮膚の下から穿り出したことがあるが気が付くのがもう少し遅ければ医者に行って切開してもらわねばならなくなったかもしれない。家内が虫に神経質になっているのも頷ける。
山で雷に遭うと生きた心地がしない。毎年何人かの登山者が雷に打たれて命を落としている。木立の中を歩いている時なら何とか身の隠し場所も見つけられるかもしれないが石ころだらけの尾根道などで雷に遭うとどうしようもない。雷が早く遠のいてくれるよう神に祈るしかない。燕岳から大天井岳を通り槍ヶ岳に向かって東鎌尾根を進んでいた時、突如雷が鳴り出した。周りを見渡しても身の隠し場所が見当たらない。この時ほど慌てたことはない。普通は天気予報を良く調べてこのような事態に遭遇しないよう登山計画を立てるのであるが天候が急変し危ない目に会うこともあるのである。

二十三 山で出会う怖いもの、煩わしいもの(三)
落石も下手をすると命取りになる。山を登っているとちょっとした弾みで石を蹴落としてしまうことがある。石を蹴落とした登山者は即「ラク!」と言って後続の登山者に警告を発することになっているが石に弾みがついて勢いを増して落ちてゆくと大変に危険である。登山者が蹴落とす石はあまり大きくないので大事に至ることはあまり考えられないが富士山や白馬の大雪渓等でかなり長い距離転がり落ちてくる石はたとえこぶし大ほどのものでも当たれば命を落としかねない。 特に雪渓を転がり落ちて来る石は音がしないから時々上方周囲に細心の注意を払って進む必要がある。
強風も又厄介なものである。風の通り道になっているような尾根では身動きできなくなることがある。先に進もうと思って片足を持ち上げると体が流されてしまう。唐松岳から五龍岳に向かう途中、尾根の大きな岩道に差し掛かった時であった。雨と強風の為に足が動かせなくなったのである。歩こうとすれば間違いなく吹き飛ばされ尾根から転落すると思われ身動きが出来なくなった。結局、長い時間をかけ身を低くし、すり足で安全な場所まで少しずつ移動したのであるが、その時の恐怖は今思い出してもぞっとする。もし、長い間動けずにいれば低体温に陥りかねないのである。
濃霧で道を誤り山で遭難する登山者は多い。山の天候は変わりやすくしかもその変化は急激である。さっきまで晴れていたのに一瞬にして霧が出て来て、周りが見えなくなることは往々にして起こりうる。特に午後になると霧が多くなるのが常である。そんなわけで山頂での良い展望を望むのであれば午前中に(出来れば10時ごろまでに)山頂にたどり着くよう計画する。又、山で泊まるなら山小屋には午後3時までには着くようにするのが登山の常識のようである。もし霧にまかれたら、必ず晴れ間が現れるのだから慌てずに時を待つ、要は地図とコンパスを持つこと、そして使い方に慣れておくことが大切である。

二十四 暑さ、寒さとの戦い
かんかん照り、灼熱の太陽の直射日光を浴びながらの登山は我慢ならないし、逆に厳寒下での登山も又辛い。そんな悪条件は避けて登山計画を立てるのが普通である。しかし、予想できない天候の急変によって余儀なく過酷な天候下、山歩きをせざるを得なくなることがあるのである。頂上まで背丈より高い木に覆われている山の場合は問題ないが、ある高度から上は木が無いか、あっても潅木しかない山は結構多いのである。真夏にそのような山に登れば暑さで苦労するが、私の場合は意外にも一番辛かったのは北海道の十勝岳に登った時であった。うだるような暑さで頭が朦朧としてきたのである。翌日、長時間掛けて登ったトムラウシ山の方がうす曇りの中歩いたせいかむしろ楽に感じたのである。
しかしながら私には寒さの辛さの方がより印象に残っている。9月の末に日光の奥白根山に登った時である。朝から曇ってはいたが登山開始直後から気温がどんどん下がってきて岩場の鉄梯子では手がかじかんで確りと梯子を握れないほどになった。山を下る頃には小雪がばらつき始めたのである。9月にこんな状況になるなど予期していなかったので大きな驚きであった。又、12月初旬ではあったが四国の石鎚山に登った時も天候の急変に遭遇した。前日に同じく四国にある百名山の一つ、剣山に登った時はぽかぽか日照りで鼻歌交じりで気分爽快であったのに、その夜から寒冷前線が入り込み翌朝石鎚山に登るべく、ゴンドラの麓駅に付いた頃から雪が降り始めた。ゴンドラを降りて歩き始めても雪は降り続け、山の中腹ぐらいまで行くと既に登山靴が雪に埋もれるほどとなった。吹雪になったのである。山頂に着いたときには周りは真っ白でないも見えない。前日との温度差は実に20度ほどあったと思われる。
次に思い出されるのは11月初旬岩手山に登った時である。登山前日岩手山麓の神社前にテントを張った。夜、早飯を済ませ厚着をしてテント内のシュラーフ(寝袋)に潜り込んだが猛烈な寒さで身体の芯まで凍りそうに感じられ眠れるものではなかった。我慢できずにテントを飛び出し身体を温めるため神社前の広場を駆けずり回った。20分も走ると少し身体も温まって何とか眠ることが出来たのである。翌朝隣のテントの人に「夜中にずいぶん走り回っておられましたね。」と声をかけられた。またテントの思い出としては仙丈ケ岳、甲斐駒ケ岳に登った時である。仙丈ケ岳に登った日に翌日の甲斐駒ケ岳挑戦に備えて北沢峠にテントを張った。仙丈ケ岳に登った時点ではぽかぽか陽気であったのだが夜半から急激に冷え込みだした。夜中に寒さの為目が覚めたついでに近くのトイレに行こうと思ってテントから出ると周りは真っ白に霜が降りていた。このときの寒さも尋常ではなかった。昼間と夜の温度差が20度以上になることはそんなに珍しいことではない。やはり秋に入っての登山には防寒対策を怠ると大変なめに遭う。
防寒対策を甘く見てひどい目にあったことがある。やはり11月初旬であった。蓼科山に登ると頂上付近で白いものがちらつき始めた。頂上の小屋の傍で弁当のおにぎりを食べたが寒さで身体ががたがた震えだす。小屋の外側に掛かっていた温度計はマイナス2度を示していた。マイナス2度ぐらいは大したことの無い気温なのだがその日は厚手の衣類を持っていなかったのである。薄いウインドブレーカーを通して寒さが身体に襲い掛かってきたのだ。やはりフリースの上着などは常にリックに入れておくべきだと悟ったのはこの時である。

二十五 谷川岳
谷川岳と聞くと大変きつい山だと思う人が多い筈である。私もその一人であった。世界で一番死者を出していることで有名な一の倉沢の岩壁があるからである。しかしながらロッククライミングを目的とするのでなければむしろ易しい山なのである。土合からロープウエーで天神平まで行けばそこから谷川岳(1963m)までの登山道は天候さえ良ければ無理なく歩ける。
秋のある日、朝起きて秋晴れの空を見て家内に「これから谷川岳に行ってみようか?」と言われた時私は一瞬ひるんだ。大変な話ばかり聞いていたからである。しかし落ち着いて山の地図で調べてみると谷川岳の頂上は2000mもないことが分かった。家内と私はいつでも気が向いたら山に行けるように登山用の準備を整えてあるので行くと決めれば30分もかけずに出発できる。朝未だ早かったので早速車に飛び込み谷川岳ロープウエーの麓駅に向かった。1時間ほどで土合に到着しロープウエーに乗った。
ロープウエーで天神平に着くと雲ひとつ無い晴天で眼下には紅葉に輝く山々が広がっていた。そこからの尾根伝いの登山道は爽快で疲れを感じる前にトマノ耳に着いてしまったのである。ところが大したこと無いと思ったのはそこまでで下山で大変な思いをすることとなったのである。
帰りはロープウエーなど使わずに西黒尾根を下ろうと言うことになったのだが下りだすと岩場が多く、しかも天気なのにどういうわけか岩の表面がぬるぬるしていて滑りやすくなっていた。所々岩に足場用の刻みがついていたのだが全く私の歩幅に合わず大きな岩を腰をかがめてずり降りねばならないところが多くて非常に時間が掛かってしまった。下りの得意な家内はそんなところでも結構な速さで降りていってしまう。初めの内こそ途中で待ってくれたのだがその内私の視界からきえてしまうことがおおくなって、私はますます焦ってしまったのである。もっとも家内も後では「あそこはきつかったわね」と言ってくれたが3時間余の悪戦苦闘は二度と挑戦したくないものとして記憶に残っている。私にとっては百名山登山を通じて下りでは西黒尾根はダントツの苦しさであった。

二十六 家内はいつの間にか女性アルピニスト
家内はまだ私が仕事で忙しい頃からいろいろな機会を見つけては山登りを続けていた。秩父の山などには一人でも出かけていたが多くは何々山岳会と言うようなグループに所属して出かけていたようである。参加していたグループも一つではなくいろいろと使い分けていたようで特に冬山志向のグループとの付き合いを大切にしていた。 私は退職後に時間が出来てからでも雪山の山行には参加したことがないが雪山以外では時々家内の異なった山の仲間達との山行には便乗させてもらっていた。家内は雪山のみならず、沢登りや岩登りにも挑戦し、自宅でも暇を見つけてはザイルの結び方やピッケルの使い方等を研究していたのである。私も沢登りと岩登りのトレーニングにはそれぞれ一度だけお供したことがある。

ある時家内が常連として所属している山岳倶楽部のホームページを覗いて見ていると急な斜面を下っている一行の写真が眼に入った。先頭に立っているのは紛れもなく家内であった。そして写真の横には家内を指して女性アルピニストとの表記がついていた。いつの間にかそのグループでも一目置かれる存在となっていたのである。勿論、私が百名山を目指すようになってからは機会があるたびに誘ってくれたり、付き合ってくれたが山行の数から言えば私が年間30回ぐらいだと彼女は50回ぐらいという様に経験の差は益々広がる一方である。

こんな山の神でも私に一緒に行ってほしいと言う事がある。 一つは狭い山道を車でかなり走らないとアクセスできないような里山である。細い山道の運転に自信のない家内のアッシーの役を仰せつかるのである。もう一つのケースは家内が行きたいと思い続けていた山行コースで一緒に行く仲間が見つからない時である。このケースは大変に厳しいコースが多い。只、これらの厳しい山行に付合わされたお陰で私の百名山踏破への体力が養われたとも言える。

二十七 不帰(カエラズ)キレットと八峰キレット(1)
キレットというのは稜線の一部が急激にv字形に切れ落ちている場所を指す。通常地図上ではキレットとカナで書かれているので外来語に思えるのだが「切処」又は「切戸」と書かれる日本語である。ただしこの「キレット」という言葉の響きが如何にも稜線の岩場の厳しい難所を表しているようで興味深い。日本で三大キレットと言われているのは大キレット(槍ヶ岳〜穂高岳)、八峰キレット(五竜岳〜鹿島槍ヶ岳)、不帰キレット(白馬岳〜唐松岳)である。家内が未だ通っていない不帰キレットに付き合ってほしいと言い出したのは真夏のことだった。私は八峰キレットも経験がなかったので天狗岳から唐松岳、五竜岳、鹿島槍ヶ岳を通り爺ヶ岳まで縦走して両方のキレットを歩くことにしてもらった。

不帰キレットには白馬岳からスタートしなくても天狗岳から行けば済むので猿倉から鑓温泉(標高2100mのところにある)を通って天狗岳を目指すルートを選ぶことにした。このコースは急な登りだがその日は快調に歩が進み9時には鑓温泉を通過し昼前に白馬岳と天狗岳を結ぶ稜線にたどり着いてしまった。稜線に出たところで昼飯を食べるため一休みしていると白馬岳方面から稜線を歩いてくる数名の登山者がいた。なんとそれは家内が所属している山岳クラブの仲間数名であった。不帰キレットを通って唐松岳まで行き下山するのだとのことである。先を急ぐそのグループはそのまま天狗岳方面に進んでいった。

家内と私が天狗小屋に着いたのは1時15分過ぎであった。未だ陽が高いので先に進もうとすると天狗小屋の主人に止められた。ここより先はここを1時前に通過しないと駄目だと言う。 ここで夜まで休むのはもったいないと思ったがそれほど不帰キレットが厳しいと言うことなのだろう。翌朝早めに出発して五竜小屋まで行けば遅れは取り戻せると考え直し天狗小屋で一泊することにした。小屋の中にいるのは馬鹿らしいので小屋にリックを預け小屋近辺の草花を愛でることにした。暫く小屋近くの高山植物を観察していると不意に二人の登山者に声をかけられた。 よく見るとカナディアン・ロッキーのトレッキングでご一緒した高田御夫妻ではないか。我々とまったく同じコースを考えているという。ご夫妻は九州に住んでみえるのでこんなところで再開するとはまさに奇遇である。ところがこの日はまだ奇遇が続いたのである。

夕食時同じテーブルで家内の向かいに座った中年女性が暫く家内を見ていたが「あの、以前どこかの山でご一緒しましたね」と言ったのである。家内も思い出したらしく「あっ、津村さんね」と言ったのである。ブログなどでかなり知られている女性登山者だそうだ。出会うということは場所と時間が一致することだから確率的には難しいことと思われる。だがこの日のようにまったく別の三つの知り合いに出会うなんていうことも起こるのだから面白い。

二十八 不帰(カエラズ)キレットと八峰キレット(2)
翌朝は朝食をお弁当にしてもらい早立ちした。小屋を出て広い尾根をゆるやかに登ってゆくと天狗の頭に出た。 そこからは下りとなる。広い砂礫の尾根を緩やかに下って行くと、痩せた尾根になってくる。 右手が越中で左手が信州である。稜線にはいくつもの鋭い岩峰があって、これを巻きながらすすんで行くと「天狗の大下り」の看板が目に入った。 大下りを下ると不帰の嶮が待っているのでここは家内が待ち望んでいた不帰キレットへの入り口ともいえるところである。

ここからは鎖場と険しいザグザグの下り道が交互に出てくる。 ペースを落として一歩一歩慎重に下ったがこの天狗の大下りは標高差で約300mもある。不帰キレットに着いたのは7時45分、信州側の不帰沢の雪渓がすごかった。このキレット底で弁当にしてもらった朝食を食べ休憩した。 ここからは不帰の嶮と呼ばれるⅠ峰・Ⅱ峰・Ⅲ峰が続く。 キレット底から歩き出すと急な岩場は最初だけで、まもなく稜線の道になりあとはあまり苦労なくケルンが積まれた山頂に着いた。ここがⅠ峰である。

ここからⅡ峰にかけてが不帰の嶮の核心部で鎖場と鉄梯子が入り混じる難所が続いている。 足腰や腕力の弱い人、高所恐怖症の人達には無理かと思われるところだ。Ⅰ峰からはザレたすさまじい下りになる。 何とか鞍部に降り着いたがそこから見上げるⅡ峰への登りがすさまじい。岩場の急登が始まる。最初から鎖場である。鎖につかまって岩峰を越える。無我夢中でひたすら目の前の岩場を登ってゆくと北峰山頂であった。Ⅱ峰には北峰と南峰があって、この間は痩せた岩尾根である。

Ⅱ峰山頂は平坦な広いところで、ここからⅢ峰までは普通の稜線の道である。行く手の大きな山に向かって稜線を行き、右の尾根を越える。そこからは砂礫の山腹を斜めに登って行く。Ⅲ峰ってどこだろうと思いながら急登を続けると、山頂に着いた。ここがⅢ峰かと標識をみたら、唐松岳であった。10時であった。そのまま唐松岳を通過して先に進んだ。 岩場が続いたが不帰キレット越えで厳しい場所を歩いてきたせいかそれほど苦労もせず数回休憩しただけで3時前には目的の五竜小屋に到着した。 といっても五竜小屋手前の岩場は厳しいものであり、夜五竜小屋で同室となった一人の男性は「劒岳のかにの横ばいより怖かったよ」と話していた。 その夜は早く寝た。

二十九 八峰キレット挑戦
3日目はいよいよ八峰キレット挑戦である。 前日と同じように朝食をお弁当にしてもらい6時前に小屋を出た。八峰キレットに向かうには五竜岳を越えていかなければならない。五竜岳は私が本格的な登山を志して最初に登った山だった。 しかも今回が3度目なので気負いはなかったが山頂までの登山道はけっこう岩場が多く厳しいことに変わりない。 特に山頂近くの岩は大きなものが多くよじ登るのに苦労する。それでも予定通り1時間で山頂に着くことが出来た。天気がよく山頂からの景色は素晴らしかった。行く手前の方には双耳峰の鹿島槍が聳えている。その鹿島槍から五龍まですさまじい岩稜が続いているのが見える。八峰キレットの道である。ここからは私にとって初めての道なので緊張が走る。
右手富山県側の谷の向こうに眼をやると、そこには立山連峰が聳えていてその右にはひときわ目立つ岩稜の山、剣岳が見える。剣とこの五龍の間の谷が黒部峡谷である。登ってきた道を振り返ると、五龍山荘が小さく見えて、その向こうに唐松岳が見え、その上には白馬三山がかぶさるように聳えている。東に眼をやると遥か向こうに、小さく富士山も見える。こんな素晴らしい眺めはめずらしい。
今日はなんとしても爺ヶ岳近くの冷池山荘まで歩かなければいけない。午後からは天気が崩れそうなので、早く八峰キレットを越えなければと休みを取らずに五竜岳山頂から下り始めた。まず、急な下りである。傾斜がどんどんきつくなっていく。滑りやすいザレ道なので、落石を起こさないよう注意しながらかなり慎重に足を運ぶ必要がある。途中、所々で険しい岩場があったりする。このコースが、距離のわりには3時間もかかるのも納得できる。
ようやくの思いで下に降り着き、振り返るとすごい岩場の下りだったのがわかる。少し息をつくが、平らな道はごく短くて、再び痩せた岩稜の道になった。 次々と現れる険しい岩場を夢中で越え続けているうちに八峰キレット小屋に着いた。岩場の鞍部に立派な小屋が建っていた。 一息ついて小屋を後にして再び岩場の道を登りだす。 岩峰を越えて下るとすぐに八峰キレットであった。 細い岩の裂け目のようなところを梯子で下る。この裂け目が大きく下に落ち込んでいて、断崖になっているすごいところである。
八峰キレットを過ぎると、今度は険しい岩場の登りになる。直にらくな尾根道に出るのかと思っていたのだが、とんでもなくて、いくつもの岩場を越えて登って行くのだった。行く手には鹿島槍が大きく聳えている。その険しい岩場の尾根を登って行くのだ。鹿島槍というのは、遠くから見ると双耳峰のたおやかな山に見えるのだが、実際はすさまじい岩稜の山なのだ。
この急な登りでバテて来た頃に、ようやく鹿島槍の南峯と北峰とを結ぶ吊尾根と呼ばれる稜線が見えてきた。吊尾根に着くまでの最後の登りは、けっこうきつかった。ゴールは見えているのに、なかなか辿りつけない。ようやく稜線の分岐点に登りついたのは1時半。 南峰がすぐ傍に聳えている。すさまじく急な道が山頂に向かって続いている。北側には北峰がすぐ近くに見える。この分岐にザックを置いて、北峰を往復した。
北峰はこの分岐から近い。10分もかからずに山頂に着いた。山頂の岩に座って景色を眺めている女性がいる。よく見ると天狗小屋で出会った津村さんだった。一緒に冷池山荘まで行くことになった。ちょっと南峰を越えるのに急峻な道で疲れたが後は冷池山荘迄惰性で歩いてしまった。 冷池山荘で泊まり翌日はるんるん気分で爺ヶ岳を通り扇沢に下って帰路に着いた。やはり不帰キレット、八峰キレット縦走はきつかった。

三十 栂海新道(1)
7月に不帰キレットを終えた後、我が家の山ノ神は日本アルプス横断を完遂するため残っている北アルプス朝日岳から新潟の親不知に抜ける栂海新道を歩こうと誘ってきた。調べてみると栂海新道は、新潟県青海町の「さわがに山岳会」が10年の歳月をかけて1971年に開通した山道である。 吹上のコルから親不知までの全長27㌔に及ぶアルプスと日本海をつなぐ長大な縦走路である。湿気の多い樹林帯が続き、いくつものピークが連なる結構キツいルートだが、登山道は明瞭で、危険箇所には鎖やハシゴもついていてよく整備されているということが分かった。

栂海新道の自然が学術的にも貴重なものでアルプスと海をつなぐ植生の変化や、地質・地形の特徴は他では見られない希少価値のあるものだということも分かって私も興味がわいて来た。歩く距離が長いので山中2泊は必要である。初日はタクシーで富山県側の北又小屋登山口まで行き朝日岳山頂近くの朝日小屋まで行くことにした。百名山に選定されているものを含めて朝日岳と呼ばれる山は沢山あるがこの朝日岳は日本300名山の一つで北アルプスにある。小屋には午後2時ごろには着いてしまったが翌日からの長丁場に備えてゆっくり休むことにした。

朝日小屋の女主人はとても感じのいい方でいろいろと話をしてくれる。驚いたことに小屋にはインターネットがつながっていた。当時は未だ山の上でのインターネットなど考えられないことだったのどうやってインターネットに接続させたのか訊ねてみた。麓の自宅から小屋まで直接電波を飛ばしているのだと言う。あそこが麓の自宅ですと指差す方を見ると確かに空間が開けていて麓の村が見える。特別に電気技師に頼んでパラボラアンテナを使って自宅のインターネットと繋いだというから驚いた。時代を先取りする素晴らしい女主人である。

翌朝は早めに朝食を取り、作ってもらった弁当を持って小屋に別れを告げた。小一時間も歩くと朝日岳頂上である。幸いなことに天気もよい。頂上付近で雷鳥の親子に出会いうれしい気分になった。山頂で小休止して「栂海新道・蓮華温泉へ」の道標に従って下山にかかった。ザレ道の斜面をジグザグに下った。ザレ場だがタカネバラやウスユキソウなど色々の花が咲いていた。 30分も行くと千代の吹上げ分岐に着いた。 大岩に赤ペンキで、『栂海・日本海』と書いてある。 いよいよ栂海新道へ足を踏み入れることになると思うと感慨無量である。

三十一 栂海新道(2)
栂海新道へ入るとこの日はアヤメ平から黒岩平を通って黒岩山、サワガニ山、犬ヶ岳を越えて栂海山荘までのロングコースである。栂海山荘は無人小屋なので寝袋や食料品などを持って行くので通常より担ぐ荷物の目方が重くなり疲労度も増す。 栂海新道に入ってしばらくはなだらかな道だがところどころロープ場があったり、石場があったり、泥濘があったりして歩きにくい道が続いた。アヤメ平には、ヒオウギアヤメが咲いており、最後の楽園と言われる黒岩平には、コバイケイソウ、ニッコウキスゲ、ミズバショウの群落が見られた。それ以外にも様々な高山植物が観察でき疲れを忘れて歩きつづける。

黒岩山に着いた頃にはお腹がすいてきたので休憩だ。朝日小屋で用意してもらった弁当を食べお腹を満たし、気を取り直して出発する。黒岩山の次のサワガニ山は痩せ尾根の連続で、小さなアップダウンが続いて汗だくとなる。 鞍部の北俣の水場で今晩と明日のための水をしこたま詰め込んだ。登山道から水場まで往復10分かかったが冷たくて美味しい水だった。 水場での給水後、キツイ登りを経て犬ヶ岳山頂を通り、栂海山荘へ到着したのは予定より遅い3時半であった。ここまでのコースは修行のような下山道で健脚者向けのコースであることは間違いない。

建て替えられて数年の二階建ての小屋は、きれいに維持・管理されているようであった。小屋に入ると中には誰もいなかった。早速持参したガスコンロでお湯を沸かし山用のインスタント飯を食べた。貸切状態で広々とした板張りの床に寝袋をゆったりと引き寝る用意をする。何も問題はなさそうに思ったのであるがトイレに行って驚いた。トイレは離れたところにあり、谷間に突き出した金網の足場にビニルシートの屋根をかけたもので空中に浮いているみたいである。下を見ると足元から深い谷が覗いている。 高所恐怖症の人や女性の使用には少々勇気が要りそうだった。

翌日目覚めると、雨飾山、妙高山などの山々が見渡せた。黄蓮山から痩せ尾根を辿って縫うように歩く。左右どっちに踏み外しても一巻の終わりになりそうな痩せ尾根を、足元を見ながら慎重に歩いた。稜線の小さなアップダウンも忠実に辿るので、見かけ以上にきつい道である。菊石山を下って、次の下駒岳への登りがものすごい急登だった。ザックも重いこともあって先が思いやられる。下駒岳から50mから100m程度のアップダウンを何回も繰り返して白鳥山の山頂に着いて小屋の前で小休止する。白鳥山からの下りは粘土の急坂で滑りやすくて大変だった。 下りの苦手な私は疲れてきているので踏ん張りが利かず、何度も尻餅を突いてしまう。途中の水場で小休止して、元気を取り戻して下っていったが、次に待っていたのが金時坂の急坂だった。梯子があったりロープがあったり、滑りやすい粘土があったり、300mを一気に下る金時坂には閉口した。やっと坂田峠に降り立つと、ここは立派な舗装された車道であった。ここでタクシーを呼ぶことにした。

歩行距離は48.5km、累積標高差が上り下り合わせると1万mにもなる健脚者向けコースも家内の綿密な計画により無事完歩することができたのである。

三十二 苗場山~佐武流山縦走
苗場山から佐武流山(さぶりゅうやま)まで縦走し切明温泉へ降りる12時間コースへ一緒に行ってくれと家内に頼まれたのは9月も終わりに近かった。 その一週間ほど前に親しい山友達と一緒に行くはずだったのだが都合がつかず一人置いてきぼりを食ったので何としても行きたいと言う。 登山者の少ない厳しいコースなので一人では行きたくないのだそうだ。
早速インターネットで調べてみると佐武流山は長野県下水内郡栄村と新潟県南魚沼郡湯沢町の境にある山である。 標高は2191.5mで日本二百名山に選定されている。苗場山と白砂山を結ぶ稜線上にあり、志賀高原の岩菅山と、尾瀬の至仏山の間にある山としては最も高い山である。しかし、奥まった場所にあり緩やかな頂稜の目立たない山容の山であることと登山道の整備もあまり進んでいないことなどから、知名度は低く、登山者は比較的少ないとも紹介されている。切明温泉から直接登るのが一般的であり苗場山から縦走するのは経験者向きのルートであることも分かった。
初日は秋山郷から4時間ほどで苗場山に登り二日目の厳しい縦走に備えて山頂の山小屋に泊まることにした。翌朝、長丁場になることを考えて未だ暗い4時に小屋を出た。これが間違いの始まりだった。外は暗い上深い霧がかかっていた。懐中電灯をかざして進んだのであるがしばらくしてどうも前日調べておいた道と違う気がしてきた。尾根を進むはずなのに道が下り始めたのだ。小屋の近くまで引き返し正しい道に戻るのに一時間以上のロスが出た。時間のロスだけではない。体力もだいぶ消耗してしまったのである。これが私にとって最悪の事態を引き起こすことになるとは考えもしなかった。
苗場山から佐武流山へ向かうには途中の赤倉山(1938m)を通って行かなければならない。赤倉山への山道は藪が深くヤブコギ(藪の密生地をかき分けて進むこと)しなければならないと聞いていたが幸いなことに道が分かる程度に藪が刈り取られていた。そのお陰で順調に歩が進み弁当を食べる頃には佐武流山への道標が現れるところまで来た。ところが佐武流山に近づくにつれ悪路の急登となってきた。非常に体力を消耗する登りであった。山頂にたどり着いたのは2時近かった。
苗場山を出てから人っ子一人出会わなかったのに山頂には一組のご男女が休んでいた。麓の切明温泉から登ってきたのだそうだ。北海道から来たという男性はとても風変わりな人物だった。ゴム長靴を履いていて手には弁慶の槍のような長い木の棒を一本持っていた。同僚が目の前で熊に食われた話をしてくれた。かなりの登山経験者のようだ。我々が休んでいる間に「ではお先に」と言って下って行ったのであるが手に持った長い棒を渡し舟の船頭が艪を操るように左右に突いて飛ぶような速さで下っていった。何か天狗に出会ったような気がする。いろいろなタイプの登山人に出会ったことがあるがこんな人物に出会ったのは初めてである。
日暮れ前に下山したいので我々も頂上には長居せずに下り始めた。急な下りで一歩一歩気が抜けない。200名山最難関と言われた佐武流山だけのことはある。木の根や泥田のような道の悪さに難渋し、はたまたアップダウンが厳しくどんどん時間が過ぎてゆく。 途中一箇所携帯電話の通じる場所に出たので民宿に電話をして5時に切明の登山口に車で迎えに来てくれるように頼んだ。 そこから暫くして幅の広い林道に出た時はまだ明るかった。ところがいくら歩いても登山口に出ない。時間は既に5時になっていた。 地図を取り出して調べてみると登山口までジグザグと進む林道伝いに行くと未だかなり時間がかかりそうである。 地図に林の中を登山口までほぼ真っ直ぐ下れる近道が示されているのに気がついた。 「よし、この近道で行こう」とその林道を横切っていた登山道に飛び込んだ。 林の中の細道は足元が岩だらけでしかもよくすべり神経を使った。下りに強い家内はどんどん先に行ってしまい追いつくのに苦労する。しかも周りはいつの間にか暗くなっていたのである。そんな中を急ぐので足の指が岩にぶつかりずきんずきんと痛み出した。 痛みをこらえ足を引きずるようにして歩き続けた時間はとても長く感じた。 暗闇の先にかすかに我々を待っていてくれた民宿の車のライトが見えたときはうれしかった。 やっとのことで登山口にたどり着いたのは6時だった。 実に苗場山を出て14時間が経っていたのである。
東京に戻って皮膚科に行って診察してもらうと、医者は私の右足の親指を見て「この爪はもう死んでますね。」と言いピンセットで爪をぴょんと引っ張った。 何の痛みもなく爪は抜け落ちてピンクの皮膚が現れた。「新しい爪が生えてきますから6ヶ月で元に戻ります」と言われた爪は6ヶ月で見事復元した。

三十三 山と高山植物
高山植物に全く興味を示さない方も無くは無いが多くの登山者達は美しい高山植物を観察しながらお互いに花の名前を言い当てっこしながら歩いている。山によっても季節によっても、又山の高さによっても見られる花の種類が違ってくるのが平地に咲く花と違うところである。私も初めの頃は全く花の名前が分からなかった。仲の良い友人が最初に教えてくれたのは「白山ふうろう」であった。「これを知らないと高山植物を知らないことになる」と言われたのを覚えている。
私も多くの山を登ったおかげで今では30前後の高山植物の名前は分かると思うが家内の方は知っている花の数が一桁違っている。一緒に歩いていてあれこれ花を指差し訊くと大抵は答えてくれる。家内は知らない花に出合うと私に写真を撮らせる。家に帰ると直ぐに高山植物図鑑を引っ張り出して研究している。差がつくのも無理は無い。私は4・5回教えてもらわないと覚えられないが「ウサギギク」、「キヌガサソウ」、「カタクリ」、「ゴゼンタチバナ」、「コバイケイソウ」、「コマクサ」、「タカネマツムシソウ」、「チングルマ」、「ツマトリソウ」、「ニッコウキスゲ」、「ハクサンフウロウ」、「ミヤマアキノキリンソウ」、「ミヤマトリカブト」、「ヨツバシオガマ」、「ワタスゲ」等々、良くお目にかかる高山植物は流石に覚えてしまった。努力もしたことがある。ある夏のシーズン、家内に挑戦しようと思って70種しか載っていない小図鑑を毎日見て全部分かるようにしたのである。しかし、翌年になったら三分の一も覚えていなかった。それ以来無駄な努力はしないことにしている。

三十四 山で出会う野鳥
山ではいろいろな鳥に出会う。高校同期の山仲間の一人はバードウオッチングでもベテランである。一緒に山に行くことが多かったので出くわす鳥をいろいろと解説してもらえた。美しい色をしているのに声の悪いカケスを除けば美しい鳴き声の鳥が多い。中でもオオルリとコマドリは美声である。又、渓流でよく耳にするミソサザイの鳴き声は元気を与えてくれる。樹林帯ではホオジロ、カワラヒワ、キビタキ、ウグイス、コゲラ、青ゲラ、赤ゲラ、ヤマガラ、ヒガラ、センダイムシクイ等々に出会うことが多い。雄と雌では雄の方が圧倒的に色鮮やかである。美しいウソ、オオルリ、赤ゲラ、青ゲラは見ているだけでも飽きない。ウグイスは登山道の至る所で鳴き声が聞こえるのだがなかなか姿を見せてくれない。稜線に出るとホシガラスや岩ひばりが登場する。
又、北アルプス高地の潅木地帯では運が良ければ雷鳥を見ることが出来る。親鳥の後をヒナ鳥がヨチヨチついて歩く姿はなんともほほえましいものである。雷鳥は飛べないので普段は潅木の茂みに隠れている。地上のオコジョ、キツネ、テン、空からのイヌワシ、クマタカなどの天敵から身を護るために、霧や雷雨で視界の良くないときに出てくることから雷鳥と呼ばれるとのことである。そういった視界の良くない時でも登山客はチャンスとばかりに雷鳥を探し回る。雷鳥にとってのいちばん怖い天敵は、高山植物を踏み荒らし、巣を撮影する登山者達であるのかもしれない。

三十五 山で出会った動物達
鳥ほど種類は多くは無いが山歩きの最中に野生の動物に出会うことがある。北海道ではエゾヒグマ、ナキウサギ、キタキツネに出会った。北海道ではキタキツネの体表面や糞などを媒介とするエキノコックス症の感染も問題視されていて山中では人は天然水を飲まないよう注意されている。そんな話を聞いていたせいか出くわしたキタキツネは汚らしくてみすぼらしく見えた。岩手県の早池峰山では登山口へ向かう自動車道で車の直前をツキノワグマの子熊が転がるようにして横切ったことがある。 子熊のそばには親熊がいるので注意しなければいけないと言われているが、この時は車の中から見たので怖さは無かった。ぬいぐるみのような真っ黒な可愛い子熊であった。オコジョには一度しか出会っていない。可愛い顔をしているが大変凶暴な性格と聞いている。キツネ、リス、猿、鹿は比較的低いところで出くわすことが多い。猿はボスを中心に集団で移動していることが多く、出くわすと歯をむき出してこちらを威嚇してくることが多い。いのししや熊はお呼びでないし、大きなカモシカは可愛いと思わないがデズニー映画に出てくるバンビのような可愛い鹿には三度ほど出くわしている。動物との出会いでは親子の情を感じさせられたこともあった。
北アルプスの麓の渓谷に沿った山道を歩いていた時に山道横の窪みにうつぶせになった親キツネの死体を発見した。毛並みから見て死んでからそんなに時が経っているとは思えなかった。そこから50mほど歩いた時である。渓谷の対岸、距離にして20mも離れていない岩場の穴から身を半分ほど乗り出している子狐の姿が目に入った。 こちらをじっと見つめている。コマーシャルに出てくる子狐のような可愛い目をしていた。先ほど見かけた親狐の子供なのかあまりのあどけなさに暫く見とれてしまったのである。親狐がどうして山道の途中で亡くなったのか理解できなかったが生き物の哀れを感ぜずにはいられなかった。これとは逆に亡くなった子鹿を見守っていた鹿に出会ったことがあった。
日光の中禅寺湖傍の低い山に登った時であった。樹林帯の中の道を歩いていると突然10mほど先から親鹿が立ち上がり走り去ったのである。なんとそこには死んだばかりと思われる子鹿が横たわっていたのである。我々が通りかかる迄親鹿が動かなくなった子鹿をうずくまって見守っていたものと思われる。子鹿がなんで死んでしまったのかは分からなかったが、この光景も心の痛むものだった。

三十六 九州の山々(一)
九州には鹿児島県屋久島にある宮之浦岳を除いて九州本土に五つの百名山が存在する。その五つだけなら一週間ほどあれば回れそうである。そんなことで十一月初旬に家内と飛行機で大分まで行きレンタカーを借りた。
深田久弥が選んだ百名山の中には独立峰でなく連峰又は山塊を総称しているものが多い。例えば八ヶ岳、天城山、赤城山、鳳凰山、丹沢、等々かなり存在する。しかもその名で呼ばれる独立峰など無い場合がほとんどだ。例えば八ヶ岳と呼ばれる単独の山は存在しない。では、こんな場合、それぞれの山塊のうちどの峰に登ったら百名山に登ったことになるのか。私の場合は連峰の中で一番高い山を含んだ1・2座を登ったらその百名山に登ったことにしている。そうでもしなければ丹沢連峰などは数多くの名峰があり、それらすべてを登頂しなければ百名山の丹沢に登ったことにならなくなってしまう。百名山で呼ばれる連峰すべてを登らなければならないとすると深田久弥の百名山を踏破するには百二三十の山に登らなければならなくなってしまうのである。
九州の山は開聞岳を除いては山塊と言ってもいい。祖母山は一つの山の名であるが山塊の中の一峰と思われるからだ。大分に着いた日に足慣らしのため別府市内の鶴見岳に登った。由布山が直ぐ傍にある。先を急ぐためその日の内に久住山の麓までドライブすることになる。有名な温泉地、湯布院を抜けて行く途中で見えた由布岳は優雅な姿を見せていた。とても美しくて百名山に入れてもいいのではと思えた(後に岩崎元郎氏が選んだ新百名山には入っている)。日暮れ前に久住山近くの山小屋風の素敵な宿に到着した。
翌朝は早起きして登山口の牧の戸峠まで車をとばす。牧の戸峠は標高1330メートル、冷気が肌にしみる。ここから久住山そして九州最高峰の中岳を巡ってこの牧の戸峠に戻る3時間余の軽いコースである。 駐車場からしばらくは観光用の遊歩道を歩くが、間もなく広々とした草原となった。原を過ぎ三角錐の急斜面を岩礫に足を取られながら、直登して久住山頂に立った。思ったより楽な登頂であった。久住の山々を間近に眺め、これから挑戦する祖母、阿蘇の山並みを眺めた。  
頂上から鞍部に下り、そこから登り返して一気に中岳の項上まで登る。 中岳は1790メートルである。祖母山、久住山、大船山・・と、九州本土最高峰は二転三転の結果、この中岳が正真正銘の最高峰として決着したそうである。午後には阿蘇山に登る計画なので長居は出来ない。牧の戸峠に戻ると直ちに車に飛び乗り阿蘇に向かった。

三十七 九州の山々(二)
国道57号線を走り、阿蘇外輪山からカルデラ盆地の中への下りにかかると、阿蘇五岳が目に飛び込んでくる。やはり雄大な景色であった。高岳、中岳も見える。阿蘇五岳はカルデラの中に再度の噴火によってできた山々である。 阿蘇五岳は高岳、中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳の五峰であるが、日程の都合で高岳と中岳しか登ることができない。
高岳への山腹は、熔岩や火山礫の殺伐たる光景で、傾斜はかなりきつく見えたが実際に歩いてみると案外道はしっかりしていた。暫く岩場をはうように進むとその先には援やかな山頂が待っていた。 山頂で久住、由布岳、阿蘇外輪山、阿蘇五岳と眺望を楽しんだあと、高岳東峰方面に向かった。高岳から中岳へは砂礫の尾根をほんのひと歩きだった。赤茶けた火山特有の乾いた景観の中を歩き、帰りはロープウェー東火口駅からロープウェーで仙酔峡へ下った。翌日は祖母岳に登るので早めに宿に着き身体を休めることにする。
翌日は曇りで薄ら寒かった。祖母山は火山活動によって形成された山であるため巨大な岩石が随所に見られ、登山ルートは整備されたものから獣道まで多種多様であるが頂上付近はどのコースを辿っても急な岩登りコースがあらわれる。 午前中に下山したいので雨具、水筒等わずかな軽装で出発、登りは宮原から稜線へ出るコースを取った。
ややきつい登りを終ると最初のポイントとなる宮原に到着。休憩用のベンチも備えてある。ここからは双耳の祖母山頂を眼にしながらの稜線の登りとなる。途中で登山道全面がアイスバーンで覆われた箇所があった。かなり大きくしかも傾斜がついていたのでつるつるすべってなかなか先に進めない。登山道脇の潅木にしがみつきながらこの難所をやっとのことで乗り越え九合目小屋を過ぎると、あっけないほど簡単に山頂に着いてしまった。どこにでもある裏山のような雰囲気の頂きだった。強風で寒く視界もあまりよくなかったためか格別感激するものがない。長居は無用とばかりに直ちに山を下った。次の目的地である霧島山まではかなりの道のりである。近くまで行き宿をとることにした。

三十八 九州の山々(三)
霧島山(きりしまやま)は九州南部の鹿児島県と宮崎県県境付近に広がる火山群の総称であり、最高峰の韓国岳(標高1,700m)と、霊峰高千穂峰(標高1,574m)の間や周辺に山々が連なって山塊を成している。 高千穂峰登山口に車を止め登山を始めたのは未だ8時前であった。前日中に近くまで来て宿を取ったのが正解であった。その日は前日と違って日本晴れでとても爽やかな気分となった。
ここは神話の山、天皇神格化の思想と直結しているように思われて、神殿、 礼拝所の類いの前は避けて、脇道から歩き始めた。潅木帯が切れると、道は赤茶けた岩塊の急登となる。急坂を登り切ったところが馬の背越、生々しい噴火口の縁を行くと高千穂峰が姿をあらわしてきた。ピラミッドを置いたような姿だ。後ろには霧島連峰中岳から新燃岳が見えるが、韓国岳は望めなかった。 火口から少し下りた鞍部からの登りは砂礫の急斜面で足をとられ非常に歩きにくい。二歩登っては一歩滑り落ちる感じである。悪戦苦闘の末に頂上に到着した。天孫降臨の地といわれ、神域として立ち入り禁止の縄で囲まれた中にある天の逆鉾を見て一息ついた。山頂からの眺めは素晴らしかった。
高千穂峰から降りると途中の山はとばして韓国岳登山口へと向かった。霧島連峰の最高峰韓国岳にはどうしても登りたいと思っていた。  登山口は硫黄山の麓にあって、ここから硫化水素の強い臭いが鼻をつく噴気を気にしながらしばらく行くと登山道となる。韓国岳の山頂目指しがむしゃらに足を進める。潅木帯を抜けると開けた尾根となり、岩や石ころだらけの道に変わっていった。五合目とか七合目とか標柱が目に入る。 山頂の『韓国岳』標柱は、岩の中に風雨にさらされていた。標高差は500m、1時間半程の比較的楽な登りであった。霧が去来する山頂は視界が悪く九州山群随一といわれる展望を得られなかった。残念だが早々に下山することとした。  
車に飛び込み宿で用意してもらった弁当を食べながら次の目的地の開聞岳へと向かった。開聞岳のある指宿市に近づくとやたらに道が混雑してきた。ガソリンスタンドで聞くと「今、指宿にタイガーウッズが来ているんですよ」言う。そういえば丁度指宿で大きなゴルフトーナメントが開催されていたことを思い出して納得した。
間もなく前方に待望の開聞岳が姿をあらわした。頂上に雲を乗せてはいるが、 ほぼその全容を見ることができる。こじんまりしているが、その姿はさすが薩摩富士呼ばれるにふさわしい姿をしている。高さはたったの922mである。日本百名山の中でも1000mに満たない山は筑波山の876mと開聞岳だけである。しかしほぼ海岸線から登るのであるから標高差は確りあるので侮れない。登山道は山を螺旋系に回りながら登ってゆく。潅木の茂った道は蒸し暑く上着を脱いで下着一枚になって歩いた。足場の悪い岩場をひと登りすると、『頂上まで25分』の表示がある。表示どおり25分かかって頂上に到着した。見晴らしはかなり良くその内挑戦する予定の屋久島の宮之浦方面を確認して下りにかかった。
これで今回の九州山旅の予定が全部無事終了、安堵感が広がる。その日は指宿の国民休暇村に泊まり砂風呂に入ってゆっくり身体を休め、翌日鹿児島から空路東京へ戻った。

三十九 屋久島(一)
鹿児島県の屋久島にある宮之浦岳は百名山の中でも中々訪れる機会を作りにくい山である。まず訪れるのに時間がかかることがある。又、雨が多くて土砂降りにでも遭えば予定通りの登山が難しくなる。行程もかなり長いので体力をつけておかなければならない。 宮之浦岳は以前登った関門岳から見えたので親しみを感じていたが意を決して計画しないとなかなか行けそうにない。ところが幸いなことに百名山登山では何度もお世話になっていたベテランご夫婦から一緒に行きませんかとお誘いを受けたのだ。喜んでご一緒させてもらうことにした。
ジェット機で鹿児島まで行き、そこからプロペラ機に乗り換え屋久島まで飛んだ。屋久島に着いた日に有名な屋久島の杉を見にヤクスギランド(屋久杉の自然公園)を訪れた。そこにはどれ一本とっても本州に持ってくれば名木と言われるような威風堂々とした屋久島杉が沢山あって圧倒された。その夜は安房の宿に泊まったのだが夜半から物凄い豪雨が屋根をたたき、やはり翌日の登山は無理なのかと心配になった。
翌朝雨は少々小降りになってきた。屋久島の雨は最初から覚悟の上であったので予定通り出発することになった。屋久島を訪れる多くの登山客は南側の淀川登山口から登り、山中泊をする、しないに関わらず再び淀川登山口に下りてくるルートを取る。しかし我々のグループは健脚がそろっていたので初日に宮之浦岳に登り新高塚小屋に泊まって、翌二日目に縄文杉、大王杉、ウイルソン株などの巨木を見ながら木道を下って軌道敷きのトロッコ道を延々と北側の荒川登山口まで歩くことにしたのである。そこで淀川登山口まで送ってもらったタクシーの運転手に翌日反対側の荒川登山口に3時半に来てくれるよう頼んだ。

四十 屋久島(二)
淀川登山口から登り始めて暫くすると雨が上がって薄日がさしてきた。皆、早速雨具を脱いで軽快な歩みとなってきた。40分も歩くと淀川小屋である。小屋は木造中二階で綺麗に清掃されていたが子供ずれの外人家族が炊飯の準備をしていた。我々も水飲み時間とし一寸椅子に座りその家族と話をしたのであるが話しているうちに相手がひどい風邪をひいている事に気がついた。風邪をひいている人の出す独特の臭いが周りの空気に充満していたのだ。いやな予感がした。
そこから一時間弱登って綺麗な高層湿原小花之江河を通過する頃には太陽が出て来て小春日和となった。それから更に一時間ほど歩いて尾根に出た時だった。可愛い一匹の小鹿が登山道脇に飛び出してきた。茶色の毛に白い斑点がある正にデズニー映画に出てくる小鹿のバンビである。人に慣れているのか手を出しても逃げない。心和む動物との出会いであった。
天気が良くなったおかげで昼一寸すぎには宮之浦岳頂上(1,935m)に立つことが出来たのである。頂上からは永田岳や青い海が展望でき幸せな気分となる。宮之浦岳登山は距離があって大変だと聞いていたわりにはあっさり登れてしまった感がある。そこからの下りはるんるん気分で歩け、明るいうちに新高塚小屋に着いた。ところがその夜から急に熱が出てきて、激しい咳が始まった。寝袋に潜り込んでも連続的に咳が続き同宿の登山者達に大変な迷惑を掛けてしまったのである。

四十一 屋久島(三)
新高塚小屋に泊まった翌日も快晴であったが、私の咳はひどくなるばかりで熱も38度近くにまで上がっていた。これほど体調の悪い状態で山歩きをしたことはそれまで一度も無かった。無事にみんなについていけるか心配であったがこの日は山を下るだけだったのが幸いであった。東京にいるときに映画で見て楽しみにしていた縄文杉、夫婦杉、大王杉やウイルソン株あたりまで下ってくると身体が高熱の体温にも慣れてきて少し元気が出てきた。立派な屋久杉達をしげしげと観察する心の余裕さえ生まれてきた。
しかし、荒川登山口にはタクシーを呼んである。山の中からは電話連絡が出来ないので約束の時間に遅れるわけにはいかない。休憩もそこそこに先を急がなければならない。しばらく木道を下ってゆくとついにトロッコ軌道に出た。屋久島が出てくる映画や観光案内等で出てくるトロッコの路線である。トロッコ路線の鉄橋を登山者達がとことこ歩いて渡る姿は写真でよく目にしていたので楽しみにしていたところである。ところがこのトロッコ道は歩き出してみると長いこと長いこと、いい加減いやになった頃やっと鉄橋が出てくる。憧れの鉄橋を渡って更に歩き続けてやっと荒川登山口に到着した時には疲労困憊していた。
タクシーは約束どおりにやって来た。懐かしい運転手の顔を見てほっとする。その日は海の眺めが美しいシーサイドのホテルに泊まった。お風呂で身体を休めると直ぐに夕食の時間となった。豪勢な料理が出たが咳がとまらず食欲も出なかったのが残念である。その夜は風邪薬を飲んで早く床についた。
翌日、屋久島での四日目も天気が良かった。三日連続して天気が続くのは屋久島では珍しいそうである。屋久島まで来たのだから島を一周して名所をめぐっていこうということになってレンタカーを借りた。数々の名滝、巨大なカジュマルの木を巡り、有名な海中温泉にも入った。運転は交代ですることになっていたのだが私は未だ熱が引いておらずすべてお任せすることになってしまった。「あなたの無用心で風邪をひいてしまい皆さんに大変なご迷惑をかけた」と山の神に散々なじられた辛い宮之浦岳山行であった。

四十二 光(テカリ)岳に登る
静岡県と長野県にまたがる光岳はテカリ岳と読む。頂上近辺に白く光っている大きな岩があるところから来ている名前だそうだ。 百名山を目指す人にはこの山を最後の方に残す方が多い。残すというよりはなかなか他の山を登ったついでには行きにくい所に位置しているのでついつい後回しになるというのが本当のところであろう。幸い家内も未だ登っていなかったので積極的に付き合ってくれることとなった。私が登っていて家内が登っていなかった唯一の山であった聖岳にも回ることで話がついた。便ヶ島の聖光小屋まで車で行きそこから光岳に登り、光岳の小屋に泊まって次の日に聖小屋まで行き三日目に聖岳に登って下山するという計画である。
このルートで一つ大きな問題があった。便ヶ島の聖光小屋に前泊して登るのであるが登山口から陽老岳の尾根に出るまでの樹林地帯には無数の蛭(ヒル)が待ち構えていて登山者に襲いかかると言う。光岳に登った人の手記を読むと必ずといってよいほど蛭の話が出てくるぐらいであるからかなりの名所なのであろう。それでなくても虫に襲われやすい体質の家内は虫とヒル対策の準備に神経を尖らせる。頭から被るネットやヒル退治のスプレーを買ってくる。現に前泊した聖光小屋で下山してきた一人の登山者の腹部にヒルが食いついているのを見せられて恐れをなした。ヒルが衣服の上から侵入し皮膚にまで達していたのである。
確かに長時間かかる登りのきつい山であったが光岳の山小屋に着くと既に6・7人の登山者がいた。早めの夕食をいただきながら同宿の皆さんとの団欒のひと時は楽しいものであるがそこで驚いたことがある。 私は光岳が百名山の90番目に登った山であったがそこに集まっていたのは99番目、97番目、95番目、91番目が二人といった具合で皆私より百名山の先行者達ばかりであったのだ。要するに光岳はどうしても後回しになる山らしい。翌日も晴天で聖岳小屋まで順調に歩けた。以前3000m級の山として友人と登った聖岳は霧のため視界ゼロでなんとつまらない山かと思ったが今回は見晴らしもよくなんと素晴らしい山かと思う。山というのは登った時の条件でこんなにも違ってくるものなのだ。
幸いなことにあれほど心配していた蛭にもやられずに3日間歩けてなんとなく拍子抜けした感じがするが光岳を終えて百名山完登がやっと見えてきた感じであった。

四十三 笠ヶ岳、黒部五郎岳、薬師岳縦走(一)
光岳登山を済ませて間もなく、高校同期の山仲間二人と岐阜県から富山県に連なる北アルプスの笠ヶ岳、黒部五郎岳、薬師岳を一気に縦走する計画を立てた。3座ともそれぞれが結構厳しい山なので縦走ともなると相当な覚悟がいるのだが友人二人は快く同行してくれることになった。
初日は新穂高まで車で行き、そこから林道を1時間弱歩くとわさび平小屋である。ここはハイキングコースにもなっているので軽装のお客さんも多いし、風呂にも入れる。ここで一泊し身体を休めて翌日からの縦走に備えることにした。 翌日の朝食は弁当にしてもらい、宿から少々新穂高方向へ戻ったところにある笠新道登山口へと急いだ。 笠新道の途中に水場がないとの事なので登山口で旨い水を飲んだ。この笠新道は多くの人から大変厳しい登山道であると聞いていたので気を引き締めて歩き出した。
笠新道入口から杓子平への道は急登道であったが嬉しいことに一時間半も登ると樹林帯を抜け、槍・穂高連峰の素晴らしい山容とお花畑が目に入ってきた。 不思議なことに私は前方が見える登山道は大好きで疲れをあまり感じない。 富士山然り、御嶽山然りで気持ちよく足が進む。 そんなわけで思ったより楽に笠が岳山荘に着くことが出来て、午後の早い時間に山頂に立つ事が出来た。 笠新道を正味6時間ぐらいで登ってしまったことになる。インターネットで調べると7-8時間ぐらい掛けて登っている人が多いようであるから我々のペースはかなり速いほうであった。
笠が岳山荘では梯子付き上段の壁なし小部屋が与えられた。 込み合っていなかったが暫くすると一人の老年の登山客が入り込んできた。70歳の田中さんという方だ。話を聞くと前日夕方4時までテニスをやり、その日の夜行バスで新穂高に着き、4時間強で笠が岳に登ってきたとのこと、驚くほどの健脚である。しかも両膝を痛めていて整形外科医に注射を打ってもらっているというのだから恐れ入る。最近は若い人、特に女性軍が山に戻ってきているようだがこのような元気のいい老人にも時々出会うことがある。

四十四 笠ヶ岳、黒部五郎岳、薬師岳縦走(二)
翌日も朝食は弁当にしてもらい、薄暗いうちに笠ヶ岳山荘を後にする。暫くして槍ヶ岳の左から出る日の出を見て感激。弓折岳の直前で、我々より一時間以上も後に出発した田中翁に追いつかれた。弓折岳を出発して間もなく雪渓上に雷鳥の親子を発見。槍穂高縦走に向うという田中さんと別れ、双六岳へのきつい登りを経て昼前に双六岳頂上に立った。中腹にコバイケイソウの大群落。そこから三俣蓮華岳を通過して石ごろごろの歩きにくい道を下り、黒部五郎小舎には2時頃には到着した。
小舎の前はコバイケイソウの大群落。ビールを飲んで暫し景色を楽しみ小舎に入る。ここでも一人一枚の布団で寝られたのは嬉しかった。 縦走を始めて3日目はガスのち曇りの天候だった。朝食を食べ4時半には出発しカールコースをとりカール上部コバイケイソウの大群落の中で一休み。そこから黒部五郎肩を経て黒部五郎岳頂上には8時には着いてしまった。ガスで視界が開けなかったのは本当に残念だったが長居は無用。
急な下りと意外に長い昇り降りの後、中俣乗越で昼食を取った。そこから赤木岳、北俣岳を正午前後に通過ししばらく行くとハクサンイチゲ、イワイチョウなどの大群落に出会った。ここで太郎平を望みつつ休息した後、木道を辿り4時に太郎平小屋に着いた。一人一枚の布団で寝られたのは良かったが、大部屋でいびきの大合唱には参った。
4日目は晴となった。 軽装で小屋を出発し途中で朝食を取るため小休止を取ったが薬師岳頂上には7時前に到着した。立山方面、後立山、鷲羽、水晶、赤牛、槍、穂高、笠、みんな見えて大感激。太郎平小屋に戻って400円のカレー味のカップヌードルを食べ帰路につく。途中、キンコウカの群落を通って正午一寸過ぎに富山県側の登山口折立に着く。そこで体を拭いて着替えをし、タクシーで新穂高駐車場へ戻った。
この縦走はかなりハードなコースであったが、結果的には休憩を含む所要時間でも案内書のコースタイムを下回った区間もあり、よくやったと言っていいだろう。毎日天気予報に脅かされたにもかかわらず、良い方にはずれ、幸運であった。花期が遅れていたためか、各所で見事なお花畑が見られたのは幸運だった。特に、コバイケイソウの群落が目立った。その他、チングルマ、ハクサンイチゲ、アオノツガザクラ、キンコウカ、イワイチョウなどの群落が方々にあった。
[観察した花と鳥と蝶] ∧花∨オタカラコウ、ウサギギク、ミヤマアキノキリンソウ、タカネヤハズハハコ、ミヤマタンポポ、チシマギキョウ、エゾシオガマ、ヨツバシオガマ、イワイチョウ、ミヤマリンドウ、ハクサンシャクナゲ、ミネズオウ、アオノツガザクラ、コイワカガミ、ゴゼンタチバナ、シラネニンジン、ハクサンフウロ、ミヤマキンバイ、ミヤマダイコンソウ、チングルマ、イワオトギリ、シナノキンバイ、ハクサンイチゲ、ミヤマカラマツ、イワツメクサ、コバイケイソウ、ミヤマバイケイソウ、キンコウカ、ニッコウキスゲ、クロユリ、ヒメサユリ、クルマユリ、シモツケソウ。∧鳥∨イワヒバリ(声)、メボソムシクイ(声)、ルリビタキ(声)、ホシガラス(声)、カヤクグリ、ウグイス(声)、ライチョウ親子。∧蝶∨クジャクチョウ、タカネヒカゲ、アカタテハ、イチモンジチョウ。

四十五 百名山残り5座となる
笠ヶ岳、黒部五郎岳、薬師岳縦走を終えた後、未だ登っていなかった比較的近場の会津駒ケ岳(福島県)との至仏山(群馬県)を家内の案内で登り百名山の内95座を終えた。残り5座は北海道の幌尻岳、羊蹄山、利尻山の3山と東北の飯豊山、朝日岳となった。やはりスケジュール的に難しいのは北海道の3座である。
北海道には百名山に数えられている山が9座あるがすでに6座は家内の山仲間のベテランご夫婦にお誘いを受け二回に分けて登頂していた。北海道は広いので車で行かないと効率よく回れない。 二回とも誘って下さったご夫妻のRV車で新潟よりフェリーで小樽まで行き比較的短期間で目的の山々を踏破出来たのであったが、今回は家内との二人旅である。残された3座は離れ離れに存在する。幌尻岳は日高山脈の最高峰で東部に位置し、羊蹄山は札幌近くでどちらかといえば西にあり、利尻山は稚内からフェリーで渡る利尻島にあるから北の方だ。
よほどうまく回る順序を考えないと許された時間内に3山を踏破するのは難しくなる。もうひとつの問題は天候であった。羊蹄山は多少天気が悪くてもなんとか登山可能であるが残りの二つは悪天候にあったら登山そのものが難しくなる。特に幌尻岳は登山に際して数箇所の渡渉場所があり、登山日に晴れていても大雨が降った後では川の水嵩が高くなり渡渉困難な状態になったり、水流が強くなって渡渉するのがすこぶる危険となる。また、登山がうまくいっても上にいる間に雨が降れば下山できなくなり頂上小屋で2・3日待機せねばならないことすら起こりうる。そんなわけで予備日を考え3ヶ所回るのに全日程で10日以上とったのである。すべてが順調にいって日程があまればいくらでも他に登ってくる山はあるのでそれで調整すればよい。
前2回と違い自分たちのRV車で茨城県の大洗から苫小牧までフェリーに乗ることにした。正午前に大洗港を出航したフェリーは翌朝苫小牧に着く。週間天気予報を見て登る山の順序は幌尻岳、羊蹄山、利尻山とした。北海道での初日は苫小牧から車を飛ばして襟裳岬まで行き一泊、2日目には早出をして幌尻岳登山口の山小屋まで行き泊まる。ここで以前よく一緒に山行したことがある家内の知り合いにぱったり出会った。数多くの山の中で同じ山に同じ時に登るというのは確率的に珍しいと思ったら家内はその方に過去2回も偶然山中で出くわしたことがあるという。
翌日は快晴となり勇んで早朝幌尻岳へ向かった。途中登山靴を脱いで膝上まで冷たい流れに浸かって川を渡る幾つかの渡渉箇所があったが何とか無事こなし、終に幌尻岳を征服した。大した苦労も無く登れたのは天候に恵まれたのが大きかったと思う。その日の内に車で羊蹄山の麓の宿までたどり着くことが出来た。

四十六 羊蹄山、利尻山と続く
羊蹄山は別名「蝦夷富士」と言われているだけあって富士山を見ているようだ。登山口まで車で行き頂上を目指して歩き始める。天候にも恵まれ快調に歩を進めていると後からマラソン姿で駆け上ってきた人がいる。頂上まで駆け上るのだと言って我々を抜いてそのままどんどん駆け登って行ってしまった。時々マラソン人やマウンテンバイクで山を登っていく人に出会うが世の中には凄い人達がいるものである。
羊蹄山を大した問題も無く登り終え先を急いだ。その日は稚内近辺まで行き一泊する。翌朝、稚内のフェリー乗り場駐車場に車を止めフェリーで礼文島へ渡った。予約してあった民宿に荷物を置いて礼文岳に登ることにした。礼文岳は花の百名山にも新百名山にも選ばれている山である。それほど高い山ではないが結構汗をかいてしまった。途中で見た可愛い花々もさることながら頂上から見た美しい海岸線がとても印象的であった。
翌日は朝一番のフェリーに乗って利尻島へ向かった。フェリーから見えた利尻山はかなり厳しそうに見える。泊まる民宿は船着場の直ぐ近くだった。その日は足慣らしの為に宿の裏の高台に登りしばし散策をした後町の公衆温泉に入りに行き身体を休めた。
翌日いよいよ利尻山へ登る時が来た。民宿の主人が三合目まで車で送ってくれることになった。 心配していた天気も問題なく、はやる気持ちを抑えながら三合目から出発した。登山道に入って500mほど行ったところに手の切れるような湧き水《甘露泉》がある。日本最北端の100銘水とのことなので早速コップにすくって味わった。このコース唯一の水場であり水筒も一杯に満たした。  
展望のないダケカンバの中を徐々に高度を上げていくとやがて黒木の高木帯を抜けてミヤマハンノキや笹原の明るい尾根道の五合目に出た。天気が良く利尻の山頂と鴛泊港、遥かにサハリンも眺望出来て大感激である。更に休まずに頑張ると、だんだんと傾斜を増した尾根道がじぐざぐになってきて可なり体力を消耗する。ごつごつした岩の道をひと登りすると八合目、避難小屋のある長官山に立った。円錐形の山頂が直ぐ近くに見えた。
まぎれもなく利尻山だ。ハイマツに覆われた山肌の濃い緑が目にしみる。やや平坦な道を過ぎるといよいよ本格的な急登が始まった。直ぐ近くに見えるのにここからが大変であった。胸を突くような急登は半端ではなかった。右手が赤茶けた崩落の急傾斜となって落ち込み、左手は草付きの急斜面なのである。足元はざくざくの火山礫で、非常に歩きにくい。3歩登ると2歩滑り落ちると言う感じである。これほどずるずるとずり下がってしまうのは九州の高千穂峰登山で経験して以来の事だった。
九合目を過ぎると尾根道は風の通り道になっていて冷たい強風が吹き付けていて汗をかくどころか体が冷えていく。疲れて休んでいる人達を次々と追い越して頂上に立った。終に最北端の日本百名山、利尻山に登ったという喜びが湧いてきた。ローソク岩などの奇観を眺めたりしてひとときを過ごした。やはり利尻山は大変な山であった。

四十七 99座目の山で勇気ある撤退
利尻山を終えて百名山完登まで残すのは新潟県の飯豊山と山形県の朝日岳の2座になった。既に両方とも登ってしまっていた家内は「どちらも付き合うよ」と言ってくれていたのだが飯豊山には高校同期の山仲間とも一緒に登ろうと約束していた。 結局、99座目の飯豊山には友人達と登り100番目の朝日岳には家内と登ることにしたのである。
飯豊は何人かの山のベテランから奥が深くて大変な山だと聞いていた。 飯豊連峰を縦走するには数日を要すると言う。我々が目指したのは主峰の飯豊山だけであったが、それでも山の上で一泊せざるを得ないのである。しかも寝具は持って行かねばならない。8月1日に高校同期の友人4名と大日杉登山口より登り始めた。5時間以上も登ったところで急に現れた深い雪渓と大きなクレパスに行く手を阻まれた。尾根に出る手前で切合小屋はさほど遠くないはずだ。何とかして尾根まで登ろうとルートを探したが先行登山者の足跡がどうしても見つからない。
強行突破するか撤退するかリーダーのK君の判断を仰いだ。 暫し黙考した後K君の出した結論は勇気ある撤退であった。 もし直ぐに尾根に出られなかったら日暮れ前に下山出来ないというのがその理由であった。 無理して進んでいたら遭難していたかもしれない。そう考えるとこの判断は正しかったと思う。
その日は何とか暗くなる前に下山できたが日程が一日余ってしまった。 そこで思いついたのがさほど遠くない朝日岳へ回ろうと言うことであった。 朝日岳登山口の一つである古寺鉱泉の朝陽館に着いたのは日が暮れて周りが暗くなってからであった。

四十八 朝日岳登頂と百名山完登
朝日連峰の登山道入口にある山小屋の「朝陽館」は家内からよく話を聞いていたので一度は泊まってみたいと思っていたところである。 大江町の山奥に位置していて、いかにも隠れた温泉という雰囲気である。 宿の駐車場までのアプローチは舗装路なので車でなんなく到着可能だが、そこから宿までは5分ほど歩かねばならない。
到着すると早速温泉に入るようにすすめられた。温泉は鉱泉を薪で加熱したもので、鄙びた風呂場には長方形浴槽がひとつ。二つに仕切られたもので、一方には程よく過熱された湯、もう一方には冷たい源泉が流し込まれている。この湯は入浴中は勿論、浴後もお肌がツルツルになるという嬉しいものだった。 入浴後の食事も宿の御主人が採ってくる山菜は新鮮そのもので美味しいものであった。 ビールを飲んで宿前の清流のせせらぎを聞きながら床に就いた。
翌日になると4人の仲間の内2人が前日の飯豊山登山の疲れが取れず宿で休んでいたいと言い出した。結局、笠ヶ岳、黒部五郎岳、薬師岳縦走に付き合ってくれた二人と日帰りで朝日岳に登ってくることになった。 可なりきつい登りであったが7時間強で往復してしまった。 無我夢中で歩いたので登ったと言う以外の記憶が無いのが不思議である。同行してくれた二人と飯豊山に再挑戦することを決めたのはこの時であった。
百名山最後の飯豊山にはこの友人二人と9月9日に別ルート(川入登山口)より再挑戦し登頂に 成功した。尾根伝いの長い登りであったがこのルートでは雪渓に出会うこともなく本山小屋に着いた。そこで軽装になり頂上に向かった。 主峰の飯豊山の頂上に着いた時であった。 K君がおもむろにデイバックから取り出したものがある。見ると「百名山完登おめでとう」と描いてある横断幕であった。私のためにわざわざ作って持ってきてくれたのであった。 とても嬉しかった。 その時撮って貰った写真は今でも大切に保管している。
このようにして私の百名山は完結したのであるが一つだけ問題が残ってしまった。暫くうちの山ノ神のご機嫌が悪かったのである。 後で分かったのは100番目の山を朝日岳に決めた時に家内は一緒に登って私の百名山完登を見届けるつもりになっていたのだ。 いつも私の登山には無関心の振りをしていた家内だが山嫌いだった私の百名山完登を楽しみにしていたのだ。それを思うと心が痛むがこうなればいつの日か家内が残している百番目の山、甲武信岳に一緒に登って彼女の百名山完登を喜び合いたいと思っている。

四十九 日本百名山あれこれ
普通「百名山」と言えば登山家であり文筆家でもあった深田久弥が1964年に随筆「日本百名山」で紹介した百の山を指す。 日本列島の山から品格、歴史、個性を兼ね備え、1500m以下の山も6座選んではいるが比較的標高の高い山と言う基準を設け選定した山々である。 NHKの番組で紹介されてから中高年の登山ブームを巻き起こして現在に至っている。
この深田久弥選定の「百名山」以外にも山梨百名山など各地の百名山、岩崎元郎選の「新・日本百名山」、作家・田中澄江の「花の百名山」に掲載された100の山があるがそれらは「新」とか「花の」とかの修飾語をつけて呼ばれる。深田久弥の百名山は岩崎元郎選の「新・日本百名山」と重複するのは52座であり「花の百名山」とは39座重複している。 
ちなみにこれら三つの百名山の全てに選ばれているのは雌阿寒岳、利尻山、大雪山、鳥海山、月山、安達太良山、雲取山、立山、仙丈ヶ岳、御嶽山、槍ヶ岳、天城山、大山(゙タイセン)、剣山、石鎚山、九重山、祖母山、霧島山の18座のみである。何を基準にして選ぶかによって名山も違ってくるのであろう。深田久弥の「百名山」を登破した人は「新・日本百名山」、「花の百名山」、200名山や300名山と好みに合わせて登山を続ける者が多いようである。