どっこいそれでも生きてきた(厄介な病との闘い)

私はこれまでいろいろな病に悩まされてきた。 生命の危険にかかわるものはなかったにしろ治療が難しいか治すのに根気と時間のかかるものが多かった。

夜尿症、水虫、蓄膿症、虫垂炎(盲腸炎)、不眠症、トラコーマ(慢性角結膜炎)、全身にわたったオデキ、イボ痔、十二指腸潰瘍、慢性膵炎、糖尿病、膝関節炎、腰痛、腸梗塞、顎の筋肉麻痺(顔面神経痛)、へバーデン結節、脳梗塞、視力異常(50cm2m間のピントぼけ)、ボーエン(Bowen)病等々。手術は7回受けているし一週間以上の入院が8回もある。

現在では治療薬の進歩により比較的短期間に完治できる疾患が増えたが私が患った時にはまだ即効性のある治療法がなく大変につらい憂鬱な日々を送った。

 

 <夜尿症>

恥ずかしいのであまり他人には話さなかったがもう先も長くはなさそうなので明かすことにする。実は十一・ニ才までひどい夜尿症に悩まされていた。ひどい日には一晩に3回も漏らしたこともあった。じわっと股下が暖かくなる感じがして目が覚めるのだ。下着を洗濯するのが大変で母は大変苦労をしていたようだが治す方法がなかった。イナゴを食べるといいとか言われていたが私は頑として聞き入れなかった。 おねしょの回数は年を取るにしたがって減っていったが小学校の箱根一泊修学旅行ははらはらものであった。もしやってしまえば同級生対して面子丸つぶれである。 幸いなことに修学旅行では漏らさないで済んだ。中学にあがった頃から夜尿症は止まった。夜尿症は遺伝性かもしれない。私の二人の娘の内の一人に現れ、息子の子(即ち私の孫)の一人にも受け継がれたのである。兎に角、夜尿症を患っていたころは憂鬱な日々であった。

 

<水虫>

中学2年になった頃右足の小指に豆粒ほどの水泡が出来た。暫くしてかゆみが出てきたので近くの皮膚科に行った。医者は診るなり水虫だといって水疱をつぶして液を搾り出し包帯を巻いて軟膏を出してくれた。水虫に包帯を巻くなんて今ではやらないと思うが当時は周りに広がらないようにとのことで包帯を巻いたのかもしれない。毎日薬を塗って包帯を巻く作業はなかなか面倒なものであった。当時の薬は全く効き目がなく水虫は右足全体に広がっていった。面白いことに私の体質は右半身と左半身とは異なっているようで水虫は左足には移らなかったが水虫との格闘は20年以上続いたのである。

30歳を過ぎたある日近所の薬局で水虫薬を購入しようとしたら「これを使ってみてください」と言って出されたのが特殊な木の皮から作られたと言う「テキテキ」と言う液状の薬であった。患部にこの薬を塗ると数日で皮膚がきれいに剥けて皮膚の下に巣食っていた水虫も23週間できれいに無くなってしまった。「テキテキ」は私にとっては正に救世主であった。今では強力な治療薬も出来て水虫は治るものとなったが20年以上に亘った水虫との苦闘は憂鬱そのものであった。

<蓄膿症>

自転車通学をしていた高校一年の冬のこと学友と下校途中の橋の上で立ち話をしていた時急に寒気を感じた。このとき引いた風邪をこじらせたのが原因で蓄膿症に罹ってしまった。

初めは鼻が詰まって息苦しかったが風邪が治れば元に戻るだろうと高を括っていた。それが何時まで経っても良くならず益々鼻詰まりがひどくなり、その内に四六時中口を半開きにしていないと息が出来なくなってきた。若いときに蓄膿症の手術をしていた叔父が間違いなく蓄膿症だと教えてくれた。叔父の話によると手術は上唇の顔の皮をはいで行うもので大変であったと言う。想像しただけでも恐ろしくとても手術を受ける気にはなれなかった。よく効くと教わった漢方薬も数ヶ月飲み続けてみたが効き目はなかった。その内に「どくだみ」の葉を擂って患部にシップするといいと教えてくれる人がいた。幸いなことに自宅の周りに「どくだみ」が群生していた。すり鉢で「どくだみ」の葉を擂り汁にしたものをガーゼに浸して割り箸の先に巻きつけて鼻の穴から患部に押し込むのである。「どくだみ」の独特の匂も慣れてしまえば苦にならなくなってきたが毎日朝晩この作業をするのは大変であった。「どくだみ」のお陰で少しの改善は見られたものの鼻からだけでは十分な酸素が吸入できず学校での授業中も口から息をしていたのを覚えている。このような状態では学業も身に入らず憂鬱な毎日であった。そろそろ大学受験の準備も始めなければならない時期に差し掛かっていた。事態を重く見た親から執拗に勧められ私も終に手術を受ける決心をすることになった。叔父の時代とは違って耳鼻咽喉科での手術は顔の皮をはぐことはなく鼻の穴から行うものだったが右と左とでそれぞれ一週間づつかかり2週間の入院となった。ところがこんなに苦労して受けた手術は失敗だった。術後一ヶ月経っても二ヶ月経っても鼻の詰まりは消えていかなかった。治らなかったと分かった時は強いショックを受けた。鼻から毎日膿のような緑色の鼻汁を吸い出す作業に追われる日が一生続くのかと思うと生きていること事態が憂鬱になってきた。つらい日々が更に一年ほど続いた頃、とても腕のいい耳鼻咽喉科の女医さんがいるという情報を得た。紹介してくれた人によるとその女医さんに手術を受けた蓄膿症患者は皆完治しているという。藁にも縋る思いでその女医を訪ねた。診察が終わると「これでは苦しいでしょう。鼻の奥の空気吸入口が4歳児のもの程の大きさしかありません。手術すれば治りますよ」と言われその場で手術の予約を入れた。この女医さんの手術はすさまじかった。鼻の穴に大工道具の「ノミ」のような器具を差し込むと金槌でノミを叩き鼻の奥の骨を崩しにかかった。局部麻酔をしているとはいえ女医が金槌で「ノミ」を叩くのが目に映る。手が狂って頭蓋骨を叩き割られるのではないかと怖さが走った。数回金槌が振り下ろされると鼻の奥で骨がくずれるのが感じられ口の中に崩れた骨がザザッと落ち込んできた。その瞬間鼻から勢いよく空気が入り込んできた。トンネル工事で最後の岩が破壊され貫通したような感じである。手術は大成功であった。それまでどんな運動をしても持久力がなくすぐばてていたのがうそのようだ。それ以来鼻詰まりに悩むことはなくなった。

 

 <虫垂炎>

高校3年の夏大事な大学受験の模擬試験の前日になって横腹が痛み出して虫垂炎(盲腸炎)の手術を受けることになった。昔と違って手術を受ければ治るとわかっていたので怖くはなかったが手術前に若い看護婦に下腹の毛を剃られる時はへんに緊張した。

 

<不眠症>

不眠症は母親からの遺伝かもしれないが十代後半に襲われた不眠症は強烈だった。一ヶ月も眠れない日が続いた。「そんなことは有り得ないからどこかで眠っているのさ」と医者や友人達に言われたが毎晩夜から朝まで柱時計の毎時間の時報が聞こえていた。うつらうつらしていたとしても毎時間の時報が聞こえていたのであるから極端に浅い眠りであったことは間違いない。当時母親が常用していた「ブロバリン」と言う睡眠薬をもらって飲んでいたが一ヶ月も続くと頭がぼやっとして何も出来ない。この睡眠薬は後に使用禁止となった。とうとう心配した親に慶応病院の精神科に連れて行かれた。親は受験勉強で悩んでノイゾーゼに罹ったと勘違いしたらしい。ああ、俺もとうとう精神病かと悲しくなったのを覚えている。 慶応病院で処方された薬は強力なもので飲むと一日中眠りこけた。徐々に症状は軽くなっていったが70才を超えた現在でも導眠剤が手放せないのだから全く頑固な不眠症である。

 

<トラコーム>

病原菌は結膜上皮細胞内に寄生する。初期には結膜に濾胞や瘢痕を形成したり、乳頭増殖したりする。その結果、充血や眼脂が見られる。慢性期には血管新生が見られ、トラコーマパンヌスと呼ばれる状態になる。その後瘢痕を残し治癒することもあるが、さらに重症となり、上眼瞼が肥厚することがある。その結果睫毛が偏位し、角膜に接触するため、瞬きするたびに角膜を刺激し、角膜潰瘍を引き起こす。そこに重感染が起こることで、失明や非可逆性の病変を残すこととなる。

この厄介なトラコームに進行する恐れのある結膜炎に留学を2年後に控えた夏のキャンプで不潔な毛布で寝たときに感染してしまったのである。留学には当然身体検査がある。悪性の結膜炎に罹ったままだとパスしないに違いない。家の近くの評判の眼科医に通い始めたのだが数カ月毎日欠かさずに治療に通ったが一向に良くなる気配がしない。目は痒い上に鏡で見てみると充血している。留学の準備をしながらこれの治療がすまなければ留学は諦めなければならないと思うと焦りを伴う憂欝な日々が続いた。友達からの遊びの誘いも全て断り治療に専念した。休診日を除いて雨の日も風邪の日も欠かさずにまる2年間通った時にやっと件の眼科医から完治できたようですねと言われた。その時の喜びは今でも忘れない。それは留学のために必要な身体検査を受ける僅か2週間前であった。

 

<全身にわたったオデキ>

最も仕事が忙しかった35歳の夏、突然臀部にプツッと豆粒ほどの腫れものが出来た。初めは床ずれならぬ椅子ずれによる蓐瘡(圧迫性壊疽の一種)だろうと高を括っていたのだがだんだんと数が増え痛くなり潰すと黄緑色の毒々しい膿が出だした。股のあたりから始まったできものが脚にも上半身にも広がっていった。皮膚科に行って診察を受けたが膠原病のようなものらしいがはっきりしない。分かったのは極端に体の免疫性が低下していて治りにくくなっているという事であった。その内に膿が出てきてそれぞれのできものが大きく盛り上がり痛みで椅子に座るにも身体を斜めにしなくてはならなくなってきた。戦争中疎開先で体中蚤に食われて膿んだ傷口が痛くて全身白い包帯に包まれ歩行困難となり終には数日学校を休むことになった時を思い出した。生まれつきおできには弱い体質だったようだ。戦争中のものは蚤に刺されたのが原因と分かっていたので辛かったけれどもいずれ治るという安心感があったが30歳を過ぎてからの「おでき」は原因が分からず悩んだ。当時はエイズなどというものは世に知られてなかったがもしエイズの噂を聞いていたら悪い遊びなどしていなくてもエイズにでも罹っているのかしらと心配していたかもしれない。それほど免疫力が落ちていたのだ。行きつけの皮膚科で診てもらったが原因が分からず効果のある薬が処方出来なかった。医者は免疫性が極端に弱くなっているらしいとだけ言ったままどうしたら良いかは指示できなかったのだ。 こんな状態が夏中続き途方に暮れた毎日だった。

何軒目かの皮膚科専門医を訪れた時に免疫力を高める良い注射があるので暫く打ち続けてみましょうと言われ、藁にも縋る思いでその治療を受けることにした。毎日臀部に痛い注射を打ってもらった。 2ヵ月も続けると膿んでいた「できもの」はすっかり消えていったのだ。まさに奇跡だった。それ以後このようなおできは発生しなくなった。

 

<いぼ痔>

尾籠な話で恐縮だが30歳を過ぎたあたりから痔を発症したらしいことに気が付いた。出血が酷かったらしく健康診断で貧血症状を指摘された。只、場所が場所だけに中々医者に診てもらう気になれずボラギノールなどの坐薬を使って独自で治療を試みた。一時的には少しの効果はあったが痛みはだんだんと強くなっていった。3年ぐらい経った頃、歩行中に突然激しい痛みに襲われ歩行できなくなった。こうなったら恥ずかしいなどと言っていられない。家の近くの痔の手術がうまいと評判だった外科医院に飛び込んだ。診察してもらうと「よくもまあここまで我慢したね」と言われ即入院、手術となった。54針縫う大手術となった。18歳の時、盲腸炎の手術前に若い看護婦に下腹部の毛をそられて恥ずかしい思いをしたことがあったが今回は手術後数日間毎日若い看護婦に肛門を洗浄してもらわなければならなかった。とても勇気のいることだった。

 

<十二指腸潰瘍、糖尿病、慢性膵炎>

これら三つの病気は職場のストレスに因って生じたものとしてまとめて話すことにする。30歳から40歳までの約十年間外資系企業の電算システム部門で仕事をしていた。経理部に所属していたこの部門は忙しく正規勤務時間を超える月150時間以上の残業が三か月も続くこともあったほどの激務だった。36歳の時に何か月も胸がむかつくので精密検査を受けたところ十二指腸潰瘍が見つかった。それが原因で予定されていた米国での一年間の幹部候補生研修勤務も取り消されてしまった。会社医務室のドクターは会社を休まないで済むよう注射で治しましょうと言ってくれ週2・3回の注射(毎回医務室の可愛い看護婦さんがお尻に打ってくれた)が始まったのである。この注射は可なり長い期間続いたが数ヶ月すると潰瘍は潰瘍痕に変化した。その後も仕事はきつく三日連続の徹夜仕事も経験した。そうこうする内37歳の時の健康診断で糖尿病が見つかった。その時点では未だ疑似糖尿病ということだったのだがその翌年には真正糖尿病と認定された。ここまで進むと完治するのは難しいのでこれ以上悪化させないようにと言うことで家内も呼ばれて食事療法をするよう告げられた。親父も晩年は糖尿病で苦労していたので遺伝体質かなと覚悟を決めたのであるがこれから一生糖尿病と戦っていかなければならないのかと思うと憂鬱であった。ところがさらに悪いことが続いた。脇腹の鈍痛が続いていたのである。2年ほど続いたところで精密検査を受けることにした。なかなかはっきりした病名が分からなかったが総合病院の出した結論は慢性膵炎と言うものだった。当時は本屋に行っても胃腸、食道、肺等の病気療養の本はあっても膵炎に関する本は皆無であった。日本では膵臓の研究が欧米意に比べて極端に遅れていたようだった。慢性膵炎も治す方法がないと言われていた。いよいよ暗い気持ちになってきた。友人の紹介で転職することになったのはそんな時だった。驚くことに職場が変わって3ヶ月もしない内に十二指腸潰瘍、糖尿病、慢性膵炎のすべてが完治してしまったのである。ストレスがどんなに体調に影響を与えるのかを思い知らされた。

 

<左足関節炎>

35歳のときにスキーで大転倒し左足関節を痛めた。かなり痛かったが自然治癒力を信じて医者にはいかなかった。若気の至りであった。60歳ぐらいからその後遺症と思われる左足足関節症がひどくなってきた。左足に体重を懸けられないのだ。当然走ることはできないし、階段を降りるときは右足だけに体重を懸けて降りる。いろいろなスポーツにも影響が出る。ゴルフをするにも左足に体重移動できないので飛距離は伸びない。スキーも右足一本で滑る。長年右足一本で動いていると右足と左足の筋肉の発達に大きな差が出てきて腰痛にも影響してくる。

 

<腰痛>

40代後半「ぎっくり腰」から始まった腰痛が急に悪化し強烈な痛みで夜も眠れなくなった。激痛が波を打って押し寄せてくる。風呂に入って温めてみても痛みは全く弱まらない。ついに入院することになった。手術するかどうかは担当医の判断に任せたが結局器具によるけん引とマッサージをしてみることになった。というのは私が入院した前日に私の母親が亡くなり、その葬儀が控えていたからだ。入院2日目に葬儀となった。絶対安静の状態であったが外出許可をもらい葬儀に出席することになった。霊柩車に乗って火葬場に向かう間激痛のため私はめうなり続けていた。葬儀を無事に済ませた後病院に戻り、それから2週間毎日「腰のけん引」を続け退院した。仕事に戻れるところまでは回復したが完治したわけではないのでその後も腰痛には悩まされ続けた。退職後どんな腰痛でも必ず治せるという坂戸孝志氏主宰の3日間合宿に参加して可なり改善し現在に至っている。

 

<腸梗塞>

45歳の夏、長野県に車で避暑に出かけていた旅行先で突然強烈な腹痛に襲われた。錐で刺されたようなキリキリした痛みに我慢が出来なくなり家内に運転してもらい東京に戻ることにした。東京までの約4時間というもの車の後部座席に横になったがあまりの痛さにエビのように体をくねらせ転げまわった。家に戻らずに清瀬の病院に直行し即入院となった。痛み止めの薬を飲んでも痛みは続いた。下された診断結果は腸梗塞だった。結局3週間入院して完治した。

 

<顔面神経痛-顎の筋肉麻痺>

45歳の夏だった。朝起きると右の顎がだらしなくだらりと垂れ下がってよだれがたれている。人が見て明らかに分かるほど口全体が極端に右に傾いていた。しかも何か話そうとすると唇が閉じないので言語障害の人が話すようにろれつが回らない。なんとか会話は出来たのだがまともな発音にならないのだ。その日は勤めを休むことにしたが2週間後にイラン行きの出張が決まっていたので焦った。鏡を見ても別人のようである。よだれが垂れ出てきてティッシュペーパーで数分おきにふき取らねばならない状態になっていたのだ。一時的な障害であることを願って自宅で静養することにした。数日そんな状態が続くと弱気になってくる。一生こんな状態が続くのかと考えると憂鬱になり生きる気力もうせてくる。とうとう3日目に近くの総合病院に出かけることにした。何科に診てもらえばいいのか分からなかったので受付で状態を話すと脳外科だと告げられた。担当医はやはり脳を調べる必要があると言った。造影剤を使うので使用する造影剤にアレルギー反応を示さないかテストすることになった。私はそれまでにもいろいろの薬にアレルギー反応を示したことがなかったので大丈夫と思っていたのだが結果は意外にも陽性反応を示した。担当医は私に安全という保証はないがやってみますかと訊いてきた。私は不安に駆られて「今日はやめておいてください」と言ってもうしばらく様子を見るほうを選んだ。原因も確かめられない結果に終わって私は益々憂鬱になっていった。ところがそれから一週間ほどして奇跡が起こった。少なくとも私にとっては嬉しい奇跡だった。右顎の筋肉が元通り復活して元に戻ったのだ。10日ほどの言語障害だったがその間の憂鬱な気持ちは今思い出してもぞっとする。

 

<喉の違和感>

咳が喉に絡むのを解こうとして苦しそうな咳払いをするのは本人が辛いばかりでなく周りにいる人達の神経を苛立たせるることにもなる。私は18才の時に蓄膿症の手術を受けて以来小さな痰が頻繁に喉に詰まりそれを通すのに苦労している。自分では無意識にやっているので特にひどい時を除いてはあまり気にならないのだが家内は相当気になるらしく無言で私の前にイソジンの喉噴霧器を置くか部屋を出て行ってしまう。友達にいやな顔をされたことはなかったが一度だけやはり気になるのだなと分かったことがあった。30年ぶりに会った大学時代の友人に「やあ、未だその咳払いやってんだな」と言われたのだ。自分でも気にはなるので何度か耳鼻咽喉科に行って診て貰った事はあるのだが、大抵は喉のトローチを出してくれるだけだ。一番ショックだったのは仕事の同僚にその内喉頭がんになるかもしれないよと言われた時である。ここ数年は風邪をひくと咳が一ヶ月ほど止まらず往生している。今では気管支がやられて死ぬのかなと考えている。

 

<視力の異常>

それは整骨院で腰痛の治療に通ていた時に起こりました。治療医が私の首根っこを抱えてゴキっと音がする位捻ったのです。この治療法は以前にも他の整形外科でやられて気分がよくなった経験があるのですが今回はちょっと様子が違いました。治療を受けたその時点では気が付かなかったのですが家に帰って視力の焦点が合わないことに気が付いたのです。

50cmから2m位の間がぼやけるのです。焦点が合わないのです。その間のものがすべて2重に見えるのです。たとえばゴルフでボールを打とうと構えるとボールが二つ上下に離れて見えるのです。どちらが本物か分からないのです。一番困ったのは階段を上り下りするときです。足をおく所が分からないのです。この状態でもスキーに行きましたが2m位先からはピントが合うので殆ど苦にせず滑降することが出来たのです。しかし日常生活ではいろいろなところで苦労しました。友人は治療した整骨院を訴えるべきとも言われましたがその整骨院には行くのをやめしばらく様子を見ることにしました。他の整骨院には行きましたが首を捻ろうとする整骨医には首は捻らないでほしいと告げました。やはりこれも一生続くのかと思うと憂鬱な気分になりました。ゴルフも出来ない状態が続いたのですが1年ほどすると突然この視力ぴんぼけの状態は消えてしまいました。

 

<へバーデン結節とプシャール結節>

治療法が見つかっていない老人病として知られているヘバーデン結節なるものにかかり始めたのは70歳に近づいた頃だった。それより数年前から家内がこの手指の異変にかかっていたのを見ていたのですぐにヘバーデン結節というやつだなと分かった。ヘバーデン結節というのは手指の第一関節に異常が現れるもので最初は関節が痛みと共に腫れてきてひどくなると関節が焼き付いたように固まり斜めに曲がりだす。私の一番ひどい指は盆栽の松の枝のように「く」の字に曲がってしまっている。NHKの医療番組ではヘバーデン結節は23年で痛みがなくなってくると言っていたのだが私の場合は10年以上たっても痛みが取れない。四六時中痛んでいるわけではないが夜中に痛みで目が覚めることもある。同じような現象が第二関節に出たものはどう言う訳かプシャール結節と呼ばれている。私の場合は両方が出て今や10本の指の内まともな指は三本しか残っていない。

へバーデン結節に関しては今までに多くの人にこれが絶対に効くと薦められた数々の水(還元水、波動水、アロマ水、モクレン、ノニ、イチョウ葉、アメリカで仕入れてきたNopalea等)を数か月続けて飲んでみた。モクレンに関しては試した量が少ないかもしれないがそれ以外のものはこれだけ飲めば効果が出る筈だと言われた量を試した。しかしながらいずれも期待した効果は認められなかった。ヘバーデン結節治療に実績があると言われていた病院も三か所ほど通ったが効果は見られなかった。それぞれ高価なものや高額な治療費だったので今までにヘバーデン結節治療に費やした金額は100万円ぐらいにはなっている。

 

<薬物依存症>

気が付いた時には既に薬物依存症にかかっていた。長年不眠症に苦しんでいた私は70才を過ぎた頃からホームドクターにマイスリーなる導眠剤を薦められて飲み始めた。初めのうちは1週間に3,4回のペースで飲んでいたのだがよく効くし、目覚めた時に眠気が起こらない上、副作用がほとんどないと聞いていたので安心して殆ど毎日飲むようになっていった。飲むと大体15分ほどで急激な眠気に襲われよく眠れた。常用しだして1年ぐらいたった頃から、飲んだ後眠気が現れる前に自分の周りに複数の人間がいる幻覚に襲われ始めた。しかし周りをすっと見回すと誰もいない。まあ変なことがあるもんだと思いながらも毎回起こる現象ではなかったのであまり気にもしないでいた。マイスリーを使っている友人も多かったし、インターネットで調べてもマイスリーは副作用がほとんど出ない導眠剤として紹介されていたからだ。ところが常用しだして2年ほどたった頃とんでもない事態が発生した。私と同じようにマイスリーを多用していた家内が夜中に自分では意識していない状態でパソコンをバラバラに壊したり、ベランダに出て飛び降りる幻想に襲われ始めたのだ。それを聞いた息子が「僕もマイスリーを飲んでいたが薬物依存症になり苦労して服用をやめた」という話をしたのだ。息子に.インターネットではマイスリーは副作用がほとんどないと紹介しているというと「マイスリーの副作用」と入れて検索してみるといろいろ副作用の例が挙っているよと教えてくれた。調べてみると私の体験した「周りに人の気配を感じる」と言う例も紹介されているではないか。私はアルコール依存症で大変な苦労をした親友の事を思い出して急に恐ろしくなり薬を断つ決心をした。マイスリーを断った初日は寝る時間になると恐ろしいことに身体が薬を要求してきた。ああこれが薬物依存症の症状だなと思った。それでも飲まずに我慢して寝付くのに4,5時間かかったが頑張通した。そんな依存症との戦いが1ヶ月も続くとさしもの依存症も消えていった。これも引退していて昼仕事をしないで良かったのでできたことだと思う。

 

<脳梗塞>

75歳の時自動車運転中だった。東京新宿の都庁ビルのそばを走っていると突然左目に黒い幕がかかってきた。始めは虫が飛び込んだかと思って手でこすってみたが幕は消えないばかりかどんどん下がってきて終には完全に左目全体を覆ってしまった。慌てて路端に車を止めた。10分ほど休んでいると左眼を覆っていた黒い幕は消えていった。気になるので翌日眼科医に診てもらった。診察の結果大きな病院で脳の検査を受けた方がよいと言って紹介状を書いてくれた。脳外科医にMRIで調べてもらうと脳梗塞が見つかった。家に帰ってインターネットで脳梗塞を調べてみると症状の一つに[片目に幕が掛かり7~8分すると元にもどる]というのが書かれていた。私の経験とぴたりと一致していたのだ。それ以来脳外科医に処方された数種類の薬を飲み続けているが80歳になってまたもや同じような脳梗塞が発症した。今度は右目が一時的に見えなくなった。二度目なので脳梗塞とすぐに分かったが今回は理由がはっきりしていた。80歳になりボーエン病(皮膚がんの一種)の外科手術を受けるにあたって2週間以上脳梗塞予防のため服用していた薬の中の「血液サラサラの薬」の服用を止められていたのだ。血液サラサラの薬は脳梗塞予防に意味があることが証明された。やはり脳外科医に処方された薬は嫌でもずうっと飲み続ける必要があるようだ。

 

<ボーエン病>

若いころから右手薬指の側面付け根から爪楊枝の先端のような割れ爪(実は爪ではなかった)が生えては潰れて出血や膿が出る状態が繰り返されていた。煩わしいが日常生活に大きな弊害を及ぼすものではなかったので永年ほっておいた。79歳になり死ぬ前に何とか指を綺麗にしたいと思い東京医療センターに行くと皮膚科に導かれた。若い女医さんだったがしばらく患部を観察した後、イボの可能性があるのでしばらく様子を見たいと言い1ヶ月後の再診となった。一か月後の再診ではイボではなさそうなので生体検査をすると言って患部を抉り取った。一週間後に判明した検査結果はボーエン(Bowen)病(皮膚がんの一種で、ある範囲を超えて広がると癌が内蔵に転移して死に至ることもあるという)だった。そんな病名は知らなかったので癌保険会社に電話してみるとボーエン病は癌保険の対象になっていると言われた。すぐ手術した方がよいとのことで即23日の入院で手術を受けた。

色々な疾病を経験して来たが左足関節炎と、腰痛,へバーデン結節と喉の詰まりは未だに解決できないでいる。まだ数年生きていれば更なる病に出会うかもしれないがめげずに頑張って生きている。